その4

 マシューは伏せた姿勢のままで、敷地の外周を匍匐前進していた。今のマシューは持ち物を根こそぎ奪われ、武器らしいものは何一つ持っていない。親からもらった五体と研ぎ澄まされた狩人の感性が、今の彼の武器である。


 その時、マシューの目に明かりが見えた。目の前の木に向かって、腰にランプをぶら下げた牧童が立っている。きっと小便の最中なのだろう。

 マシューは息を殺し、静かにゆっくりと牧童の後ろへと忍び寄った。牧童はこちらにはまったく気づいていない。

 そして、距離が一メートルほどになったその時。

 暗闇から躍り出たマシューは牧童が気づくより先に、その頭を鷲掴みにした。そして瓜でも叩き割るように、頭を勢いよく木の幹に殴りつけた。おそらくこの牧童は、何が起きたのかわからぬままに昏倒したことだろう。たった一撃で牧童はその場に崩れ落ち、動かなくなった。

 その瞬間、後ろからこちらにかけてくるような足音がした。

 マシューがすかさずしゃがみ、ランプを消して振り向くと、もうひとりの牧童が、こちらにむかって走ってきていた。


「クルフ、どうした? どこいった?」


 闇の中でマシューはランプをつかみ、それを茂みのほうに向かって投げた。ランプは茂みの中でカランと音を立てる。


「誰だ?」


 と牧童が音のした方に呼びかけた次の瞬間には、マシューは音もたてず走り出していた。


 牧童の眼前で足を突き出してすべりこんだマシューは、牧童の脚を自分の脚にからめ、茂みのなかに倒していた。

 そして相手の肩をつかむように上に乗ると、その首筋に横一文字に手刀を叩きこんだ。この一連の動きは最後の一撃が手刀なのを除けば、まさに斧やナイフをもって相手をしとめる時の動きそのものであった。首筋に一撃をくらった牧童はそのままぐったりと気絶した。

 マシューは牧童の身体を深い茂みの中に隠すと、小屋の方角に目を向けた。このあたりはまだ茂みがあるが、少し進めば芝生となっていて身を潜める場所がない。それに小屋の近くはランプの光で明るくなっている。マシューがうまく身を隠しながら進めるルートを模索していると、小屋のまわりを歩いていた牧童がふたり、こちらを指さしているのが見えた。

 マシューは目を閉じ、聴覚を集中させた。


「シャルル! クルフ!」


 と呼びかけたその後に、


「明かりが……」

「……どこかにいるだろ」


 おぼろげながら小屋の方角からこのような声が聞こえ、ふたりはこちらへと歩いてきた。マシューは草むらに身を隠しながら、二人の男の動向をじっと見守っていた。

 ふたりの牧童は草むらにマシューが潜んでいることなど知らぬまま、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。牧童たちは茂みの中に明かりをかざし、いなくなった牧童を探していた。これでは草むらに隠れた程度では見つかってしまう。

 牧童との距離は、残り数メートルほどにまで縮まっていた。マシューは亀のようにゆっくりと草むらの中を這いながら、牧童たちとの接触に備えた。牧童たちの動向をじっとうかがうマシューの眼光は、闇の中で光りそうなほど鋭いものだった。

 牧童たちの足が、一歩、一歩、マシューのいるあたりに近づいてくる。

 そして、マシューの目に、ランプの明かりがまばゆく飛び込んできた、その時だった。


 草むらから躍り出たマシューは、前を歩いていた牧童のみぞおちに鉄拳をたたきこんだ。相手の牧童が一瞬ひるんだうちに、マシューは反撃させるまいと相手の後頭部をつかんで自分の足元に振りおろすと、顔面を思いきり膝で蹴り上げた。

 仲間が鼻血を吹き出して崩れ落ちる様を目の当たりにしたもうひとりの牧童は、ポケットから呼子をとり出し、急いで口にくわえた。しかし次の瞬間、マシューは文字通りその牧童に飛びかかると呼子を口の中に押しこみ、その勢いのまま、諸共倒れこむように牧童の後頭部を地面へと勢いよく叩きつけた。地面は芝生で土もやわらかかったためか牧童は気絶せず、這って逃げようとした。

 しかしそれを逃がすマシューではない。マシューは後ろから牧童にかぶさると太い腕を首に巻き付け、一気に締め上げた。最初は抵抗していた牧童も次第に力が弱くなっていき、ものの数分もしないうちに絞め落とされてしまった。

 夏のほのかに蒸した風が静かに吹く中、マシューはゆっくりと立ち上がると倒した牧童たちには見向きもせず、かすかな月明かりの中を闇から闇へ駆けながら小屋に近づいていった。

 その間にも数人、マシューは出くわした牧童に手刀や締め上げを食らわせ、ことごとく気絶させていった。



 小屋の近くまで近づいたところで、マシューは小屋の壁に耳を当て、中の様子をうかがった。小屋の壁は薄く、中の様子がわかった。

 ……中にいるのは、三人。話し声のほかに、何かを削る音と、カチリという音が聞こえる。少なくともひとりずつ、ナイフをもった奴と銃を持った奴がいる。

 マシューは倉庫の裏に回ると、そこは薪割り場だった。そばに積み上げられた薪の山から、斧の持ち手に近い太さの手ごろなものを二本手にすると、試しに振り回した。

 マシューの用いる武器は、その二本の薪だけで十分であった。

 薪を一本ずつ両手に持ったマシューは、小屋のドアを叩いた。しかし反応がなかったようなので、再度叩いてみた。マシューはドアの開く瞬間を、じっと待ち続けた。

 ドアがほんの少し動いた、その刹那。


 マシューは思いっきりドアを蹴破ると、一気に中に躍り入った。そして銃を持った牧童の姿を見つけ、すかさず右手を振り上げて薪を投げつけた。薪が牧童の額に命中した時には、マシューはもう一本の薪を片手に、ナイフを振って切りかかってくる牧童の攻撃を受けていた。

 牧童の突きや切りつけを、マシューは薪一本で捌いていく。無論その動きは、斧を持って相手と対峙した時のそれであり、喧嘩程度でしかナイフを使ったことのない牧童の動きとは全く違っている。さらに、薪は斧でさえ割るのに難儀するものだ。ナイフ如きでは切り傷をつける程度しかできない。

 何度か捌いているうちに、マシューの薪が、相手の手首をしたたかに打った。続いて振り上げた薪の先が、牧童のあごに一撃を食らわせる。

 その隙にマシューはナイフを持った牧童の腕をとったかと思うと、腕をひねり、そのまま真下に振り下ろした。その瞬間、何かが折れるような鈍い音がした。直後に牧童はナイフをとり落とし、ぶらりと垂れ下がった腕を抑えてうずくまった。


「あああっ! ちきしょう! くそったれめぇ!」


 耳をつんざくような悲鳴が飛びこむ中、マシューは突然背中に鋭い痛みを覚えた。後ろを振り向くと、そこにはドアを蹴り飛ばした時に倒れたと思しき牧童が、牛追い用のムチを手に、必死の形相でこちらを見つめていた。

 牧童の腰には見慣れたものがある。鞘に収まったマシューの斧と小物入れだった。戦利品のつもりだろうか。

 よく見てみれば、マシューの顔を足蹴にした、あの牧童だった。


「くたばりぞこなったか、おっさん」

「あいにくまだこの世で、やらなきゃならんことがある」

「ナメるな!」


 牧童が腕を振ると、マシューの左目の下に鋭い痛みが走った。マシューはゆっくりとそのあたりを撫でると、指先が赤く血で染まった。ムチの一撃は、小さな横一文字の傷をマシューに負わせた。

 しかし、マシューは指先の血を拭うでもなく右目の近くに持っていくと、左目の傷と対称になるように、右目の下にまっすぐ赤い線を引いた。

 この線はマシューの狩りの師が、戦いの前に自身に施していた化粧に似ていた。両眼の下の赤い線によりマシューの眼光はより迫力を増し、牧童にさらなる恐怖をもたらした。


「今度こそぶち殺して……」


 怯えるような叫びとともに振るわれたムチの先が、再びマシューの顔へと向かう。しかしこの時、ムチはマシューが顔のあたりにかかげた薪に巻きつくようにからまった。すかさず、マシューは薪にからんだムチを押さえると、渾身の力でムチを手繰り寄せ、じりじりと牧童との距離を縮めていった。

 と、その時。牧童はムチの持ち手を離した。それにマシューがよろめいた一瞬に斧を抜くと、


「くたばれバケモノがぁ!」


 声が裏返るほどの叫びをあげて襲い掛かった。

 マシューの頭にめがけて斧が振り下ろされたその時、マシューは間一髪牧童の手にムチを巻きつけ、突っ込んできた勢いを使って地面に投げつけた。牧童の身体は空中で一回転し、背中から地面に叩きつけられた。

 そしてマシューは立ち上がろうとした牧童の腕めがけ、すかさずムチを振りおろした。革のはじける音が小屋に響き、牧童は斧をとり落とした。

 痛みに腕を押さえた牧童の足に、二度目のムチが蛇のように食らいつく。牧童は悲鳴をあげてその場に跳ね上がり、ふたたび地面に倒れこんだ。

 だが、それで終わりじゃない。

 マシューはうずくまる牧童に向け、自分がされた時と同じようにムチを振りおろした。何度も、何度も。ムチがしたたかに牧童の身を打つたびに、牧童は甲高い悲鳴を上げて土の上をのたうち回った。


 それからしばらくしたのちに、復讐はひとまずの終わりを見せた。

 小屋の中には、牧童たちのうめき声しか聞こえない。その中でマシューは縄の代わりにムチをたすき掛けに結ぶと、傷だらけの牧童の腰から斧の鞘と小物入れを引きちぎるように外し、背中と腰に留めた。そして斧を拾い上げ、ゆっくりと鞘へと納めた。片方の斧が、もとの持ち主のもとに戻った。もう一本はどこだろうか。

 そのときふと、かすかではあるが、マシューが打ち倒した三人の牧童以外のうめき声が聞こえた。


 クマヨシの声だ。

 マシューは目を閉じ、耳を澄ませた。声は小屋の奥の隅、肩ほどの高さの塀で仕切られた向こう側から聞こえてくる。マシューはまっしぐらに、その向こう側に走っていった。

 塀の反対側には、クマヨシがぐったりとした様子で荷車の上にあおむけに身を横たえていた。

 その全身には鞭で打たれた跡があった。おそらくあの牧童にやられたのだろう。

 マシューはクマヨシに駆け寄ると、体を揺らして声をかけた。


「クマヨシ、大丈夫か。助けに来たぞ」


 声をかけると、まだ荒い息遣いとともに、大きなクマヨシの手がマシューの身体に触れた。


「すまなかった、よく頑張ったな。お前は強いヤツだ……」


 そう言ったマシューの姿は、すでに復讐に燃える獣ではなく、ひとりの父親となっていた。

 と、その時である。

 自分たちのいるところとは反対側の隅に誰かがいることに、マシューは気づいた。多少の警戒心を抱きながら、マシューはゆっくりと後ろを振り向く。



 そこにいたのは、フィリップだった。

 彼の姿を見た瞬間、マシューが抱いたのは怒りでも心配でもなく、純粋な疑問だった。どうしてフィリップがこんなところにいるんだ?

 しかしフィリップは明らかにおびえた様子で、マシューの姿を見つめていた。牧童に制裁を食らわせたのを目の当たりにしたのか、それとも自分が結果的にマシューたちを売ったことに罪悪感を覚えているのか。

 まずは、なぜここにいるのかを聞こうと、


「フィリップ、」


 と、マシューが声をかけた、その時だった。


「すみませんでした! どうか許してください!」


 と叫ぶように言ったかと思うと、フィリップは手をつき、深くその頭を地面にこすりつけた。さらにうめくような声をあげたフィリップに、マシューはかけよってしゃがんだ。


「やめろよ。こんな姿、あんたの娘が見たらどう思う」

「まったくその通りです! 自分は、人として最低のことを……」


 と言ったきり、顔を上げることなくむせび泣きはじめた。

 恐らく、ずっとフィリップは罪の意識にさいなまれていたのだろう。脅されてマシューたちを売ったことを皮切りにさまざまな感情が今、一気に慟哭としてふき出しているかのように、マシューには見えた。

 どれだけ謝ったところで許されるわけではない。だがそうわかっていてもせざるをえない。その思いが手にとるようにわかった。

 そんなフィリップの姿は、人によってはひどく無様な姿にもみえるだろう。だがフィリップという男は、最後まで悪人にはなれなかった。ただそれだけのことだ。



 マシューは何も言わずにゆっくりと立ち上がると、小屋の扉へと向かった。そして扉をあけ放つと、闇に向かって大きな身振りで手招きをした。暗闇の中からアルベールとスザンヌ、そしてアランの姿が見えたところで、マシューはふたたび中に戻った。

 小屋に入ってきたアルベールは、開口一番にマシューに尋ねてきた。


「クマヨシ君はどこに?」

「奥の壁の向こうだ、急いでくれ」

「その前に、こいつらはどうする?」


 地面にうずくまっている牧童たちを指さして尋ねたアルベールに、


「手当てしたいならすればいい」


 マシューは答えた。アルベールはまったく、と言わんばかりにこめかみを掻くと、すぐに小屋の奥へと向かった。彼に続いて向かおうとしたスザンヌにマシューは、


「あっ、奥さんはそのすぐそばの男を介抱してやってくれ。ひどくショックを受けてる」


 美人に介抱されれば少しは元気になるだろうという、粋な計らいのつもりだった。

 そしてたったひとりアランだけは、倒れている牧童たちの間に立ち、彼らをじっと見つめていた。


「アラン」

「話は全部、アルベールさんから聞きました」

「……こいつらとは、長いつき合いがあったのか」

「ええ、人によっては、俺の生まれた時から」


 彼らがマシューとクマヨシにどんなことをしたか知りながらも、一概に割り切ることはできないのだろう。アランはしばらく黙っていたが、ふと思い出したように静かに口を開く。


「さっきも言ったんですが、親父、昨日からどうもやることなすことがどこか不安定で……」

「どういうことだ」

「変に落ち着きがなかったり、しきりに外に出たりなんかして。みんなの前で演説をかましてた時とは違って、どこか怯えているように見えるというか……」


 アランの言葉にマシューは小さくうつむいた。確かに言われてみれば、アランの言う通りのような気がしてきた。パトリックが指揮をとって以降、奴は事件の解決をやけに急いでいた。あの時は自分にも余裕がなかったし、役人の視察が迫っていたこともあって、皆焦りを隠せないだけだと思っていた。

 だが、怯えているとはどういうことだろうか。奴にはなにか、事件を解決されては困る事情でもあるのか。

 マシューが考えをめぐらせていると……。


「マシュー、来てくれ」


 アルベールの呼びかけに、マシューとアランはクマヨシのそばに向かった。クマヨシは少しも動かず、かろうじて胸の上下で呼吸をしているのがわかる程度だった。


「さいわい今は状態が安定してる。でもどれだけの量の毒をとったかがわからん以上、回復してるのか身体をむしばまれているのかは判断できないな」

「じゃあどうすれば?」

「念のために毒消しを飲ませよう。少年、歳はいくつだ」

「十四歳です」

「なら助手には申し分ないな。薬の調合を教えよう。乳鉢でこの薬草をこの薬草を混ぜ合わせて、水と一緒に飲ませるんだ。飲ませ方はまた後で。マシュー!」


 アルベールの呼びかけが、考え事をしていたマシューを呼び戻す。アルベールはおもむろに立ち上がり、首を振って外に出るよう促した。マシューも小さく頷くと、その後に続いた。

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