幕間 ~Intermission~

ある青年の物語

 山の中の雨音は、ふもとよりも強く降り注いでいるように聞こえる。それは所狭しと生える木々の枝の一本、葉の一枚に至るまで均等に雨粒が降り注ぎ、その全てが音を立てるからだ。

 ただ、その日の空は明るかった。もしかしたら、そこまで強い雨ではなかったのかもしれない。

 雨音以外に何も聞こえぬ森の中、ぽつりと作られた雨除けの東屋の中で、青年はひとりぼんやりと雨の向こうの景色を見つめていた。

 青年の心は、あのできごとから一週間たった今も、打ちひしがれたまま暗闇の中をさまよっていた。

 ちっぽけな雨のしずくが倒木に当たり、砕けて散るのをながめていると、雨音の中から、あの聞きなれた声が聞こえてくる。


『……女の子と男の子が、ひとりずつ。男の子はあなたが立派な猟師に育てて、女の子は私がお菓子屋さんにするの。……なあに、その顔は。私が言うんだから、大丈夫さ。きっと叶えられる……』

『あの子は元気?……そう、よかった。……ねえ。もしかしたら、もう男の子はダメかも。あなたと約束したのに……ごめんね……』

『ごめんね……ミカ、ごめんね……おかあさんを許してね……』


 壊れかけた屋根から絶えず漏る雨が、青年の身体を濡らした。顎からしたたり落ちたしずくは雨粒か、それとも青年のものであったか。

 生まれてこのかた二十五年、このできごとを宿命として受け止めるには、青年は若すぎた。

 猟師として身を立てながらも、父親としての自覚も未だに持てぬままに、彼はやり場のない思いを抱えていた。




 病に伏せている間も、彼女は俺に対しては気丈にふるまっていた。

 ただ俺は一度だけ、幼い娘を抱いて涙する彼女の姿を見てしまったことがある。いつも気丈だった彼女は、俺のいないところでこうして泣いていたようだ。

 出会ったときはあんなに強気だった彼女が、どんどん元気をなくして弱っていく様は、見ていてとてもつらいものがあった。

 俺はやれること以上のことをした。

 彼女に悟られないようにたくさんの人に頭を下げて協力を仰ぎ、なんとか助かるように手を尽くした。一抹の望みでもあれば、俺はそこにすがりついた。たとえ地面に頭をこすりつけようとも、たとえ裏切られようとも、たとえ狂人のようだといわれようとも。

 とにかく必死だった。

 ただ、他人に危害を加えるようなことだけはしなかった。彼女を悲しませることは、病を進めることにつながると周りの人たちから厳しく言われていた。


 しかし、その働きのすべては、報われることなく終わった。


 最後に彼女は、小さく『ありがとう』とだけ言った。今思えば、俺が方々に頭を下げていたことを、彼女は知っていたのかもしれない。

 気がつけば彼女の手からぬくもりが消えるまで、その白く細い手をずっと握りしめていた。

 疲れ果てた俺の腕の中で、ちっぽけな娘はずっと泣いていた。俺の分まで、あの子は泣いてくれた。


 そんな俺のもとに、たくさんの人間が声をかけてきた。

 元気を出して前を向いて生きろ。わかっている。

 いずれこうなることはわかっていただろう。その通りだ。

 残された幼い娘はどうするんだ?なんとかするしかない。

 今のお前を見たら奥さんはどう思う?お前に何がわかる。

 すべての言葉が濁った水となって浴びせられ、空っぽの心に注がれていくような、そんな気がした。


『お前さんが嫁さんにしたはたらきは、並みの男が一生かけて嫁にするはたらきと同じくらいのものだった。だから彼女だって、きっと嬉しい思いで旅立っていったことだろう。いいか、これからお前さんは彼女の分まで生きていくんだ』


 そう言ってくれた農家のハンスさんの言葉に、どれだけ救われたかわからない。


『死した者は消えてなくなるわけではない。彼らはみな、残された者たちのなかで生き続ける。それは思い出の中だけで生きるというわけではない。ふとした瞬間、残されたものの姿や行動、考えに現われては消え、また現れるのだ』


 俺の師匠もそう言ってくれた。


 しかしその励ましの甲斐もなく、あの日以来俺は抜け殻のようになってしまった。

 俺は、誰も助けられないんだ。誰も守れないんだ。誰も救えないんだ。

 そんな思いがずっと体中にこびりついて離れなかった。助けられなかったのは、彼女の命だけではなかった。約束したはずのふたりの未来に、ささやかな夢。残された娘の未来だってどうなるかわからない。

 そして、自分が立派な猟師に育て上げるはずだった男の子。まるで、この世に生まれ出づることもなく儚く消えた子のように思えた。




 雨足は次第に弱まっていった。木々を打つ雨音は流れる川のような激しいものから、静かなものへと変わっていた。単調な音がずっと続くので、気づかなければ雨が降っていることさえ気づかないこともありそうなほどであった。

 しかし未だに青年はじっとうつむいたまま、水たまりにできては消える波紋を見つめていた。

 見つめているうちに、水たまりにできる波紋は少しずつ少なくなっていった。そして最後には雨は止み、水たまりの上に梢があるのだろうか、波紋は大きなものがひとつだけになった。

 少し早い一定の周期で、一滴ずつ雫が同じところに落ちる。まるで、心臓の鼓動のように。

 その時。

 青年の耳に、遠くからかすかに何かが聞こえた。最初はなにか野生動物の鳴き声かと青年は思ったが、よく耳をこらすと、どうやらそうではないらしい。


 ――赤ん坊の声だ。


 次の瞬間には、青年は突き動かされるように、地面のまだぬかるんでいる森の中へと駆けだしていった。

 青年は、自分がなぜ飛び出していったのかわからなかった。

 ただひたすらに、声のする方角へと泥を蹴り倒木を乗り越えて進んでいった。

 その泣き声は、少しずつ大きくなっていった。近づくうちに青年は、鳴き声が赤ん坊のものだと確信した。しばらく走った先で青年はようやく、声のするところを突き止めた。

 どうやらその茂みの向こうにいるらしい。


 近づこうとしたその時、青年は足を止めた。先輩の猟師から聞いた、とある話を思い出したからだ。

 山の中には、赤ん坊の泣くような声で人間の気を引き襲い掛かる、獣と鳥が混ざったような異形の怪物がいるという話だった。

 青年は小さく唾を飲むと、腰のベルトに提げた鞘から斧の柄をつかんで抜いた。青年は斧投げが得意であったが、自信を無くしている今、その能力が十分に発揮できるかはわからない。

 青年はゆっくりと声のする方へと近づき、茂みの向こう側の様子をうかがった。声のしている方に動きはなかった。そして青年は意を決すると、斧を振り上げて一気に茂みの向こう側へと躍り出た。

 その先にあったものを見て、青年はゆっくりと斧をおろした。

 茂みの向こうの切り株の上では、雨に濡れた赤ん坊が声をあげて泣いていた。赤ん坊は男の子であった。しかしその肌は、薄い緑色をしており、普通の赤ん坊ではなかった。


 紛れもない、オークの赤ん坊であった。


 青年はそれを見た時、言葉を失った。見たこともないものを目の当たりにして、どうしたらいいのかわからなかった。

 どうしてこんなところにいるんだ?捨てられたのだろうか。ふと青年は、先輩からオークとはできるだけ関わってはならないと言われていたのを思い出した。


 ……折角この世に生まれ出たのに、不憫な奴だ。


 そう思って、青年は赤ん坊に背を向けようとした。

 すると突然、赤ん坊は泣くのをやめ、急に咳きこみはじめた。青年はその時はじめて、この赤ん坊がひどく弱っているのに気がついた。自分の娘と比べても明らかに動きが少なく、ぐったりしている。


「こりゃいけねえ……!」


 青年は飛びかかるように切り株に駆け寄ると、その手で赤ん坊を抱え上げた。

 オークとはいえ、この赤ん坊が生きることを許されないなんて、そんなことがあってたまるか。その思いが青年を突き動かした。


「しっかりしろ、なあ!」


 青年は布で赤ん坊の身体を拭くと、その手を握り呼びかけた。なにか栄養のあるものを与えなければならないと青年は思ったが、当然乳は出ないし、山の中には赤ん坊に与えられるようなものはない。


「ちきしょう、どうすれば……」


 青年は、木々のはざまから見える薄雲りの天を仰ぐと声を限りに叫んだ。


「俺はどうすればいいんだ、ナオミ!」


 こいつだけは、どうしても救わなければ。それが、彼女への罪滅ぼしであり、自分の未来につながるんだ。

 彼は、そう信じて疑わなかった。

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