その3

 マシューは薄暗い森の中を見回しながら、必死にジャンの手掛かりを探した。ジャンが他の男たちを見失って、森の中をさまよっているだけであってほしかった。

 しかしマシューは、山中を進むにつれてその考えに自信を持てなくなっていた。討伐隊の男たちは、みな呼子を持っているのだ。もしも一団を見失ったとしたら、呼子を鳴らして居場所を知らせるはずだからだ。

 その思いに、マシューは気が滅入るような思いであった。マシューは手の甲で汗をぬぐって、大きく息をついた。


 ……いや、違う。ジャンは銃を持っている。もしも狼に出くわしたのならば、襲われようとなかろうと銃をぶっ放しているはずだ。そもそも武器を持った人間に、狼が何も考えず襲い掛かることはない。狼の習性から考えて、襲い掛かる前にはじっくりと機をうかがうはずだ。

 そうだ。そうに違いない。


 半ば無理やりに考えながら、列から少し離れた茂みを進んでいたその時、マシューの脚になにか固いものが当たった。足で触ってみると、なにか長いもののようだ。だが倒木とも感触が違う。

 拾い上げたマシューのその手には、一挺の銃が握られていた。


――ジャンの銃だ。


 マシューは銃口に触れた。冷たい。そして薬室には、火薬が詰められたままだった。

 もしかしたら、このあたりにいるかもしれない。マシューは斧を背中の鞘にしまうと、銃であたりの茂みをはらいながら、手掛かりがないか足元を必死にさがした。


 と、その時。

 銃床で払った茂みの中に、一瞬何か赤黒いものが見えた。それはマシューの目には何か血の塊のようにも見えた。

 マシューは再び茂みをかき分けて、その赤黒いものを目の当たりにした。

 それは、何か引きちぎられたもののようにも、マシューには見えた。その赤黒い中に、ところどころ白いものも見える。

 マシューはおそるおそる手を伸ばし、それを拾い上げる。すると生暖かい手触りとともに、マシューの手が赤く染まり、血がしたたり落ちた。


 それは紛れもなく、ジャンのものと思われる血染めのスカーフであった。


 広げてみるとスカーフは破れて四分の三ほどの大きさになっており、いくつか小さい穴も開いている。

 そして、あたりのこげ茶色の土でわからなかったが、よく目を凝らしてみれば、あたりには血痕も残っていた。

 あたりの様子を見終えたマシューには、ジャンがどのような目に遭ったかが想像できた。


 ――恐らくジャンは、何らかの理由でまっすぐ皆のもとに戻らなかった。前の男を見失ったのか、それとも小便でもしに行ったのか。こうしてひとりになったジャンに、狼が襲い掛かった。狼はスカーフを巻いたジャンの首に食らいついた――そして銃を撃つまでもなく、ジャンはスカーフごと首の肉を食いちぎられ、どこかに引きずられて行ってしまった。




 次の瞬間、マシューの額から冷や汗がどっと噴き出した。今になって、ひとりでジャンを探しに出たことを後悔した。


 奴らが機をうかがう時間は、もう終わっていたんだ。

 もしかしたら、俺たちが足跡を見つけた時にはもう襲う気でいたのかもしれない。

 だが……なぜ襲ってくるのか?俺たちが何かしたとでもいうのか……!?

 不安と疑問が交錯した、その刹那。

 後ろの茂みから、肩越しに音が聞こえた。

 ふり向いた時には、淡い茶色の毛と、その中に見える白い牙が、今にも左腕に食らいつこうとしていた。


 ぶつかった衝撃で、マシューはあおむけにどっと倒れた。突如として襲い掛かってきた狼の牙は、とっさにマシューが両腕を出して顔の前に掲げた銃身に突き刺さっていた。それでも狼の噛む力が強いのか、削れた銃床の木くずがマシューの顔に降り注いでくる。押さえこまれ身動きが取れないマシューの耳に、周りの茂みの揺れる音が聞こえた。

 あと二、三匹いやがる!

 マシューは力をこめて狼が食らいついたままの銃を足元に向かって投げ捨てると、すぐさま上体を起こして背中の斧を取った。そして自身の右後ろから喉を狙って飛びかかってきた狼の頭に向かって、振り向きざまに横なぐりの一撃を叩き込んだ。狼は殴り飛ばされたかのように茂みの中に倒れこみ、そのまま動かなくなった。

 しかしその時にはすでに、先ほどまで銃に食らいついていた狼がマシュー目がけてふたたび飛びかからんとしていた。

 とっさにマシューは体をひねると、眼前に迫ってきた狼の頸部に斧の刃を叩き込んだ。その一瞬、マシューの顔に返り血が飛び、視界が遮られた。狼はしたたかに地面に叩きつけられ、二度と身体を起こすことはなかった。

 残りの一匹は、一瞬のうちに二匹の仲間を葬ったマシューを警戒してか、しばらく唸り声をあげていたが、近づいていくと文字通り尻尾を巻いて逃げていった。

 狼の気配が消えると、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、周りが静かになった。


 マシューは息を整えながら物入れから布をとり出し、返り血で真っ赤になった顔をぬぐう。まわりがはっきり見えるようになってはじめて、自分のまわりがすさまじい有様になっていることに気づいた。ついさっきまで泥で汚れていた程度だった白いシャツは、返り血で首から胸元にかけて深紅に染まっている。そして狼の亡骸のまわりの地面は大量の血でぬかるみ、泥のようになっていた。

 そんな光景を目の当たりにしたマシューは小さく、


「早く戻ったほうがよさそうだな……」


 つぶやくと、静寂を切り裂くように甲高く銃声が鳴り響いた。マシューは身構えた。

 聞こえてきたのは……討伐隊のいる方角からだ。

 気づいた瞬間、マシューの身体はすでに走り出していた。

 ついに、やってきたか。

 マシューは討伐隊の集合場所に向け、草を蹴り倒木を飛び越え、年齢に似合わぬ速さで山中を駆け抜けていた。

 ひとりで捜索に向かう前にマシューは討伐隊の男たちに、狼を確実に仕留められる距離になるまでは銃を撃たないように告げている。討伐隊の誰かが銃を撃ったということは、我慢できずに撃ったかもしれないということを考慮しても、狼が討伐隊のすぐそばまで迫っているということにほかならない。

 狼が、この銃声におびえて逃げていけばいいのだが……。

 走りながら、マシューは左手も背中に伸ばし、斧を握った。次第にマシューの耳に、たくさんの狼の吠える声が聞こえてくる。


 その時であった。

 マシューの目に、こちらに向かって進んでくる何者かの影が見えた。その影が、討伐隊のひとりであることは、マシューの目にもすぐにわかった。しかし、マシューはその様子に首をかしげた。

 その男は、たった一人で走っていたのである。


「おーい!どうした!?」


 マシューは警戒させないように声をあげながら、男のもとに近づいた。

 討伐隊の男たちには、集まっていれば狼は警戒して襲ってこないと言ってある。むしろ先ほどのマシューやジャンのように、ひとりでいるほうが危険なのだ。マシューは男を捕まえると、問いただすように言った。


「お前、どうしてひとりでいるんだ!?」

「その、狼が突然、オークの兄さんの腕にかみついたもんですから、みんなもうだめだと思って……」

「バカ野郎!奴らはな、ひとりになった奴から襲うんだ!戻れ!」


 マシューは男の襟をつかむと、集合場所に向かって引っ張っていこうとした。

 すると突然、あたりの茂みがこちらに近づくようにガサガサと動き始めた。


「畜生!」


 マシューは茂みに踊りよると、動きのあった草のあたりを目がけて思いきり蹴り上げた。つま先に何かが当たったと同時に小さめの狼が雑草とともに空中を舞い、そのまま背を向けて逃げていった。

 その時である。


「ぎゃあっ!」


 マシューの後ろから、先ほどの男の叫びが聞こえた。振り向いてみれば、男の左脚に狼が食らいつき、振り回して転ばそうとしているではないか。マシューは斧を狼の足元に投げつけた。斧が狼の足元の地面に突き刺さると、狼は男の脚を放し、草むらへと消えた。それと同時に、男は噛まれた部分を抑えて地面に座りこんだ。


「大丈夫か!?肩を貸すぞ」


 マシューは男の左腕を自分の肩に回し、担いだ。男は左足を引きずりながら、マシューと共に山中を進んでいった。

 しばらく進むと、少しずつ狼の唸り声は大きくなっていった。その唸り声の真っただ中に、クマヨシと討伐隊がいるのだろう。しかし、木々の間にその姿は見えない。

 その道行きの間、常にマシューはあたりを睨みつけていた。一度逃げたとしても、狼たちは茂みの中からこちらを見つめ、じっと襲い掛かる機会をうかがっているのだ。

 担がれている男は痛みがひどいのか、マシューの耳元でずっと小さくうなっている。男の左足は、脛から下が真っ赤になっていた。


「しっかりしろ。みんなと合流したら手当てをする。それまで頑張るんだ」


 このような励ましの言葉を何度目かに言った時、ついに、


「おーい!父さん!」


 唸り声の中に、クマヨシの声が聞こえてきた。マシューが顔をあげると、木々の間に、クマヨシたちの姿が見えた。

 クマヨシはどうやら、ナイフ一本で狼たちを威嚇しているらしい。そしてクマヨシ以外には、討伐隊の男はフィリップ含め二人の姿しか見えなかった。その二人も、手製の槍と銃で群がる狼を威嚇しているようだ。


「みなさん、父さんのほうに行きましょう!」


 クマヨシがそう言った瞬間、討伐隊の周りにいた狼が二匹、マシューたちに気づいたのか、こちらめがけて走ってきた。マシューは肩を貸している男に、


「少し離れるぞ」


 と言って男を座らせると、斧を両手に一本ずつ背中の鞘から出して握り、狼へと向かって一直線に駆けだしていった。

 マシューはすぐさま振りかぶって右手の斧を投げると、斧は低めの放物線を描き、右側の狼の背中に命中した。片方の狼が茂みの中に沈むと、すかさずマシューは左手の斧を右手に持ち替え、襲い来るもう一匹の狼に向けて突っ込んでいった。


 双方激突するか、といったその時、狼がマシューの首に食らいつこうと、牙をむいて飛びかかった。とっさにマシューは身体を左に傾け、まるで犬と遊んでいるかのようにその攻撃をかわした。

 両者がすれちがい、マシューが一瞬狼より早く反転したその瞬間、勝負は決まった。

 狼が着地して反転し、再び飛びかかろうとしたとき、すでにマシューの斧は狼の頭をたたき割っていた。

 しかし、マシューは止まらない。

 マシューはそのまま斧を振り上げ、脚を怪我した男のほうに向けて力いっぱい投げつけた。

 斧はしばらく宙を舞って……男に牙を突き立てようとした狼の脇腹を切り裂いた。

 その様子を見届ける前に、マシューは男のもとへとかけだした。その後ろにはクマヨシたちが続いていた。

 脚を怪我した男のもとにたどりつくと、マシューは狼の亡骸から引き抜いた斧を手に再び男を立たせた。

 直後にクマヨシたちもふたりのもとにたどりついた。クマヨシは右手にマシューの斧、左手に自分のナイフを持っていた。けがをした男に気づいたクマヨシは、すぐさま男に駆け寄る。


「あっ、この人……」

「足を狼に食いつかれたんだ。手当てできるか?」

「うん、綿と薬はあるから。ちょっと待ってて……」


 しかし、男の手当てを始めたクマヨシも、シャツの左袖がちぎれ、緑色の肌に赤黒い血が二筋ほど垂れていた。

 フィリップたちと共に狼をけん制するマシューはその腕に気づくと、心配そうに指さして尋ねた。


「クマヨシ、その傷は大丈夫なのか」

「うん。そこまで深いわけじゃないし、腕も問題なく動かせてるから」

「さすが、普通の身体はしてないな。でも無理は禁物だ」

「ありがとう。でも、今はね……」


 あたりの茂みからは、まだ唸り声が聞こえる。それに重なって遠くからも、断続的に銃声や、叫び声のような声が聞こえてくる。逃げ出した男の断末魔なのか……?しかし、それが現実の声なのか、マシューの幻聴なのかはわからなかった。


「これで大丈夫」


 クマヨシは男の脚に包帯を巻き終えると、ふたたび斧とナイフをとった。マシューは改めて声をかける。


「……今いるのは、これだけか」

「ごめんよ、僕が……」

「いや、何が起きたかは知ってる。みんな冷静さを失っちまったんだろう」


 集団行動の際に、ひとりの行動に全員がつられてしまうことは、危機的状況だとありがちなことだ。恐らく誰かが逃げ出したことで、ほとんどの者たちもつられて逃げてしまったのだろう。このような状況で冷静でいることは難しいかもしれないが、もしもマシューの言うことを守っていれば全員助かったかもしれない。

 続いて、マシューはフィリップを見た。マシューが予想していたよりも、フィリップはしっかりしているように見えた。しかし、槍を持つ手や足は細かく震えている。


「フィリップ、彼を頼みたいんだが、大丈夫か?」

「ええ、わかりました……」


 マシューは足を怪我した男を、フィリップに託した。返事は相変わらず物静かだったが、これまでよりも明らかに元気がなかった。


「よし、行こう。急ぐぞ!」


 フィリップは槍を杖のようについて支えにしながら男を担いだ。それを確認して、マシューは先頭を切って山を下り始めた。




 陽が暮れかける頃になると、長く伸びた木々の陰が茂みを覆い、森の中は狼が身を潜められる暗闇が増えていく。

 一行は真ん中にフィリップと怪我をした男をおき、残りの三人が三角形に囲むようにして下り坂を進んでいった。マシューたちの耳には、すぐにこのあたりが闇に包まれることを警告するかのように、ヒグラシの鳴き声がどこか不気味に聞こえていた。

 狼の姿は見えなくなったが、まだ一行を取り巻いて追いかけているのは明らかだった。何よりも、狼の鳴き声はまだ聞こえてくる。

 マシューはまっすぐに山を下りるルートをとった。一刻も早く狼の縄張りを抜け出して山を下りたかったからだ。しかしこのルートは時折崖や急な坂に突き当たることがあり、そうでなくてもけが人がいる現状では進む速度も限界がある。

 男を担いだフィリップでも歩けるような下り道を探していると、後ろからクマヨシが声をかけてきた。


「父さん、狼たちは僕らを食べようとしたのかな」

「それはないだろう。連中の体格を見る限り、別に飢えている様子はない。この時期なら山に餌も豊富にあるはずだしな」

「なら、どうして狼たちはどうして僕らを殺そうとしたんだろう」

「……わからん。縄張りに入ってきたとしても、ここまで攻撃的になることはまずない。もっとも今回の事件と、何か関りがあるのかもしれんが」


 ここまで話したあたりで、坂道が急になったことにマシューは気づいた。前を見てみると、ここから先は急な下り坂が長めに続いているようだ。マシューは茂みの中を二、三歩ほど、確かめるように下っていった。そして足を止めて、後ろに向かって声をかける。


「フィリップ、このあたりから少し急勾配が続くぞ。手を貸そうか」

「お、お願いします」


 と、マシューが坂の上のフィリップたちに近づこうとした。すると、ふとあることに気づいた。

 何も聞こえない。

 先ほどまで鳴り響いていたはずのヒグラシの鳴き声が、鳴りやんだ。

 マシューが一瞬、そのことにとらわれた、その時。


「ああっ!」


 フィリップが足を滑らせ、担いでいた男ともども、こちらに脚を向けて滑りこんできた。

 マシューはとっさに手を広げ、ふたりを抱きかかえるように制止した。足元に木の根っこがあり、ふんばることができたのも大きかった。もし何もなければ、マシューも巻きこんで三人とも坂道を転げ落ちていたかもしれない。

 ほっとしたマシューのもとに、


「大丈夫ですか!?」


 クマヨシが声をかけたと同時に、銃をもった男と共に心配そうに近づいてきた。

 しかし、その時。マシューの心中に嫌な予感が走った。


「お前ら!後ろに注意しろ!」


 マシューが坂の上に叫んだ時には、銃をもった男は何かを察したのか後ろを向き、体をこわばらせていた。そして次の瞬間、男の銃が火を噴いたと同時に、男は狼と共に坂へと倒れこみ、マシューの横をボールのように転げ落ちていった。おそらく木や岩にその身を打ち付けたのだろう、何かが砕けたり、折れたりするような鈍い音を立てながら。


 おそらく一同に隙がうまれた瞬間、茂みをかき分けて襲ってきた狼の気配に男は気づいたのだろう。男は狼の姿を見つけ、引き金を引いた。しかし、彼の持っていた銃はこの時代一般的だったフリントロック式であった。

 この銃は引き金を引くとハンマーについた火打石が発火し、火薬に点火、発射するというシステムの銃だ。しかし、この方式の銃に使われる黒色火薬は、火がついてから爆発するまで、〇・五秒ほど時間がかかる。男はその一瞬に狼に食いつかれてしまったのである。もし彼の使っていた銃が薬莢を用いる近代式のライフルであれば、狼を撃ち倒せていたかもしれない。


 狼はクマヨシにも同様に襲い掛かっていた。クマヨシはとっさに斧の柄を狼に食らいつかせ、その隙にナイフで喉をかき斬った。倒した狼をふり払った後はわざと大げさな動きで斧とナイフを振り回し、他の狼たちをけん制した。

 一方のマシューはフィリップと共に怪我人の両脇をかかえて立ち上がると、クマヨシに声をかけた。


「クマヨシ、急いで山を下りるぞ!」

「はいっ!」


 クマヨシは狼を一匹蹴り飛ばすとマシューたちのもとまで滑りおり、一行の盾になるように狼たちとの間に立った。斧と逆手に持ったナイフを構えて狼と対峙するその姿は、まさに勇敢なオークの戦士と呼ぶにふさわしいものであった。

 そんなクマヨシの大きな背中を見て、頼もしくなったな……とマシューは思った。


「よし、フィリップ。呼吸を合わせて、坂道を下りるんだ。一、二、でいくぞ」

「はい!」


 マシューとフィリップは怪我をした男を間にはさんで、まるで二人三脚のようにゆっくりと坂を下っていく。最初は、


「一、二、一、二……」


 と共に声をかけても転んだりしていたふたりだったが、しだいに慣れてきたのか声を出さずとも転ぶことなく進んでいった。

 そうしているうちに、フィリップは小さくつぶやくように言った。


「……やっぱり、私はマシューさんのようにはなれませんね。なんだか、自分の弱さを知ったような気がします」

「そんなことないさ。俺とあんたとじゃ、生きてきた人生が違っただけさ。ほとんど山に入ったことないにしては、本当によくやってるよ」

「でも……ここまでやれたのは、きっと娘のことがあったからでしょうね。あと家族も……自分はまだ死ねない、絶対に死ねないってただそれだけの気持ちで、ここまでやってるような気がします」

「そうか……なんだか、戦争に行った時の俺みたいだな」

「戦争に行ってたんですか?」

「ああ、本当に若いころな……すべてが終わったら、ゆっくり話そうか。さしで酒でも飲みながら、な」

「はい、ぜひ……」


 顔がほころんだふたりに、ほんの少しだけ希望が生まれた。しかし、マシューの気持ちはすぐに切り替わった。ふと狼のことが気になって、肩越しに後ろをうかがった。

 狼の姿は遠くであるがちらほら見える。もう聞き飽きた狼の鳴き声も、一時に比べればすいぶん少なくなった。さきほどまでいた高台が、はるか後ろに見える。下り坂の終わりを示す山道も、進む先に見えてきた。気づけばかなりの距離を下りていたと、マシューは実感した。

 ところが。夕暮れの暗がりの中、ふたたび後方に目をやったマシューは、そこに見たものに思わず言葉を失った。


 高台の大きな木のそばに、何者かの影が見える。その何者かの後ろから、今まで相手をした狼よりひとまわり大きな狼が現われた。

 その時、木の葉を揺らす強い風があたりに吹きわたった。

 木の葉が揺れ、その狭間から漏れた茜色の陽の光がその影を照らす。

 マシューはようやく、夕闇の中に浮かび上がったその姿を認めた。


「アルベール……?」


 マシューが小さくつぶやいた時には、アルベールも狼も闇の中に消えていた。しかし、無表情でこちらを見つめるアルベールの姿は、しばらくマシューの脳裏に焼き付いて離れなかった。

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