その2
山に分け入った男たちは隣の者が見える程度の間隔を空けて横一列に並び、鬱蒼と生い茂る森の中に目を凝らしながら、道なき道をナイフで切り開いて進んでいった。銃を持つ者とそうでない者が交互に並び、その周りをマシューとクマヨシが巡回して異常や問題がないか視察していた。
何か手掛かりを見つけた時や異常があった時は、夜警の時と同じように呼子を鳴らす手はずとなっている。
また、それぞれの銃の先には、ナイフや包丁が釘で留められていた。これはクマヨシのアイディアで、襲撃を受けた際にもし銃弾を外したとしてもそのまま槍として使えるようにするための工夫であった。昨日の道中で襲われた農家の父親などが手製の槍を作っていたことからの発想だった。
マシューは巡回の間にも、男たちに一人ずつ、「ご苦労さん」と声をかけ、軽く雑談をしていった。男たちの緊張をほぐすためということもあったが、それ以外にもうひとつ、大きな目的があった。
「……ところであんた、酪農家ってことはパトリックとも付き合いはあるのかい?」
マシューは若いころのパトリックの姿しか知らなかった。
ナオミが召され、クマヨシを息子とする頃までは、まだパトリックはまだ若き猟師だった。
しかしその後、戦争がはじまった。
国は猟師たちの体力や身体能力を高く買い、山中に潜んで敵の補給線を断つゲリラ戦の兵士や、最前線での偵察要員として徴兵したのであった。そして兵士として戦った者には、猟で得られる収入とは桁違いの給金が支給された。
とはいえ……これは余談ではあるが、この土地では貴族が軍人や士官の地位についていることが多く、これらの給金は彼らの与えられる褒賞と比べれば安いものであった。
マシューはふたりの子を養うため、幼いミカとクマヨシを教会に預け、ひとり戦場へと行った。
そして二年後に戦場から戻ってきたときには、パトリックはすでに酪農家となっていたのである。
マシューはその理由を猟師仲間に尋ねたものの誰も答えず、結局その理由はわからずじまいであった。マシューはパトリックの性格と、徴兵逃れのために酪農家になったのだろうと考えていた。
それ以降ふたりは考え方の違いもあって、四日前までまったく顔をあわせずにいたのだった。
男たちも、マシューとパトリックが対立していることは知っていた。ゆえに言葉少なく答える者もいた。それでもマシューの申し出を快く受けてくれる者がいないわけではなかった。討伐隊のなかでもしっかりした体格をした、三十代前半くらいの歳の男はそのうちのひとりだった。
「ああ、俺が兄貴の手伝いを始めた頃に、引っ越して来た奴だった。あの時は家畜の病気が流行ってて、俺も牛たちの看病に駆り出されてたんだ」
「それにしても、どうしてそんな時期に酪農なんか始めたんだろうか」
「ちょうど病気で廃業しちまう牧場が出て、そこの土地を買ったんだろうな。あいつが本格的に牛や羊を飼って酪農を始めるのは、病気が落ち着いてからだった。それまではずっと、嫁さんと一緒に俺んとこや周りの牧場で手伝いをしていたよ」
男は気さくに話してくれた。その話しぶりからはパトリックに対して悪い印象は感じられず、あくまでひとりの同業者と考えているようだ。
「そしたら次の年の冬に、村にノイバーブルクの役人が来た。戦争で軍服を作るために、羊毛を徴発するってよ。どうやら羊がいっぱいいる北の土地から、羊毛を輸送できなくなったらしくてな。百姓たちが古いセーターで冬を越そうか、なんて話してた時にパトリックの奴、羊毛をしこたま隠し持っていてみんなに配り始めたんだ。それ以来、みんなあいつに何かと手助けするようになったってわけさ。おかげで今じゃかなりの人数の牧童を従えた、村でも有数の酪農家さ」
「なるほど、あいつもずるがしこいな。お前さんの話じゃ、そこまで評判は悪くなさそうだが」
「とはいっても、いろいろ良くない噂も聞くからな。もっともそんなのは、名前のあるやつにはありがちなことだけど」
その良くない噂、というのは、後に話しかけた男が詳しく教えてくれた。その男はマシューよりも年上の見た目で、特徴的なかすれた声で話してくれた。
「……俺っちの畑はパトリックの農地のそばにあってな、家畜はぜってえに入れねえように注意してくれって、しつこく言ったのよ。
それでもあいつの牛や羊が、俺っちの畑の青い苗を食っちまったことがあった。それで俺っちは文句を言いに行ったんだが、そしたら次の日の朝には、俺っちの畑が荒らされていたんだ。あいつは山から下りてきた鹿やイノシシのせいだとか言ってやがったが、きっとあいつの牧童どもがやったに違いない。
それ以来、牧場と畑の間に柵をつけて、さらに有刺鉄線を巻いといたのさ。あいつのとこのものは、家畜だろうと牧童だろうと入らせねえようにな。他の奴からも、同じようなことされたって話は時々聞くなぁ」
「なるほどな。で、今回討伐隊に志願してくれたのは、どういう思いがあったんだ?」
「志願?とんでもねえ。パトリックの野郎にやれって言われたから来たのよ。俺っちにだって、今日には今日の仕事があらあ。それでも来いってうるせえから、仕事はせがれたちに任せて俺っちだけが来たのよ」
「そうだったのか……」
この男の後に、マシューは他の男からも話を聞いてきたが、その中には過去にパトリックとトラブルを起こしたものが少なからずいた。そしてその全員がパトリックから討伐隊に参加するよう言われたというのだ。
これはいったい、どういうことだろうか……。
ただ、自分に反対しそうな人間を自分の周囲から追い出すなんてことは、パトリックならば平気でしそうではある。
他にも気になることは多々あるが、疲れのためかマシューの考えはうまくまとまらなかった。そんな気をまぎらわすためか、マシューは先ほど話を聞いた男にふたたび話しかけた。
「なあお前さん、パトリックの奴が言ったように、この事件が本当に狼の仕業だと思うか?」
「そんなこと……俺っちにゃわかんねえよ。そういうことなら俺っちよりも、猟師さんのほうがよくわかるんじゃねえのか?」
至極ごもっともな回答である。
「……確かにその通りだ。ありがとう。体調が悪くなりそうだったら言ってくれよ」
「お前さんのほうこそな。なにせ俺っちたちは、猟師さんたちだけが頼りなんだからよ」
その言葉でマシューは、ほんのちょっぴり元気を取り戻した。
思わぬ人物からの励ましを受けたことで、マシューはようやくある人物と正面から話をしようという気になった。言うまでもなく、フィリップのことである。
フィリップは隊列の左翼側、端から三人目のところにいた。その目はまっすぐ前を見つめ、不慣れな山歩きのためか、いつも以上に身体が緊張でこわばっているように見えた。
「ご苦労さん、フィリップ」
「ご苦労様です」
「調子はどうだ?」
「ええ、まあ」
マシューは小さく頷くと、真っ先に聞きたかったことをフィリップに振った。
「山狩りに志願したのは、やっぱり……自分でかたきを討つためか?」
「……ええ。自分が動かなきゃ、何も変わらないような気がして」
フィリップのほうも、マシューには直接言いづらいところがあるのだろう。ふたりの男の会話は、どこか歯切れ悪く続く。
「それは、その……昨日のことがあったからか」
「確かにそのこともありますけど、なんというか……結局信じれるのは自分だけなんだなって感じまして。みんながみんな、調子のいい事ばかり言って……」
その言葉が、マシューの心に刺さった。『みんな』という言葉の中に、自分も入っているような気がした。その思いに、マシューの口から言葉がついて出た。
「すまない。俺も昨日、あれだけのことを言っておきながら……」
「いや、そんな。仕方なかったんですよ、あれは」
そう言ったフィリップの目は、マシューではなく森の奥深くを見つめていた。まるで、フィリップが自分自身に言い聞かせているかのように、マシューには聞こえた。
「……パトリックのことは、どう思ってるんだ?」
「あの人は……ただ、どうしようもないな、って」
物静かな口調で語られた予想以上に辛辣な言葉に、マシューは心中で戸惑った。しかしその後の言葉を聞けば、そう思うのも仕方ないような気がした。
「パトリックさんは本気で事件を解決させようとしているようには見えません。きっと、早く厄介ごとを解決させてしまおうと考えているんでしょうね。
でも、いったん狼が犯人だってことにしてしまったら、きっと皆この事件のことを忘れてしまうでしょう。そうなってしまうと、真犯人を見つけるのは一層難しくなります」
それについては、マシューも同じ意見であった。事件が一度何らかの形で丸く収まったその時、すべては過去の出来事となる。そして語り継がれることもなくなれば、あとは歴史の中に消えていくだけだ。
語気の強さに比例するように、フィリップの視線がゆっくりと草の生いしげる地面へと落ちていく。
「もし結局、真犯人は見つからず、なんてことになったら……娘や他に犠牲になった人たちに、どんな顔をすればいいかわからないじゃないですか」
「お前さんも、狼が犯人じゃないと思ってるのか」
「ええ。うちの末っ子は狼だって言ったんですが、ただの狼とも思えなくて。でもあの正体が何なのかと言われたら、答えには困りますが」
ずっと物静かに話していたフィリップの口調が、突然強くなった。
「でも、何者が犯人だったとしても、必ず奴が報いを受ける瞬間をこの目で見届けてやります」
「ただ、もしお前さんの身に何かあったらどうする」
「その時は……その時ですよ。何があっても、という覚悟はできてます」
そう語ったフィリップに、マシューは言葉を失った。もしかしたらフィリップは、自ら命を絶つつもりでこの討伐隊に参加したのかもしれない。
だがその裏にあるのは自分の娘への贖罪の念なのか、それとも自身の感情にけじめをつけるという責任感なのか、はたまた現実と向き合えない臆病さでしかないのかは、マシューにはわからなかった。
その時であった。
ふたりの耳に突如として、甲高いピーッという音が飛びこんできた。
「この音は……」
「呼子の音だ!」
甲高い音に、男たちは全員動きを止めた。その中でただ一人マシューだけは呼子の音のするほうへ走っていった。
クマヨシは呼子を鳴らした男のもとに先に着いていた。
「この人が、狼の足跡を見つけたって」
そう言ってクマヨシは地面を指さした。若干ぬかるんだ地面の上に、確かに狼の足跡が残っていた。
「まだできてまもない足跡だな」
「ってことは、この近くにいる?」
「そういうことだ。他にも足跡がないか探そう」
マシューたちはまわりの茂みをかきわけて、狼の足跡を探した。その結果、合わせて二、三匹ほどの狼の足跡が見つかった。いずれの足跡も、討伐隊の進もうとしている方向の茂みへと消えていた。
ただ、マシューの記憶によればこのあたりは狼の縄張りには近いものの、まだその内側というわけではなかった。足跡の数から考えても、縄張りから外れた一匹狼のものとも考えづらい。
もしかしたら、縄張りの大きさが広くなったのかもしれない。
マシューがそう考えた、その時だった。
討伐隊が進もうとしている森の先から、聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。
まぎれもない、狼の遠吠えであった。
突然のことに思わず身構えたマシューの耳に、続けて第二、第三の遠吠えが飛びこんでくる。しかも、それらは全て同じ方向から飛んできたわけではない。
まるで討伐隊を取り囲んだかのように、四方八方から聞こえてきたのである。
そのことに気づいたマシューの額に、冷や汗がにじんできた。狼の狩りは基本的に群れで行われる。数匹が獲物の進行方向に先回りして待ち伏せ、残りが後ろから追いこむのだ。
「父さん」
「とりあえず、いったん全員集合しよう。全員、列の中央に集まるよう、みんなに伝言してくれ」
マシューは周りにいた討伐隊のメンバーにそう言うと、クマヨシと共に中央へと向かった。
中央に戻ったマシューのもとに、続々と男たちは集まってきた。その様子はさまざまで、狼の遠吠えにおびえるものもいれば、逆にまったく気にも留めていないものもいた。
マシューは戻ってきた男たちに、
「今、みんなも聞いたように、俺たちのすぐそばに狼の住処がある。だが狼はもともと臆病な動物だ。こっちから手を出さない限り、襲ってくることはほとんどない。でも万が一のことを考えて、ここからは縦に一列になって進もうと思う。そしてもしものときには、いったん戻ることも検討しよう」
と、自身の考えを告げた。素人の百姓や酪農家たちの中に、マシューの言うことに異議を唱える者はなかった。たったひとりを除いては。
「マシューさん、新しい手掛かりも何も得られてないのに戻るのは、考えものだと思うのですが」
そう声をあげたのは、フィリップだった。そのことに驚きを覚えながらも、マシューは毅然とした態度で返す。
「いや、ここは慎重に行こう。ここにいるのはほとんどが野生動物相手に戦ったことのない素人たちだ」
「それでも皆、鉄砲や槍も持ってます。動物と戦うにはそれで十分だと思うのですが」
「武器はどんなに強力でも所詮武器だ。獣を相手にする度胸がなければ意味がない」
「その程度の度胸ならば、皆それなりには持っているでしょう。それに何も成果がなく戻れば、またパトリックさんから何を言われるかわかりませんよ」
最後の一言に、マシューは一瞬言葉を詰まらせた。
「わかった。それに関しては考えておこう。さて……」
マシューはこのあたりで、全員集まっただろうと思い、人数を数えていった。
ひとり、ふたり……十二、十三、十四、十五。自分を含めて十六人。
一人、いない。
再びマシューは人数を数えていったが、自分を入れて十六人しかいないのは変わらなかった。誰がいなくなったのかを確認するため、改めて男たちの顔を見ていった。誰がいないかはすぐにわかった。銃を持って列の左翼側の一番端を歩いていた、白いスカーフを首に巻いていた男だ。
そのことに気づいたマシューは、すぐさま列の左から二番目を歩いていた男に声をかける。
「なあ、お前さんの左隣を歩いていた男はどうした?」
「戻るように声をかけて、途中までは自分の後ろにいたんですがね。ずっとついてきてるものだと思ってました」
マシューの脳裏に一瞬、最悪の状況がよぎった。その想像を振り払って、マシューはクマヨシたちに声をかけた。
「討伐隊のメンバーが一人見当たらない。山で迷っているかもしれないから、少しあたりを探してくる。俺が戻るまで、みんなは円陣を作って周りを見張ってくれ。
何があっても、絶対に逃げちゃいけない。大人数で集まっていれば、狼が襲ってくることはないからな。俺がいない間は、みんなクマヨシの指示に従うように。あとくれぐれも、無暗に銃を撃つようなことはやめてくれ。相手の姿を確認して、仕留められる距離になったら撃つんだ」
そう指示をした後でマシューは背中の斧を右手に握ると、男たちに尋ねた。
「いなくなった奴の名前、誰か知ってるか」
「あいつぁ、ジャンっていうんです。『樅の木のジャン』ってみんな呼んでます」
ありがちな名前だ、とマシューは思ったが、この際そんなことはどうだっていい。
「ありがとう。あとは頼んだぞ、クマヨシ。どうかみんな気をつけてくれ!」
それだけをマシューは言い残して、列が左側に伸びていた方角に駆けだした。その後ろで、男たちはクマヨシの指示に従い丸く円を作り始めた。
それぞれの行動に移った男たちの周りで、相変わらず狼の遠吠えは続いていた。
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