その5

 陽が落ちてかなりの時間が経ったが、まだ東の空はいささかも明るくない。夜はまだ続く。

 小屋から少し離れれば、あたり一面は漆黒の闇だ。その中を、風と草木の揺れるだけが聞こえてくる。

 その中に立つ男二人の表情は、異様なほど険しかった。


「マシュー、このあたりに来た時、犯人のにおいが強くなった。犯人までそんなに遠くないよ」

「牧童たちとは違うのか?」

「ああ、君の倒した連中のにおいをかいだが、全員シロだ。」

「そうか……なあ、アルベール」

「なんだ?」


 マシューがアルベールに尋ねる、その声は静かだった。


「行方不明になった子どもが、人間との関わりのないまま山で育ったって話、聞いたことあるか?」

「ああ、あるよ。野生児って呼ばれている子たちだな。特に狼がヒトの子を育てることがあるらしく、そういう子たちのことを俺たち人狼の間では、『狼人間』とか『第三の人狼』と呼んでたりするよ」

「ここ最近、その手の話を聞いたりしたことは?」

「いや、ないけど……そういう言葉が残っているなら、ありえることなんじゃないか」


 どこか納得したように小さく頷いたマシューに、アルベールは尋ねる。


「もしかして犯人がその類の人間だと?」

「……可能性は高いが、俺の考えはもう少し複雑だ」


 それだけ答えて、マシューはさらに続ける。


「アルベール、クマヨシを頼む。あとは俺ひとりでやる」

「本当に大丈夫か?なんなら嫁に銃を持って来てもらおうか」

「この事件は、俺の手でカタをつけさせてくれ。この数日で、あまりにもたくさんの連中の思いを背負いすぎた」

「まったくお前らしいな。わかった。だがせめて、場所だけは突き止めさせてくれ。においが続くのは、この先だ」


 そう言うとアルベールは、牧場の奥を指さした。マシューはアルベールに小さく頷くと、ふたりはその方向に広がる闇を、たいまつの明かりで切り開いていった。

 パトリックの牧場はそれなりの広さがあった。犯人のにおいはその敷地内を突っ切るように続いていた。


 しばらく進んでいくと、マシューの目に建物のようなものが見えてきた。

 マシューはアルベールにハンドサインで『建物が見える』と送った。アルベールは大きく頷くと、ふたりの立つ地面から小屋に向けて線を描くように指をさした。

 においが、あの小屋まで続いているらしい。

 ふたりは今までよりも慎重に、アルベールのなぞった道を進んでいった。

 たどりついた木造の建物はそれなりの大きさで、かなり大きな両開きの扉がついていた。どうやら牛舎か馬屋のようである。だがあたりからはまったく動物のにおいはしない。どうやら使われていないようだ。

 アルベールは扉に指をさして頷く。においはこの中に続いているようで間違いなさそうだ。答えるようにマシューも頷いてゆっくりと扉に近づくと、そっと耳を当てた。

 耳に全身の神経を集中させながら、マシューは中の様子をうかがった。だが、中からは何も聞こえない。

 扉が分厚いのだろうかと思ったマシューは、扉の蝶番のあたりに移動し、耳を当てた。聞こえぬ中からなんとか何かを聞き取ろうとじっと耳をこらしていると、中から足音が聞こえた。そして、


「大丈夫だ、お前のことは……」


 確かにパトリックの声で、そう聞こえた。

 その時、扉の向こうでカチリと音がした。


「伏せろっ!」


 マシューが身をかがめた瞬間、蝶番のあたりの木目が爆ぜた。直後、ほのかに火薬のにおいがした。マシューはゆっくりと、土だらけになった顔をあげた。アルベールは地面につっぷしたまま、まったく動かない。マシューはできるかぎりの小さな声で、アルベールに声をかける。


「アルベール、大丈夫か」

「何も問題ない」


 ずれた眼鏡をもどしながら、いつもにもまして小声でアルベールが答えた。


「お前は戻れ。ハンスじいさんたちが戻ってきたら、全員でここに来るよう伝えろ。俺は今からすべてを終わらせる」

「よし、わかった……でもな、絶対に生きて帰ってこいよ」

「わかってる」

「……それじゃ、健闘を祈る。また後で」

「おう」


 それだけ言ったところで、アルベールはぱっと立ち上がった。とたんに再び銃声が響いたが、アルベールは何事もなく来た道を引き返していった。

 マシューは背中から斧を抜くと、一気に立ち上がった。

 パトリックが再び弾を込める前に、こっちも反撃に出たい。

 両足に渾身の力を込めたマシューは、大扉に体当たりした。そして中に躍り込んだと同時に歯を食いしばり、一気に斧を振り上げた。

 ちょうどその時、マシューの視線のその先で、再びカチリと音がした。

 それがまるで合図かなにかのように、マシューの動きが斧を振り上げた姿勢のままピタリと止まる。



 瞬間、一帯は水を打ったように静かになる。吹きこむ風で舞い上がる藁くず以外に、何一つ動くものはなかった。

 真っ暗な銃口が、こちらを睨んでいる。

 そしてその真上の照準器の向こうで、パトリックの本物の眼もこっちを睨んでいる。

 ふたりの距離はさほど離れていない。

 斧を投げつければ確実にパトリックの額にぶちこめる、だがこちらも眉間に鉛玉をぶち込まれることも確実だ。

 だが、それはパトリックとて同じだろう。俺の斧を投げる速さを、奴は忘れたわけではあるまい。

 そうならば、今考えるべきは――。



 この建物の中には今、三人の男がいる。


 ひとりはマシュー。

 斧を振り上げて、いつでも投げられる体勢だ。その眼は残りのふたりの男に向けられている。狙っているのは片方の男の方だが、状況次第でもうひとりの方にも投げられるように注意をはらっていた。


 もうひとりはパトリック。

 腰のベルトには先ほどの牧童と同じように、マシューの斧がさがっている。フリントロック式のライフルには弾がこめられ、照準はマシューの額に向けられている。こちらの狙いはマシューただ一人だ。その眼は明らかに殺意に満ちていたが、一方で動揺しているのも確かだった。なにせ、自分が罠にはめて二度と立てないほどにまで追いやったはずの男が、こうして自分を殺そうと再び自分の前に姿を現したのだから。


 そして、最後のひとりは……。

 薄汚れた狼の毛皮を身にまとい、うつむいた半裸の姿でパトリックの隣に立っていた。



「……聖人でもあるまいに、性懲りもなく舞い戻ってきやがったか、マシュー」

「貴様にまた会わずには、俺だってあの世を拝むわけにはいかん」


 言った瞬間マシューの眼はギラリと輝き、パトリックの顔を見据えた。


「だって、ようやくこの事件の犯人までたどりついたんだからな。犯人探しを指揮をしているお前に、報告してやらねえと。だが、これが真実ならどれだけ狼だろうが人狼だろうが、そして俺のせがれだろうが皆殺しにしたところで、この村での殺しが終わるわけなんかないよな」


 マシューが突きつけるように語るのを、パトリックはただじっと聞いているようであった。ただその顔は涼しい夜更けにも関わらず汗にまみれ、銃を握る手は、細かく震えていた。


「……普通ならこんなことめったにあるもんじゃない。考えついた時には俺も半信半疑だったが、まったくありえないわけじゃない。それがお前たちにようやく会った今、ひとつひとつの点が全部線になった。こんなことがあるもんなんだなと、正直なところ俺も驚いている」


 マシューはパトリックに言い放つと、続けてその隣に立つ男に呼びかけた。


「おい若造、お前、俺のことを覚えてるか?覚えてる……わけ、ねえか。俺はお前が産まれた時な……」


 震えるようなその声は、感慨深さと怒りが入り混じっていた。


「お祝いに鹿の肉を送ってやったんだぞ、ウィレム」


 名を呼ばれた瞬間垣間見えたその顔は、パトリックとアランに瓜二つであった。

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