その7
マシューは倒れこむように半開きの扉を閉じ、かんぬきを閉めたところだった。
とっさにマシューは左腕をかかげ、振り下ろされたウィレムの右腕を防いだ。だがナイフの刃渡りは長く、刃先はマシューの首筋にあと数センチというところまで迫っていた。ウィレムの首を切る手口を知らなければ、マシューの喉はすでに切り裂かれていたところだろう。
だが、攻撃はそれで終わりではなかった。
密着していたはずのウィレムが、いつ離れたか半歩ほど後ろに下がっていたと気づいた瞬間、マシューの肩口は切り裂かれていた。手入れもなされていないナイフのためかそこまで傷は深くないものの、するどい痛みだけは避けられなかった。マシューはとっさに前蹴りを繰り出し、追撃をしようとしていたウィレムの腹部を蹴飛ばした。
考えたり、動揺したら終わりだ。
そう察したほどに、ウィレムの動きは素早かった。そうしているうちにもウィレムはいつの間にかマシューから距離を取り、こちらの様子をうかがっていた。
マシューはたすき掛けにしていたムチを外すと、まるでロープで動物を捕まえるかのように両手でピンと張ってかまえながら、ゆっくりとウィレムに近づいていった。ナイフを持った手を縛れば、攻撃を封じることもできる。
すると突然、ウィレムは口にナイフを咥えたと思うと、四つん這いでこちらに走ってきた。
その人間とは思えない動きにマシューは面食らいながらも、飛びかかってくることを見越してムチをかまえた。飛びかかってきたら首に巻きつけ、そのまま四つん這いで来るなら蹴ればいい。
しかし。
ウィレムはあと数歩、というところで右手にナイフを握ると、マシューとすれ違う瞬間に立ち上がるようにして、マシューの脇腹を切り裂いた。考えの間をついた一撃にマシューがあおむけに倒れこんだところに、すぐさまウィレムは上から覆いかぶさるようにナイフを突き立てようとした。
マシューはほぼ反射的に、上から飛びかかるウィレムのあごに両足で蹴りを入れた。マシューが後ろに転がって起きた頃には、ウィレムは小屋の中のどこかに姿をひそめていた。
ウィレムの先の動きはマシューにはまったく読めなかった。ウィレムの動きは非常に素早く、まるで人間と狼がかわるがわる姿を変えて襲ってくるようであった。その変幻自在っぷりに気押されつつも、マシューはその姿を探し求めた。
大柄なマシューの身体が、まるで巨大な動物のようにゆっくりと動く。肩をいからせ、その眼は小屋の中をぐるりとくまなく見まわしていた。
奴は、いったいどこだ。
ふと、パトリックの姿が目に入る。パトリックは壁を背にしてへたりこむように座り、ただうつろな目でふたりの戦いを見ていた。血はまだ完全に止まっていないようで、肩口を押さえた左手から鮮血が腕を伝っているのが見える。
その時だった。
マシューのすぐ後ろ、高い位置から物音がした。
すかさず振り向きながら後ずさると、その場所にウィレムが降り立った。もし気づくのが一瞬遅ければ、マシューの脳天にナイフが突き立っていたのは確実だった。
直後にナイフとムチの応酬が続く。マシューはナイフを突き出すウィレムの手を短く持ったムチでしたたかに打ちつけていった。しかしウィレムはナイフを取り落とすことなく、さらにマシューの喉仏のあたりにナイフをつきだしてきた。
とっさにマシューはエビ反って一撃を避けたが、歳のためか、そのまま後ろに倒れこんでしまった。
追撃が来る!
マシューは反射的にムチを伸ばすと、ウィレムのいる方向に思いっきり振った。マシューはせめて牽制になれば、と思って振ったそのムチは、見事にウィレムの首筋をとらえていた。上半身を起こしたマシューには、ウィレムの首筋に赤い線が一筋できているのをはっきりと見た。
ウィレムは焦ったような顔をしながら、柱へと一目散にかけていくと慣れた調子で登っていく。そして柱の上から細い梁を伝いながら、じっとマシューのほうをじっと見つめていた。きっとさっきも同じように、梁の上から襲う機をうかがっていたのだろう。
ウィレムはナイフを咥えながらこちらを睨んでいる。まるでネズミを狙う猫のようであった。そんな視線を受けながら、マシューは柱の近くへとゆっくりと歩いていく。ウィレムにとってはマシューに一撃をくらわせ、そのまま柱に登る、といった戦術がとれるような立ち位置だ。
マシューはこの時、ウィレムのすばしっこい動きに体力をかなり削られていた。今下手に動いては、余計に不利になるばかりだ。となると、とる戦法はただひとつ。
待ち伏せだ。
あいにくウィレムも予想以上のマシューの戦闘能力にひるんでか、積極的な戦いを避けている。まさに両者崖っぷちでの戦いであった。
勝負は、次にどちらかが大きく動いたその時に決まる。
両者は互いの動きを見張るようにじっとにらみ合った。だがマシューはウィレムの攻撃を誘うためか、時折目線をそらしていた。つまり、マシューはウィレムを迎え撃つ準備ができている、ということだ。
マシューが何度目か、パトリックに視線を移した、その時。
勝負の時は唐突におとずれた。
ウィレムがナイフを手に持ち替え、梁の上から躍りかかったその刹那、マシューは今だ、とばかりに地面を蹴って飛びあがった。
そして自らに向けられた刃を持つ手をつかむと、そのまま空中で半回転して肩越しに振り下ろし、ウィレムを背負い投げのような形で地面に思いきり叩きつけた。すかさずマシューは、痛みに苦しむウィレムの腕を渾身の力でひねり、ナイフを落とさせるとそのまま遠くへと蹴り飛ばした。
それでもマシューの攻撃は止まらない。
再びムチを手にしたマシューはウィレムの首に一周ぐるりと巻きつけると、両腕に力をこめて思いきり締め上げた。
ウィレムは苦悶の表情のまま漏れるようなうめき声をあげながら、マシューをじっと睨みつけていた。マシューもそれに鋭く睨み返す。
――なぜだ……なぜ俺が殺されなきゃならないんだ!
――貴様が、人ながら人であると忘れたけだものだからだ!思い知れ!これがお前が殺した者たちの苦しみだ……。
かち合った両者の眼光は、まるでそのような会話をしているかのようであった。
突然、首を締め上げるムチにかかっていたウィレムの手が、マシューの肩へとのびる。そして、ウィレムは勢いよくマシューの身体を引き寄せると、首筋に食らいついた。
マシューの絶叫が、小屋の中に響いた。
ウィレムを振りほどくため、マシューは反射的にその側頭部に肘鉄を叩き込んだ。しかし、食らいついたウィレムはまるでスッポンのように離れなかった。むしろ何度も肘を叩きこんだり引き離そうとするたびに、痛みが増していくような感覚があった。
その時、ウィレムの頭をつかんでいたマシューの手が腰へとのびた。そして何かを握ったその手でウィレムの目元を隠すように鷲掴みにすると、それをすりこむように思いきり手のひらでこすった。
すると突然、ウィレムは叫び声と共にあごを離し、目元をかきむしり始めた。
振り払われたマシューの手からは、山の神に祈るときに使っていた香がぱらぱらと地面に落ちた。香の材料に含まれる辛子や胡椒の実が、マシューに食らいついていた魔を払ったのだった。
マシューは首筋から血が出るのも構わず、目を押さえてもがき苦しむウィレムの首に巻かれたムチを両手で握ると、大きくハンマー投げのように振り回し、その頭を柱に叩きつけた。
度重なる激痛に昏倒したウィレムをしり目に、マシューはムチの一方を柱へと回した。そして柱の向こうに回りこむとムチの両端を再び両手で握り、肩越しに担ぐように全身の力をこめて一気に引いた。ムチは一気にピンと張り、ウィレムを柱に縛り付けるようにその首を締めつけた。
マシューの背中越しに、暴れるウィレムの物音とうめき声が聞こえる。しかしマシューはその音を聞かないようにした。
渾身の力でウィレムを締め上げる中、マシューの脳裏にふとこんな思いがよぎる。
もしも……もしもクマヨシが暴れだしたとしたら、こうして手にかけなければならないのだろうか。
そして俺は、今と同じように手にかけられるのだろうか。
考えが頭の中をかけめぐるたびに、汗は額から流れ落ち、血に汚れた腕には自然と力が入った。腕に伝わるウィレムの動きは、少しずつ確実に弱くなっていった。
そして、締め上げ始めてからどれだけ経ったか分からなくなった頃。ムチの先のウィレムは完全に動きを止めた。それに気づいた瞬間、マシューは全身の力が抜けたかのように膝をつき、ぐったりとへたりこんだ。それほどまでに、この戦いでマシューは消耗しきっていた。
しばらくしてマシューはゆっくりと立ち上がると、うつぶせに倒れたウィレムに近づいていった。マシューはピクリとも動かないウィレムのそばにしゃがむと、髪をつかんで持ち上げ、その顔を見た。
人殺しの最期の表情は、見るに堪えないものだった。
真っ赤に血走った目玉は今にも飛び出さんばかりにひん剥かれ、大きく開けられた口からは歯がむき出しになっている。そして喉の奥からは、舌がまるで穴に住む生き物のように突き出していた。
その様はパトリックともアランともいささかも似ておらず、むしろ悪魔か地獄の化け物か、そういった類の表現をしたほうが自然だった。ふたりの肉親だと言ったところで、誰も信じはしないだろう。
そんな息子の変わり果てた顔を、パトリックは荒い息をしながらじっと見つめていた。出血は止まっているようだが、長いこと血が止まらなかったためかぐったりとしており、虚ろな目をしていた。
マシューがウィレムの顔を地べたに戻したその時、パトリックは小さくつぶやく。
「マシュー……俺のせがれは、あの時もう森の中で力尽きていたのか……?」
まるで幻覚にうなされているかのような口調だった。
「……こいつは、ウィレムのやつに化けて出てきた、森の化け物だったのか?」
マシューはパトリックから目をそらし、返事をしない。
「答えろ、マシュー!」
ようやく、パトリックは怒鳴るようにはっきりと呼びかけた。
「俺は知らん。お前はどう思う」
マシューはゆっくりと立ち上がって答えた。
パトリックは返事をせず、息を荒くしてふたたびウィレムの亡骸に目をやった。
その眼はまぎれもなく、息子を失った父親の眼であった。そしてパトリックは目を閉じてうなだれると、元気のない声でマシューに呼びかけた。
「マシュー……貴様、あのオークには自分の血が流れているといったな。どういうことだ……?」
「ああ、今のお前になら、聞かせてもいいだろうか……」
というと、マシューはゆっくりとパトリックに近づきながら語り始めた。
「あいつと森の中で初めて会ったとき、あいつは雨に打たれて体力がなくなり今にも死にそうだったんだ」
ゆっくりとマシューはパトリックのそばに近づくと、そばの壁に突き立った斧を引き抜き、シャツの脇で刃についた血をぬぐう。
「とはいえ、森の中では赤ん坊にやれそうなものは見つからない。だから……」
マシューはパトリックの前に回りこむと手のひらを開き、指に軽く斧を当てた。
「俺は指を傷つけ、にじみ出た血をあいつに飲ませた。そのときの俺の血はあいつの血となって、今もあいつの身体を流れている。それゆえ俺はあいつのことを、文字通り自分の血を分けた息子だと言い切れるんだ」
よく見れば、マシューの指にはいくつかの、刃物でつけたような古い傷の痕が残っていた。斧を背中の鞘にしまうマシューに、パトリックは信じられないというような視線を向けた。
「だが、たかが化け物の幼体になぜそこまでのことを……」
「さあな、ただ、あの時の俺はたくさんのものをなくしすぎていた。きっと、少しでも取り返したかったんだろう」
そう言いながらマシューは、パトリックの腰からもう片方の斧の鞘を引きちぎった。そしてもう用はない、と言うように背を向けたその時、後ろからふり絞るような声が聞こえた。
「おい、マシュー……」
呼びかけにマシューは立ち止まる。
「……お前のせがれが人間の中でずっと生きてきたとしても、奴は所詮オークだ。いつ奴のオークの血が目覚めるかわからんぞ。その時はお前も……俺と同じ、いや俺以上のいばらの道を歩くことになるんだ」
言葉を背中で受け止めて、マシューは小屋を後にした。
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