その4

 足を怪我した男を家まで送り届けた時には、すでに日は暮れ、先ほどまでマシューたちのいた山の端が、わずかに明るくなっているだけになっていた。山を出るときに、クマヨシは襲われた者たちへの鎮魂のつもりだろうか、山に向かって十字を切った。

 マシュー、クマヨシ、フィリップの三人はいずれも血や汗、泥で汚れ、精神的にも肉体的にも消耗しきっていた。ただ、長い間の緊張を強いられたためか、疲れてはいるが眠気はほとんどなかった。

 むしろマシューの頭の中には新たに飛び出した疑問がぐるぐるとかけめぐり、完全に冴えていたといってもいい。


 なぜ狼の集団が縄張りを超えて、自分たちに突然牙をむいたのか。

 狼たちがあれだけ統率のとれた動きをしていたということは、やはり群れのボスの狼が指揮をとっていたのだろう。


 そして、どうしてアルベールはあの場にいたのか。

 もしや……。

 マシューは、いま自分の頭によぎった仮説が、間違いであってほしかった。

 そうだ、俺は疲れているんだ。疲れているからいろいろと鈍っているんだ。

 少しでも気を確かに持とうと、マシューは水筒を手にとった。しかし、中の酒は当節の暑さのために、すでに飲み干してしまっていた。


「なあ、クマヨシ。飲み物あるか?」

「ううん。僕も全部飲んじゃったよ。喉カラカラさ」

「フィリップは?」

「自分もです……」


 ここにきて、マシューは家に戻りたくなった。度重なる重圧と自分に不利になっていく状況に、心が折れかけていた。

 しかし、山狩りはまだ終わったわけではない。この後マシューたちはパトリックのもとに戻らなければならないのだ。パトリックの指示に従った結果何も得られなかったどころか、多大な犠牲を出したことを、伝えに行くのだ。仮眠をとるのはその後だ。

 でも、自分とクマヨシ以外は別だ。マシューは改めてフィリップに、声をかけた。


「フィリップ、あんたももう帰ったほうがいい。いろいろと限界だろう」

「いえ。自分も行きます。何が起きたか、自分もパトリックさんに伝えます。そのほうが、パトリックさんも聞いてくれるでしょうから」

「だが……」

「自分は、この事件がどんな最後を迎えるか見届けたいんです。できる限り一緒にいさせてください」


 己の限界を知ってもなお、娘を失った男の執念は彼の瞳から消えていなかった。

 マシューたちはパトリックの農場を突っ切り、納屋へとたどり着いた。途中、見張りの牧童たちが何か言おうとしたのか近づいてきたが、マシューがひと睨みした途端にその足を止めた。




 納屋へと足を踏み入れた瞬間、当然というべきか、血まみれで泥まみれのマシューたちには異様なまなざしが向けられた。しかし、納屋に集まっていた男たちは昨夜に比べて少なくなっている。ざっと見ても半分以下、といったところか。

 男たちの中にパトリックの姿を探していると、納屋の裏口からパトリックと牧童たちがどやどやと入ってきた。その中に、パトリックの息子アランの姿はなかった。


「おう、帰ってきたか」


 パトリックはマシューの姿を見るなり何でもないかのように言い放った。ねぎらいの言葉など当然のようになかった。


「他の連中はどうした」

「一人を除いて、全員狼に食い殺された」

「で、狼も狩れなかったってわけか。役に立たないほど老いぼれたのなら、もう猟師をやめたらどうだ」


 相変わらずパトリックは神経を逆なでするようなことしか言わない。しかしマシューは諦めて冷静になっていたのか、それとも疲れ切っていたのか、冷静に言い返した。


「狼の群れ全体が攻撃的になっていたんだ。そんな中に素人ばかり連れて入ってきゃこうもなる」

「狼どもの縄張りに入っていったのはお前だろう」

「俺はすぐ引き返そうとしたが間に合わなかった。縄張りに入れと言ったのはお前だ!」

「まあ、仕方がないさ。ほら、飲みものを持ってきてやったんだからよ、飲みなよ」


 パトリックがはぐらかすようにそう言うと、牧童たちがワインの瓶を持ってきて、クマヨシに渡した。クマヨシは会釈すると、待ってましたと言わんばかりに飲み始めると、瞬く間に飲み干してしまった。

 だが、マシューとしては飲んでいる場合などではなかった。言うべきことはどうしてもパトリックに言わなければいけない。


「それに、狼は襲われて逃げる途中に殺した」

「なんだ、殺したのか。だったら適当に一匹死骸をもってきたらよかったじゃないか」

「あいつらは事件の犯人じゃない」

「まだたわ言をほざいているのか。俺が見たといっているんだから、狼が犯人なんだ」


 今のパトリックの言葉に、マシューは引っかかった。

 マシューは今、昼間に襲われた狼たちのことを『犯人じゃない』と言った。それはつまり、縄張りの外の一匹狼が犯人という可能性を含んだものだった。

 しかしパトリックの今の言葉は、狼そのものが『犯人じゃない』と思いこんで言い返してきたように聞こえた。マシューにはパトリックが、どうしても狼を犯人にしなければならない理由があるかのように思えた。


「パトリック……お前はあの時、本当に狼を見たのか」

「まあ、そんなことなんかもうどうだっていい。狼の死骸も必要ない。役人が来たとしても、なんて言えばいいか思いついたからな」


 思いがけない言葉だった。マシューは、パトリックの腹の内がまったく読めなかった。


 「俺は、役人どもが来たら、こう言うつもりだ。『村人の奮闘の甲斐あって、事件の犯人は仕留められた。犯人の正体は……」


 そう言いながらパトリックは、牧童たちとともにマシューにゆっくりと近づいていく。そして目の前まで来たところで、パトリックはマシューの耳元にささやくように言い放った。


「……オークだった』と」


 マシューの目が驚愕で見開かれた、その直後だった。


「うがあっ!」


 空の瓶が落ちて割れる音とともにクマヨシはその場に崩れ落ちたかと思うと、喉をかきむしりながらもがき苦しみ始めた。


「ぐうっ……と、父さん……」

「クマヨシ!」


 マシューが駆け寄ろうとした瞬間、牧童たちはその隙をついて一斉に飛びかかり羽交い絞めにしてしまった。ガタイのいいひとりが後ろから首を絞め、残りがマシューの両手足につかみかかった。そして別のひとりはマシューの斧や小物入れをはぎ取っていった。

 フィリップは突然のできごとに完全におびえてしまい、何もできなかった。

 その様子を見ながら、パトリックは講釈でも垂れるように続きの文句を話しはじめた。


「『……俺たち村人は女を犯したオークを殺すため、ネズミ捕りの毒入り団子を混ぜた飯を置いた。結果、頭の足りないオークはまんまとその罠に引っかかり、そのままくたばった――』。

 ……話ってのは所詮、信じてもらえるかどうかさ。狼が女を犯して殺したなんて、にわかに信じられる話じゃない。それを考えたら、狼なんかよりオークのほうがよっぽど女殺しの犯人らしい。役人どもだってすんなりと信じるだろう」

「この……畜生外道が!」

「なんとでも言え!村の自治を奪われて何十何百もの村人が飢えて死ぬことに比べれば、狼に襲われて死んだ奴らやオーク一匹ごときの命など、ものの数じゃねえよ。それどころか、俺にとっちゃ面倒くさい連中が全員消えてせいせいするところだ」

「だがな、お前の指示で村人が山狩りに出かけ、狼に殺された事実は残ってるんだ!役人はそのことを調べるだろう。そうなったらお前のチンケな嘘なんかすべてばれる!」

「でも、それも証人がいれば、の話だろう?」


 パトリックはいささかも臆することなく、ニンマリと笑って返す。


「貴様……」

「ハンスじいさんは村にいねえし、死んだ奴らは口をきかねえ。それに村の連中はみんな、俺の出した意見に賛成だとさ。自分たちの将来を考えたら、本当のことを言う奴など誰もいない。あとは討伐隊で生き残った奴らだが……」


 そう言ったパトリックの蛇のような眼は、突如フィリップのほうに向いた。

 直後にフィリップに向けられたパトリックの声は、不気味なほど穏やかな声だった。


「なあ、フィリップ?」


 呼びかけられたフィリップの体は、ほんの少しだけビクついた。

 それを見てニヤリと笑ったパトリックは銃を地面につき、腰のベルトから革製の小さな水筒のような火薬入れをとり出した。そしてそのふたを開け、銃口から慣れた手つきで火薬を詰めながら、そのまま穏やかに続けた。


「『正直に』言いなよ。マシューは討伐隊の連中は狼にやられたなんてぬかしているが……実は違うんだろう?本当はオークとその親父を名乗る阿呆が、自分たちの事件を隠すために皆殺しにしたんだろう?

 それでお前さんは、『お前は証人として生かしといてやる。誰かに何か言われたら、狼に襲われたと言うんだ』なんて脅されたんだろう」


 嘘にしても、あまりに滅茶苦茶な内容だ。マシューは自分たちが小馬鹿にされたように感じ、思わず怒鳴るように言い放った。


「バカかお前は、そんなわかり切った嘘が通るか!」

「おい、そのクズを黙らせろ!」


 パトリックの指示に、スカーフを手に牧童のひとりがマシューに近寄ってきた。その一方でマシューは、今度はフィリップに呼びかけた。


「フィリップいいか、真実を貫き通せ!お前の娘だって、それを望んでるはずだ!」

「おっさんはちょっと黙ってな!」


 牧童はマシューの鼻っ柱に拳を叩きこんだ。マシューがひるんだその一瞬に、口の中にスカーフが詰めこまれ、さらに別のスカーフで猿轡がはめられてしまった。それでもなお、マシューはうなりながらフィリップに声をかけ続けた。

 フィリップはただ奥歯を震わせながら俯き、誰とも視線を合わせようとしなかった。

 そんなフィリップにパトリックはふたたび穏やかに声をかけながら、銃口から鉛の弾を入れて棒で突き、銃に弾を込めた。


「どうなんだ?ん?」

「……違います」

「ああ!?」


 突然パトリックの声が豹変した。

 不機嫌そうに答えながら、パトリックはライフルの撃鉄をカチリと起こした。

 その瞬間、ふたたびフィリップの身体はビクついた。顔は青ざめ、手足はガクガクと震えていた。

 パトリックはフィリップにゆっくり近づくと、諭すような口ぶりで語りかけた。


「なあフィリップ。お前が『正直に』言わなかったら、この村がどうなるか、お前もよくわかってるだろぉ?都会の奴らがこの村を我が物顔で歩き回り、その上奴らにケツの毛まで根こそぎ奪われちまうんだぞ。そうなるかどうかは、お前にかかっているんだ」


 言葉の途中で、パトリックはフィリップに背を向け、ゆっくり離れていく。そして、


「まあ、もしもそうなっちまったら……お前やお前の家族は確実に村八分になるだろうなぁ」


 言い放つと、パトリックはふり向き、ライフルの銃口をフィリップに向けた。その指は引き金にかかっている。明らかな脅迫だった。

 銃を下ろせ卑怯者!フィリップを脅すな!

 マシューは猿轡をされながらも一心に叫んだ。しかし、言葉は口の中でもぐつくだけであった。

 フィリップは完全に青ざめ、パトリックの銃を見つめて口をパクパクさせていた。何か言おうとしても、言葉が出ないのだろう。

 だがこれだけ怯えるのも無理はなかった。今まで頼りにしていたふたりがたった今、目の前でひとりが毒を盛られて苦しみもがき、もうひとりはその身を封じられ、いつ殺されてもおかしくない身の上なのだから。フィリップにも、もう限界がきていた。

 マシューはただ、フィリップを信じることしかできなかった。弱いようで強いその心が、どこまで耐えられるのか。

 何も言わないフィリップに、パトリックはしびれを切らしてきた。しだいにその顔が険しくなり、明らかにイラついていた。

 そしてパトリックは、フィリップをきっとにらむと、


「答えろ!」


 言い放つと、パトリックは引き金を引き、火薬に点火した。

 そして火薬がさく裂し、放たれた銃弾は……。

 フィリップの右ほほをかすめ、後ろの壁に穴をあけた。


「ああ……!そうでず!こいつらが殺したんです!ううっ……」


 フィリップは腰をぬかして転んだ瞬間、まるで金縛りが解けたかのように叫んだ。その瞬間に、マシューの目から希望が消えた。もはや何も考えることもできなかった。

 震えるフィリップはすべての緊張が解けてしまったのだろう、魂が抜けたかのようにぐったりと天井を仰いでいた。その目からは本人も気づかぬうちに涙があふれ、小便までもらしていた。


 その様子を見ながら、パトリックは銃を担いで満足げに笑った。そして、マシューのほうを向くと、


「……だとよ。マシュー、どうだ気分は?この村にはな、お前の味方は誰一人いねえんだよ。みんなお前を見捨てたのさ。お前は自分がこの村の連中に認められていると思っていたようだが、とんだ大間違いだ。お前の味方は無様にえずきながら地面をはいつくばってる、この薄汚いオーク一体だけなんだよ」


 ニヤつきながらそう言い、口から泡を吹いて苦しむクマヨシの腹に足を乗せ、踏みつけた。何も考えられなくなっていたマシューの心に再び沸き起こったのは、激しい怒りだった。


 この腐れ外道が!お前だけは許さん、絶対にぶち殺してやる……!


 マシューは血走った目でパトリックをにらみつけた。目が合った瞬間、パトリックの顔から笑顔が消え、声は小さく震えた。


「ほう、俺に喧嘩を売ってる目だな。その目だよ。お前は何かあるといつも、その目で俺を見てきた……」


 パトリックの方もマシューの目をじっと睨みながら、ゆっくりと近づいてきた。その様はまるで二匹の獣が、殺し合いを繰り広げる直前のようであった。そしてパトリックはマシューの眼前まで来て、止まった。


「俺はなぁ、てめえが心の底から嫌いだったんだよ」


 するとパトリックはライフルの銃床を振り上げ、思いっきりマシューの顔を殴りつけた。


「昔っからずっと偉そうに俺に講釈たれやがって!無益に殺すな?自然を敬え?てめえごときが何様のつもりだ!果ては自分はオークの親父だぁ?俺の一番嫌いな、緑色の肌のカスを助けて!神様にでもなった気分か!気に入らねえなぁ、ああ気に入らねえよ!てめえだけは何回ぶっ殺しても足りねえや!ああ?」


 パトリックの銃床での殴打はマシューが鼻血を吹き出してもなお、恨み言が終わるまで何度も続いた。頭を殴られるたびにマシューは痛みと共に頭がぼうっとするような感覚を覚え、口内にはじわじわと鉄の味が広がっていった。あまりの殴打の勢いにマシューの身体が地面に叩きつけられた後は、パトリックと牧童たちから容赦ない蹴りと、牛追い用のムチの鋭い痛みが全身に叩きこまれた。


 凄惨なリンチの様子に、他の村人たちは目を背けて我関せずを決めこんでいた。フィリップに至っては震えながら両耳をふさぎ、完全にマシューから背を向けていた。


「俺たちはな、余所者から指図されんのが一番腹立つんだよ!」

「ほら、また何か言ってみろよおっさん!え、今なんつった?あん?」


 暴言を吐き捨てる牧童たちの顔など、マシューは見ていなかった。マシューの眼は、ただ牧童たちの脚の向こうに見える、もがき苦しむクマヨシの姿をとらえていた。


 耐えろ、お前なら絶対耐えられる……。


 その時、マシューは襟を掴まれ、牧童たちの腰の高さまで持ち上げられた。持ち上げたのは昼間、討伐隊の後ろについてきていた牧童だった。牧童は激しく殴りつけられて腫れあがったマシューの顔に唾を吐きかけ、


「ざまあねえな、おっさん。昼間のお返しだぜ」


 と言い捨てて頬を殴りつけた。マシューの頭はふたたび地面に叩きつけられ、さらに靴底によって、強く容赦なく踏みにじられた。


 それでもなお、マシューの灰色の目はクマヨシをじっと見つめていた。

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