アーバンカルトの獣(けだもの)

ゆずた裕里

一日目

その1

「天にまします我らの父よ……」


 遠くに巨峰を望む豊かなアーバンカルトの草原の一角で、青年がひとり十字を切りながら、仕留めた兎の脚を木の棒に縛りつけていた。

 身に着けている斧やナイフなどの武器から、彼が狩人であることは一目瞭然であった。

 しかし、彼の肩幅は普通の人間よりも広く、その肌も緑色をしている。

 そう、彼は人間ではない。いわゆるオークと呼ばれる種族であった。

 オークと言えば森に棲み、人間のような集団生活を築く怪物である。

 人間よりも二回りほど大きな身体を武器に猛獣さえも軽く仕留め、時には人里に下りて人間を襲い食べ物などを奪うこともあった。彼らの知能は低く、その行動はほとんど本能によって行われる。

 しかし、今そこで兎をしばっている彼は人間の言葉を話し、神に祈りをささげている。とてもオークではありえない行動であった。

 と、そこに……。


「また神様に感謝してんのか。感謝するならこの大地、この山、この大空、すべてに感謝しろと言っているだろう。この兎を俺たちに授けてくれたのは神様じゃない。森羅万象、この大自然なんだ」

「なら世界のはじまりに、すべての大自然を作った神様に感謝するよ、父さん」

「ふん、勝手にしろ」


 オークの青年に声をかけたのは、白髪交じりの髪をした、髭面の中年男であった。彼の肌は多少日焼けして浅黒いだけで、その姿はまぎれもない人間であった。

 男の名はマシュー。この年の秋で、生まれて四十五年になる男だ。

 背中には鞘に納まった手斧が二本、背負うように縛り付けてあり、腰には刃渡り三十センチはあろうかという巨大なナイフ。その隣には様々なものを納めてあると思しき薄汚れた巾着袋、そして腕から指先にかけての数多の古傷。これだけでも、かなり手練れの狩人であることがわかる。

 背丈もオークの青年にはかなわないものの高く、人間の男としてはかなり大柄であった。


「できた!」

「ほう、お前もようやくヒモが結べるようになったか」

「大変だった……」

「やれやれ、この調子じゃ俺が死ぬまで罠の作り方をマスターできるかどうか……」


 オークの青年、名はクマヨシという。彼はまだ歩きも出来ぬ幼い頃に森で捨てられた。恐らく仲間のオークから、体が弱いとみなされたのであろう。その時、森に狩りに出ていたマシューに拾われ、人間の狩人として育てられたのであった。マシューが家を留守にしている間は教会に預けられ、そこで言葉と道徳を学んだ。オークが人間の言葉と道徳を学ぶとは普通では考えられないことで、彼に言葉を教えた神父も「これは奇跡かもしれない」と語っていた。

 クマヨシの身体はマシューよりも一回り大きく、力も強かった。一度は襲い掛かる牡鹿の角をつかみ、投げ飛ばしたこともある。

 だがやはりそこはオーク、罠を作ったり紐を結んだりするような細かい仕事はあまり得意ではないようだ。

 マシューはなぜクマヨシを連れて帰ったか、今まで誰にも語ろうとしなかった。他人に聞かれたときは、ただの気まぐれだ、といつも語っていた。

 ちなみにクマヨシの名前は、マシューがかつて盲目の吟遊詩人から聞いた、東の果ての国の物語に出てくる伝説の英雄の名前からとった。現代の日本で例えるなら、いい年した大人がマンガの主人公の名前を自分の息子につけるようなものであり、今となってはマシュー自身少し後悔していた。


 ふたりは昨晩から鹿などの大型の動物を仕留めに森に出たが結果は振るわず、その代わりに罠で兎を仕留めて帰る途中であった。

 杖をついて草原を進むマシューの後を、兎を五羽結わえ付けた棒を肩に担いでクマヨシが続く。目指すは草原の中程を流れる小川の上流、マシューたち一家の住む小屋だ。

 小川沿いにせせらぎを聞きながら、マシューは静かに話しかける。


「クマヨシ、一つ聞くぞ」

「なに?」

「今日とった兎、何にして食う?」

「うーん、丸焼き?」

「シチューはどうだ? パイは?」

「あっ、それもいいねぇ!

どうしよう……」

「クマヨシ! 狩りは一瞬の判断が成功と失敗、そして己が身の生死をも分ける。直感で選び運命に従い、次の判断の機会を待つんだ。あと、さっきのお前の判断は丸焼きだったのだから、今晩は丸焼きだ」

「はい……」


 どこからともなく風が吹いてきて、汗にまみれたふたりの体をいやす。マシューは晴れ渡った大空を見上げると、ふと思い出したようにつぶやいた。


「そういえば、お前も嫁を貰う年になったか」

「うん、人間だったらそろそろ身を固めてもいい頃だよね」

「もう少し狩りを覚えたら、一緒に嫁さがしだ。でもいくらお前がオークだからって、女を攫ってくるんじゃないぞ」

「そんなことしないよ。それにその件なら、僕よりも姉ちゃんの心配したほうがいいんじゃないかな?」

「ああ、あいつには男を攫ってきてやらんといかんかもなぁ……」


 マシューはそう言うと、クマヨシとふたりして思わず笑いだした。笑ったことで体力が回復したのか、小屋まで着くのにさほど時間はかからなかった。扉の前で体をほぐすように体操をすると、マシューは小屋の扉を開けた。


「ただいま、今帰ったぞ!」

「おかえりなさい! 結果はどうだった?」


 小屋に入ったふたりを、これまたがっしりした体格の女が出迎えた。彼女がマシューの実の娘、ミカである。

 マシューにはナオミという妻がいた。彼女は強気な性格だったが病気がちで体が弱かった。そのためナオミはミカを産んだ後に体調を崩し、そのまま天に召された。しかしナオミの性格は完璧にミカに引き継がれ、成長した今ではまるで生き写しのような存在となっていた。このことはマシューも、


「あいつ、死んでそのまま娘に乗り移りやがったらしい」


 などと語っている。

 生前のナオミの性格にはマシューも時々手を焼くほどだったが、体の弱さがそれを抑えていた。しかしミカはマシューから受け継いだ頑丈な身体に育ったために、完全無欠のじゃじゃ馬娘が出来上がってしまった、というわけである。

 マシューはそんなミカに、満面の笑みを向けて答える。


「ボウズだ。せっかく昨日の晩に罠をしかけたのに、鹿も猪もかからなかったよ。代わりにほら、兎をいっぱい捕まえてきた」

「うん、上等上等! じゃ、この兎で何を作ろうか?」


 その時、まるでミカが言うのを待ち構えていたように、クマヨシは言った。


「姉ちゃん、シチューにしてくれよ!」

「はいよ!」


 そして、マシューの方を向いて、


「父さん、次の判断の機会を待ったよ」

「うむ」


 クマヨシが言ったそのとき、台所からミカの声が。


「ああ、ごめん。お野菜がないから、今夜は丸焼きね」

「えーっ」


 それを見て、マシューは見た目らしく豪快に笑った。


「クマヨシよ、これが運命というやつだ。飯の前に汗を流してこい」

「はい……」


 クマヨシは荷物を下ろすとそのまま裏口から水浴をしに小川に向かった。

 台所のミカは、早速肉切り包丁で下ごしらえを始めていた。その合間にマシューは、イスに座って声をかける。


「なあミカ、酒持ってきてくれよ」

「酒? いま切らしてるよ」


 そう聞いたマシューは眉間にしわをよせた。


「なんだって?お前、罠に使うこともあるから酒は切らしとくなって、いつも言ってるじゃねえか!」

「罠に使ってるとこなんて、アタイ見たことないんだけど?買ってきたらいつも晩酌で全部飲み干しちゃうくせに」

「それはな……その……」


 ミカにずばり言い切られて、マシューはしょげたように口ごもる。歴戦の狩人とはいえ、この母親と娘にはどうしても勝てない。マシューは白髪交じりのあご髭をよりあわせるようにいじりながら、テーブルに肘をついた。

 と、その時、外から火にくべられた木の実が爆ぜるような音がした。ただ木の実にしては、音が大きすぎる。ミカも包丁を手にしながら、音のした方角に耳を傾けている。


「なんの音?」

「分からん……」


 しばらくしてふたたび爆ぜるような音。さらに耳をすませば、どこかで騒ぐような声が聞こえる。そして断続的に続く爆ぜる音の中で、次第に足音がこの小屋に近づいてくるのが分かった。そして……。


「父さん!」


 クマヨシが裏口の扉を破るようにして小屋の中に入ってきた。水浴の途中だったのか、ほぼ全裸の状態で焦ったように訴えかけた。


「なんか訳わかんねえヤツが突然襲ってきたんだよ!」

「分かったからその馬鹿でかい汚いものをしまえ!」


 言ったと同時に再び外から爆ぜるような音が響き、テーブルの上にあった陶器の水さしが音を立てて砕け散った。これにはさすがのミカも、女の子らしい悲鳴をあげた。


「ミカ、扉を閉めて、鍵をかけて伏せてろ」


 クマヨシは部屋の奥へ逃げるように服を取りに行った。その一方で、ミカは言われた通りにするとテーブルの下に伏せた。

 マシューも背中の手斧に手をかけ、姿勢を低くする。普段の姿じゃ考えられないような怯えた声で、ミカはマシューに話しかけてきた。


「いったいなんなの?」

「鉄砲だ。俺は狩りで使わないから、お前たちが見るのはこれが初めてになるだろう。俺の若いころには音はうるさい、撃つのに時間がかかる、それに当たらないわ威力は弱いわで使っているのは見栄っ張りの馬鹿くらいのもんだったが、最近は性能が上がってるみたいだな」


 その時、扉の向こうからまた別の足音が聞こえる。その音に殺気を感じたマシューは急いで扉にかけよると開けられないように扉を押さえた。直後、扉をぶち破ろうと何者かが勢いよくたたきつけてきた。

 恐らく銃床で扉を殴っているのだろう。もしマシューが押さえていなかったら、扉を壊されていたかもしれない勢いだった。必死に扉を抑えるマシューの耳に、怒鳴り声が聞こえる。


「おいマシュー! 開けやがれ!」


 程よく低く、遠くまで響く声。マシューにはこの声に聞き覚えがあった。


「パトリックか。一体何の用だ?」


 パトリックはかつてマシューと同じ狩人だったが、三十歳を前にして森を後にし、牧場主になった男であった。どうやら動物を狩るより育てる方が性分に合っていたらしい。そして、若い時の彼こそがマシューの語った『見栄っ張りの馬鹿』であった。

 マシューとパトリックは扉をはさんで、十数年ぶりの再会とは思えないような丁々発止の言い合いをはじめた。


「てめえのせがれを引き渡してもらおうか!」

「ああ、引き渡してやるが、どうするつもりだ?」

「俺の手でぶっ殺してやる!」

「ぶっ殺すのは結構だがな、理由を聞かせてもらおうか?」

「てめえのせがれに聞きな! 昨日の晩に何をやったか!」

「こいつは昨日の晩、俺と一緒にシカ狩りの罠を仕掛けてた。不器用な奴でな、まるまる一晩かけてあたりに鹿がいなくなった明け方に、ようやく完成させたんだ」

「嘘をつけ、そいつはお前が知らない間に女を殺しに行ってるんだぞ!」


 突然人殺し扱いされたクマヨシは、マシューのはるか後ろでズボンをはきながら静かに訴えた。


「父さんが寝てる間も、僕はずっと罠を作ってたんだよ、本当だよ」

「ああ、分かってる」


 マシューは優しく答えると、ふたたびパトリックに声をかけた。


「とりあえず話し合おう。武器を下ろせ」

「断る! 開けないなら扉ごとてめえをぶちぬくぞ!」


 扉を殴りつける音が止んだ。パトリックは銃に弾を込めているのだろう。先ほど撃ちまくっていた時のことを考えれば、弾込めにかかる時間は思っているより短い。その間になにができるか。

 マシューは背中の手斧を右手でつかむと、小声でミカに声をかけた。


「ミカ、肉を窓から投げろ」


 ミカは小さく頷くと大き目の兎を二羽ひっつかみ、窓の外へ放り投げた。地面の上にそれがどさりと落ちる音がしたその瞬間、マシューは一気に扉を開け、手斧を振り下ろした。

 パトリックが音に気を取られた一瞬のうちに、手斧はライフルを直撃した。ほぼ同時に、爆音とともに銃弾が床を貫く。そして直後には、マシューの手斧の刃はパトリックの右首筋に当てられていた。


「年甲斐もなくイキりやがると首を刎ね飛ばすぞ」


 一瞬でパトリックの顔が青ざめたのを見たマシューは、


「あとヒゲも剃れ」


 ニヤリと笑って斧の刃をパトリックの右頬に撫でるように当て、無精ヒゲを綺麗に剃り落とした。

 ふとマシューが外を見ると、他にも何人かの男たちがその一部始終を見守っていた。まるで見世物にされたようで気に食わなかったのか、マシューは一団にどなりつけた。


「あんたらはカカシか?

突っ立ってないでこっち来い!

あと、酒持ってるヤツ、こっちによこせ」


 マシューの手荒い歓迎を受けて、一団は小屋へと足を進めた。




「ここ最近、アーバンカルトの周りで妙な事件が起きてんだ」


 マシューやクマヨシとテーブルを挟んで話しはじめたのは、アーバンカルトの大地主、ハンスじいさんだった。彼もまた、傍らに銃を持っていた。ほかの男たちも、農具や包丁などなんらかの武器になりそうなものを手にしてはいたが、殺伐とした様子もなく家の中でくつろいでいた。どうやら本気でクマヨシを殺そうとしていたのはパトリックだけであったようだ。


「先月、となりのネーレ・アリスマの村で畑仕事をしていた若い女が殺された。森の近くで喉を食いちぎられた姿で見つかったから、みんなは狼の仕業だと考えて、山狩りをしたんだ」

「それは知ってる。俺もあんたと牧師から頼まれて狼を仕留めに行った。その後何があった?」

「山狩りをしてしばらくは、特に獣害も起きることはなかった。だが先週から、また畑仕事や家畜の世話をしていた女や子供が次々と行方不明になったり、無残な姿で見つかった。そして昨日、ついにアーバンカルトの森の近くで、農家の娘がひとり殺されたんだ。酷く犯された上に、喉を何者かに掻っ切られて」

「この辺で、そんなことをするような化け物はお前のせがれくらいのもんだ」


 部屋の隅で酒をあおりながら、パトリックは冷たく言い放った。

 それに言い返すように、マシューは低い声で言う。


「わかった。そこまで言うのなら、俺とせがれも化け物狩りに協力しよう。あんたらも本当のところ、それを俺に頼むつもりで来たんだろう」


 その言葉に、パトリックが立ち上がり何か言い返そうとした瞬間、


「安心しろ、せがれは四六時中俺が見張っておく。もし万が一せがれが変な真似をしようとしたら、その時は……俺がこの手で殺す。それで文句はないだろう」


 遮るようにマシューは言い放った。そのグレーの目は、パトリックを強く睨みつけていた。

 パトリックは気圧されたようにしゃがみこむと、再び酒に口をつけた。マシューはその態度を了承と受け取った。


 アーバンカルトのあるエクプリス地方には、熊や狼といった動物からオークや精霊の類まで幅広い種族が棲息しており、古から人間とたびたび争いを繰り広げてきた。彼らを討伐するのはアーバンカルトの北にあるこの地方の中枢都市、ノイバーブルクから来る兵士や傭兵、もしくは狩人の仕事であった。

 その人間とけだものとの戦いを、マシューたち狩人は先祖代々ずっと語り継いできた。温故知新の考えが、彼らには息づいていた。


 マシューは念のため、ハンスじいさんたちにも声をかけた。


「あんたらは?」

「わしらからも、よろしく頼む。事件が解決したら、それなりに礼も出そう」

「それは助かる。ありがとう、じいさん」


 マシューはさきほどの威圧的な態度が嘘だったかのように、深々と頭を下げた。そんなマシューの姿に、ハンスじいさんは安心したようにさらに尋ねた。


「ところでマシュー、森の生きものに詳しいあんたに聞きたいんだが、犯人の目星はつきそうか?」

「いや、話を聞いただけじゃまだこいつだ、と言い切ることはできねえが、動物だろうと化け物だろうと、一連の殺しは全部同じ奴だと考えていいだろうな。奴らは一度人間の味を覚えると人間しか襲わなくなる。それに襲った人間の特徴、たとえば若い女なら若い女の見た目や匂いを覚えて、何度も執拗に狙うんだ。つまりチェスと同じだ。人の味を覚えたキングを取らなければ、どれだけ無関係な他の駒を殺したところで俺たちの勝ちにはならない」

「そうか……解決するまでどれくらいかかるだろうか?」

「それは分からん。探す側の人数にもよるだろうが、明日にでも捕まるかもしれんし、秋になっても捕まらないかもしれん。何かあるのか?」

「ああ、できればだが、この事件は四日以内に解決したいんだ。どうやらノイバーブルクの役人がこの事件をかぎつけたらしく、四日後に調査隊が村に来るという話を聞いた。もしそれまでにこの事件が解決できていなければ、この村に自治を任せるには不安だとされて、自治権を連中に奪われてしまうかもしれん」

「なるほど。あんたらとしてはできれば犯人を広場にさらしものにして、都会の役人連中に見せつけてやりたいってところだな」


 アーバンカルトの村が誰のものになるかなど、山に生きるマシューにとっては関係なかった。しかしハンスじいさんたち村の人々はいわば今回の仕事の雇い主だ。彼らに逆らう理由などない。マシューは頷きながら続けた。


「願いどおりになるかは分からんが、できるかぎり手は尽くそう。ただこっちもいくつか頼みがある。まず、昨晩殺された娘の遺体を見たい。傷口や遺体の荒らされ方だけでも何か分かるかもしれん。葬式はいつ始まる?」

「なるほど……すまないマシュー、娘さんの死体はついさっき埋葬されたところでな。掘り起こすにしても親御さんのことを考えると、あまりおおっぴらにやらず、日の暮れた後にひっそりとしてもらいたい。それで、他の頼みってのは?」

「そうだな、うーん……」


 マシューは言いながら立ち上がると大きく伸びをして、続ける。


「俺もクマヨシも昨日から夜通し狩りに出てたんだ。今晩までは休ませちゃもらえないか」

「分かった。日が暮れたら見回りがてらお前さんたちを迎えに行こう。それまでにそっちも準備をしておいてくれ」

「よし、よろしく頼む」

「ああ。こっちこそ」


 ハンスじいさんはマシューと握手を交わすと、パトリックや他の若い衆を連れて小屋を後にした。去り際に、パトリックはマシューに捨て台詞を残した。


「てめえのせがれを、よく見張っておくんだな」

「心配するな、ここのところずっとご無沙汰なんだ。いい薬知らないか?」


 パトリックはマシューのくだらない返しに舌打ちすると、小屋を出て勢いよく扉を閉めた。

 マシューがやれやれ、と一息つくと、ミカはいけすかない顔でオーブンから灰をひとつかみし、扉を開けて外に撒いた。この地方に伝わる魔よけのおまじないだが、嫌な客がもう来ないように追い返す意味合いもあった。

 ミカはナオミの気の強さを思い起こさせるような怒り顔で、吐き捨てるように言う。


「なによあのオッサン! 偉そうにして、本っ当いけすかない……」

「もういいさミカ。怒って生きるには人生は短い。あれは元々ああいう人間だ」


 マシューは大きなため息をつくと、うつむくクマヨシに声をかけた。


「そういうわけだクマヨシ、準備をしておけよ。お前もいつかはこういう仕事もすることになるんだ。いい機会だ」

「うん、分かったよ」

「巻きこむような形にしてしまってすまんな」

「仕方ないよ父さん、それでさ……」


 クマヨシは気持ちを切り替えるように、マシューに声をかける。


「パトリックっていう人さ、昔オークにひどい目に遭わされたの?」

「そんなことはない。あいつは昔から獣や化け物を殺すのに理由なんていらんと言って、無益な殺生を平気でするようなやつだった。そんな奴が自然とともに生きられるわけがない。あいつが森を去るのは、いま思えば当然だった」

「そっか……」

「なに、気にするな。世の中にはくだらんことで他人を目の仇にするヤツがいて、あれもそのうちのひとりってだけだ。飯を食ったら、今晩に備えて寝ろ。休めるときに休んで体を整えるのも猟師の仕事だ」


 マシューの言葉に、クマヨシは小さくうなずいた。




 マシューとクマヨシはウサギの丸焼きを腹いっぱいに詰めこむと、何も考えず、すぐに横になった。

 そして夢も見ない、ただ休むだけの眠りのうちに陽も暮れて、ふたりが目を覚ましたころには、小屋の周りは暗闇と静寂に包まれていた。今は人間の時間ではない。闇に蠢く、獣たちの時間だ。

 マシューの目は完全に冴えていた。マシューは手斧の刃をランプの灯りに当てながら磨き、来たるべき戦いに備えていた。続いて両足に脚絆を巻いて、ふと隣に目を向けると、クマヨシが眼をこすりながら、眠気覚ましにハッカの葉をもぐもぐと噛んでいる。だがマシューはそんなことなど気にも留めない。クマヨシは目が覚めるまでに時間がかかるが、完全に覚醒すれば誰よりも役に立つことを知っているからだ。

 今日もよろしく頼むぞ。

 マシューが思ったその時だった。


「父さんもクマヨシも、気をつけてちょうだい」


 ミカがどこか心配げな、暗い表情で話しかけてきた。マシューは今まで何度も彼女をひとり家に残して狩りに出てきたが、こんな表情を見たのは久しぶりのことだった。


「おいおい、どうした?いつものお前らしくないじゃないか」

「なんだか、今回の仕事は不吉な予感がするんだよね」

「なに、どうってことないさ。いつもの狩りと同じだよ。お前はいつも通り、成果を楽しみにしてるわ、って笑って見送ってくれるだけでいいんだ」

「そう?……そっか」


 ミカの表情が、ほんの少しだけ明るくなった。恐らくミカは、女を狙うという例の怪物を恐れているんだろう。そう思ったマシューはミカを励ますように、


「心配するな。俺もクマヨシも、二、三日すれば戻る。それまで、家の戸締りをしっかりしていれば大丈夫さ。この家は、お前に任せたぞ」


 マシューが言いながらその肩を叩いてようやく、ミカはいつも通りの笑顔を取り戻した。彼女が幼い時から変わらない、あどけない笑顔だった。

 これで安心して戦いに出れる、と思ったちょうどその時、窓の外に橙色のランプの明かりが揺れるようにちらついた。マシューは紐をタスキがけのように結んだ背中に、鞘に納めた手斧を背負うように挟むと、ゆっくりと立ち上がりながらミカに声をかけた。


「迎えが来た。じゃあ行ってくるからな。行くぞ、クマヨシ!」

「はい!」


 マシューに呼ばれたクマヨシの声が、部屋の中にはっきりと響いた。

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