その2

 すかさずその上に馬乗りになると、膝でナイフを持ったアルベールの右手を押さえた。この時マシューは、はじめて自分の右腕が脱臼していることに気がついた。


 だが、そんなことなどどうでもよかった。


 全身が血に塗れた姿のまま、持てる限りの握力を左手にこめるマシューの顔は、まさに地獄から蘇った鬼神のようであった。

 頭の傷がふたたび開き止まっていた血が流れ始め、マシューの顔をつたってアルベールの顔に落ちる。


「ぐっ、かはっ……何をっ……」

「アルベール、村の女を殺したのは、お前なんだろう。お前みたいな痩せ犬一匹、左手一本で絞め殺すことなど造作もないんだぞ」

「マシュー、何を言っているんだ……何を吹きこまれた?」

「何も聞いちゃいない。昨晩俺とクマヨシの追撃を振り切ったのもお前だろう。今日の昼間に狼の群れをけしかけたのもお前だろう!」

「知らない、それにもし犯人が俺だったのなら、狼の群れに殺されていたのは、俺だったはずだ」

「何を言うっ!お前のおかげで俺とクマヨシが、この村の人間がどうなったか……」


 言葉を発するたびに、喉をつかんだマシューの手の力は強くなっていった。マシューが言い終わった時には、アルベールは返事どころか満足に息もできないほどの力で締め上げられていた。なんとかその手をのけようとマシューの手首をつかんでいたが、ほとんど無駄に近かった。

 そしてアルベールの頭が、力が抜けて後ろへと倒れていこうとした、その時だった。


「手を放して!」


 マシューは後ろの首筋に、冷たいものがあたっているのに気がついた。気がつくと後ろから、小さなあかりで照らされている。マシューは身体のこわばりがおさまらないのか、錆びた機械のようにゆっくりと首を後ろに回した。

 すぐ後ろでマシューに銃を突きつけていたのは、アルベールの妻、スザンヌだった。よく見てみれば、その豊満な体は小刻みに震え、大きな目は今にも泣きそうなほど潤んでいた。


「この人は昨日の夜、ずっと私と一緒に地下室にいました。信じてください」


 彼女の声は震えていた。マシューには、彼女が血まみれで傷だらけの自身の姿に怯えているようにも思えた。

 マシューの左手は、いつの間にかアルベールの喉から離れていた。アルベールは息を吹き返し、激しく咳きこんでいた。

 その時、マシューの身体にどっと疲れがわき起こった。頭が重くなって、何も考えられなくなる感覚に襲われ、マシューはアルベールの上から身体をどかすように、どっと倒れた。

 そして、アルベールにすがるように駆け寄ったスザンヌの姿を最後に見たきり、マシューは再び気を失ってしまった。




 意識を取り戻してはじめてマシューが感じたのは、額のするどい痛みだった。

 細目を開けてまわりを見てみると、アルベールがランプの火で、小さなナイフをあぶっている。アルベールはすでに眼鏡をかけ、服を着ていた。


「これはいったい……」

「瘤の中で内出血を起こしているんだ。溜まっている悪い血を全部出さないといけない。ちょっと我慢しろよ」


 アルベールがそう言ってこちらに手を伸ばすと、マシューの額に痛みが走った。そして額から頬にかけて、生温いものが伝っていく感覚があった。すかさずアルベールの横からスザンヌが布を出し、それを拭きとった。


「よし、これで大丈夫だ。打撲、脱臼、出血多量。本当、これでどこも骨折していないのが奇跡だよ」


 ナイフの血を布で拭いながらアルベールは言った。

 マシューは夜空を見上げた。そうだ。あの時アルベールが本当に狼をけしかけて殺そうとしたのなら、今頃手当てを受けるどころかマシューは生きてすらいなかっただろう。


「アルベール、さっきはすまなかったな。許してくれ……」

「もういいよ。こんなにひどい目にあったのだから、誰も信じられなくことだってあるさ。どこも異常はないかい?」

「あ、ああ……」


 そう言われてマシューは、ふと自分が股ぐらにも暴行を受けたことを思い出し、とりあえずスザンヌのほうを見た。彼女は身を乗り出した前かがみの体勢で、どこか心配そうな顔つきでこちらを見ている。


「……大丈夫、まだ元気だよ」

「ならよかった」


 アルベールの口が一瞬、少し緩んだ。しかし、マシューは直後に、自分のしなければならないことを思い出した。


「……こんなことをしている暇はない」


 マシューは手をついて立ち上がったが、大きくよろめいた。そこにアルベールは機敏にかけより、ふたたび身体を横にした。


「どうした、そんな体でいきなり駆け出すなんて無茶だ」

「だが、クマヨシが……」

「まず、何があったか話してもらおう。それとも、こっちから先に話したほうがいいかな?」


 アルベールの眼鏡の向こうの瞳は、あくまでも冷静だった。その眼を見て、マシューはふたたび落ち着きを取り戻した。

 ここではじめて、マシューは人狼の集落を去った後で、自分たちの周りに何があったのかを語った。昼間フィリップに会いに行ったこと、ハンスじいさんが村を離れ、代わりにパトリックが犯人捜しを指揮するようになったこと、そして陽が暮れて謎の影と遭遇し、取り逃がしたこと。


「……俺が聞くと、パトリックの奴はこう言った、『でかい狼だった』と」

「マシュー、その言葉を信じたのか」

「当然疑い半分だったさ。だがそれが犯人の姿をはっきり見た、唯一の情報だったんだ」


 その言葉を聞くとアルベールは口を閉じたまま、大きくため息をついた。


「……先に言っておくと、俺が狼の姿で夜中外に出たのは、今日がはじめてだ」

「でも、どうしてそんなことを」


 マシューが尋ねると、アルベールはふたたび息をつく。


「……あまり他人には言いたくなかったんだが、俺は木彫りの仕事のかたわら、薬の研究をしていたんだ。狼の姿でも理性を保てるようになる薬のね。できた薬は自分や嫁を実験台に、地下室でテストをしていた」


 だからクマヨシに、薬草の話を聞いていたのか。マシューは心の中で小さく頷いた。


「ここ一週間くらいはちょうど、俺の狼化の時期だった。そこで新薬を試してみたら、数日は症状がかなり安定した。嫁の顔もわかり、簡単な計算までならできるくらいの効果があった。そこでさらなるテストとして、今夜一度外に出てみようと思ったんだ。外で活動しても問題ないかどうかのね」

「でもそんなことをして、もし薬の効果が切れたら……」

「だから彼女に、銃を持ってついてきてもらった。もし効果が切れて暴れはじめたら、容赦なく銃を撃ってくれと頼んである」


 そう言ったアルベールの横で、スザンヌは小さく頷いた。だが万が一アルベールが暴れだしたとして、彼女は撃てただろうか。彼女は情が勝ってしまい、アルベールの決死の思いには応えられないような気がマシューにはしていた。

 ただ、そこは人狼たちのことだ。価値観を人間のものさしで計ってはいけないのかもしれない。


「なるほどな……」

「うん。で、続きは?」

「ああ、それで夜が明けてから俺たちは……」


 ふたたびマシューは、昼間にあったことを話した。


「……突然狼に襲われたんだ。男たちがひとりひとりやられていく中、ふと山の上を見ると、アルベール、お前がいたんだ。あの時何をしていたんだ?」


 そう言ってアルベールを見たマシューの目は、疑いの目があった。あの時、なぜ助けなかったのか。


「ああ……あの時、確かに俺は狼の縄張りに行っていた。狼たちが何か知っているんじゃないかと思ってね。そこで縄張りのボスに話を聞いたんだけど……」

「何を聞いた?」

「襲われたのは人間だけじゃなかったのさ」


 アルベールの眼光は、いくぶんか鋭くなっていた。


「今、狼の群れはこの春生まれた子供が山歩きを始める時期なんだ。だけど少し前、マシューたちがうちに来たくらいのとき、子供が数匹消えたんだって。

 子供のにおいを頼りに探した結果、いなくなった子供たちはみんな殺されて肉を食べられていたんだ。若い狼たちは激しく怒り狂って、ボスはそれを収めるのに大変だったんだと」

「犯人だったら自分が殺されていたってのは、そういうことだったんだな。で、そのにおいっていうのは」

「クセが強いけど、まぎれもなく人間のにおいだった」


 アルベールは断言した。


「ボスと一緒に子供が死んでいた現場に向かって、自分で確認した。君らが襲われたのはその直後さ。……どうやら、狼たちは縄張りに近づく人間を皆殺しにするつもりだったらしい」


 話しながらアルベールは、視線をゆっくりと落とした。


「あの時はすまなかった。君らを助けたら、自分までどんな目に遭うかわからなかったから」

「……そうか、みんなそう考えるよな」

「えっ?」


 アルベールの言葉に、マシューの脳裏にフィリップの姿が思い浮かぶ。続いてパトリック、クマヨシの姿……。


「……助けに行かねえと」


 マシューは身体をあげて立ち上がろうとしたが、周りに身体を支えるものはなかった。


「待ってよ、どういうこと?」

「パトリックの奴、クマヨシを事件の犯人にして役人どもにさらそうとしているんだ。村の自治のための生贄にするつもりなんだ!」

「なんだって!」

「だから早く山を下りねえと、このままじゃクマヨシが殺されちまう」

「でもその体じゃ……」

「身体は休まったし、傷口の血も止まってる。何も問題はないだろう」

「止血はあくまで応急処置だ。激しく動くとまた傷口が開くぞ」

「なら……」


 と言ってマシューはシャツを脱ぎ、体の傷の状態を触って確かめた。脇腹の大きな傷がまだふさがっていなかった。すると、


「奥さん、銃に使う火薬をくれないか」

「マシュー、お前正気か!?」

「時間がないんだ、早く!」


 包帯と当て布を解きながら、マシューはアルベールから火薬入れを受け取ると、十分な量を出して傷口にすりこんだ。

 これだけでも火薬が傷にしみて相当な痛みを覚えたが、処置は終わったわけではない。


「スザンヌ、軟膏の準備を」

「はい……」


 アルベールとスザンヌが見守る中、マシューはロープを切ると、その切り口をランプの灯であぶり、火種をつけた。

 真っ赤にくすぶる火種を絶やさぬように息を吹きかけながら、マシューは木切れを奥歯に挟むように口にくわえた。マシューがしようとしているのは、傷口を焼いて止血する、焼灼止血法であった。

 この方法は縫合が難しいような範囲の広い傷に効果的な止血法であったが、当然激痛がともなう上、傷口には大きなやけどができることになる。そのため止血後も適切な処置をしなければ普通のやけどと同様命にかかわる。


 火種を見つめるマシューの顔を、冷や汗が伝う。息も荒い。

 やらなければならないとはわかっていながら、いざするとなるとどうにも気が引ける。

 しかしマシューは火種をもった右手を動かし、ゆっくりと傷口から残り数センチのところに近づける。マシューの全身から、冷や汗がふき出した。早くしなければ、火薬がしけって思った効果がでないかもしれない。


 どうにでもなれ!


 マシューは奥歯を食いしばり、傷口に火種を押し付けた。

 と同時に傷口からパッと炎が上がり、マシューの目は激痛によってひん剥かれた。唸り声をあげてのたうちまわるマシューの姿に、スザンヌは目を背けた。


「まったく、昔っから無茶ばっかりしやがって!」


 アルベールは軟膏を手にマシューのもとにかけより、体を抑えつけた。どんなアルベールの言葉も、今のマシューの耳には聞こえていないようだ。しかしアルベールが軟膏を塗る傷口は、火傷となって完全に血が止まっていた。

 アルベールとスザンヌが決死の手当てをする間、マシューはなにひとつ口をきかなかった。


「これで満足か?」

「……すまないな」


 傷口に再び包帯が巻かれたマシューは、小さくそう言うと静かに立ち上がり、山を下りようとした。


「ひとりで行くのか?」

「ああ、これは俺の、どうしてもカタをつけなきゃいけない問題なんだ」


 マシューがそう言うのに、アルベールは丸めた胴巻きを小脇にかかえると、大きくため息をついて立ち上がった。


「でもさ、もう一人手当てをしなきゃいけない人がいるんだろう?」


 その言葉にマシューは立ち止まり、振り向いた。


「毒を飲んだ人への適切な処置、わかる?その効果のある薬草は持ってる?その調合方法は?」

「……頼む」


 答えたマシューの目は、人によっては冷酷にも見える目をしていた。事実、肉をえぐられるが如き激痛をともなう拷問のような荒療治を耐え抜いたマシューには、何も恐れるものはなかった。

 そして、そんな状態のマシューにも普段通りに声をかけられるのは、二十年以上の付き合いのあるアルベールだけだった。


「私も一緒に行くわ」


 そのアルベールに声をかけるのは、スザンヌだ。


「いや、君は危ないから帰ったほうが……」

「そんな、たったひとりで人殺しがいるかもしれない山を越えて帰れっていうの?そっちのほうが危ないじゃない。私イヤよ」

「……それもそうだね。ならおいで。でも本当に危なくなったら、とにかく逃げるんだ。いいね?」

「わかったわ。私、手伝えることはなんだって手伝うから」

「ありがとう」


 アルベールはそう言って、愛する妻に口づけた。本人たちは自覚してはいないようだが、人狼たちはもとが狼のためなのか、そういったスキンシップはやたらと情熱的に見える。

 ただこの時のマシューはそんなものに目もくれず、先ほどの農民たちが残していった足跡をたどって、山を下り始めていた。

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