エピローグ

獣たちの明日

「クマヨシ、今回は大変な思いをさせたな」

「うん、でも体だって大丈夫だし、あれは僕が父さんから前に言われてたことを忘れてたってのもあったから」

「ん? 何か言ったか?」

「ほら、『水は大丈夫かどうか確かめてから飲むこと』って」

「そりゃ、狩りの時に川や池の水をそのまま飲むんじゃない、って話じゃないか。まあ今回のことで、渡された水だって安心できないってわかったわけだが……」


 あの後、マシューとクマヨシはハンスじいさんの家でノイバーブルクの役人たちから尋問を受けた。ふたりを尋問した役人は、マシューと同じくらいの歳で、口元に立派な髭を蓄えていた。金ボタンのついた鮮やかな朱色の制服に身を包んでいるところをみると、それなりに位の高い者のようだった。

 ふたりはこの事件に関して、知っていることを余すことなくすべて話した。役人たちはマシューたちに対して常に上からの目線で話をしたものの、間に立ったハンスじいさんがクッションの役割を果たしたためか、目立って大きな衝突はなかった。

 ふたりの後は、アルベールの夫婦が交代するように家に入っていった。おそらくこの後にはフィリップやパトリックの一家も続くだろう。


 ハンスじいさんは夫婦ともども、役人たちの村人たちへの対応でかなり忙しそうであった。少なくとも今日一日、落ち着くことはできないだろう。それでもマシューたちが家を後にするときには門の先まで見送りに来てくれた。


「マシュー、クマヨシ君、本当にご苦労さんだったな。いろいろあったらしいが、ふたりともなんとか無事でよかった。お礼はすぐ渡せそうもないが……」

「そんなこと、全部落ち着いてからでいい。じいさんのほうこそ、何か俺たちにも手伝えることがあれば手伝うが」

「いや、ここから先はわしらががんばる番だ。お前さんたちはゆっくり休んでくれ。今回は本当にありがとう」


 ハンスじいさんはマシューに向けて手を差し出した。マシューは口元に小さく笑みを浮かべて、その細い手をしっかりと握った。


「ああ、また、いつかな」


 言ったその時、家の中から灰色の制服の下っ端役人がハンスじいさんを呼んだ。


「またいつか……その時が来たら、よろしく頼むぞ」


 ハンスじいさんは信頼のこもったまなざしでそれだけ言うと、家の中に戻っていった。

 またいつか。再び村が混沌に襲われたとき、自分たちの出番がやってくる。

 できればそんなことは、もう二度とないほうがいいのだが。

 こうしてマシューとクマヨシは共に大きな背中をハンスじいさんの家に向け、ゆっくりと去っていった。




 澄みわたる空の下、ふたりは草原をゆっくりとした足取りで一歩ずつ家へと進んでいった。

 いつしか村の中心や畑からも離れ、ここには今、ふたり以外誰の姿もなかった。

 疲れのためか、マシューもクマヨシも一言も話さず、ただ風の音だけがふたりの間に聞こえていた。

 ただマシューはひとり、今回の事件で浮き彫りになったとあることに考えをはせていた。


 以前ほどではないものの、クマヨシへの風当たりは村人の間でもまだ強い。そのために今回、クマヨシに実際に危険が及んだことも確かだ。本人は気にも留めていないような口調だったが、実際にはどう思っているのか……。


「なあ、クマヨシ?」

「うん、なに?」

「お前は……自分がオークだってこと、どう思っている?」

「えっと、どうしたの? 突然変なこと聞くね」

「いや、ちょっと気になってな。今回だって、いろいろあっただろ……」


 と言うと、クマヨシは軽く視線を落とし、


「うん……正直なところ、やっぱりつらいなって思うこともあるよ。思いがけないときに、自分はみんなと違うんだって気づかされるっていうのかな」


 小さな声で言った。かと思いきや、直後にゆっくりと顔を上げると、はっきりとこう言い切った。


「でもさ、それが僕だってことは否定できないんだから。逆に堂々として生きていくしかないよね」


 クマヨシは草原の途中の、丘の上で歩みを止めた。その先には山に囲まれた草原や森、小川、そしてマシューたちの家も遠くに見える。


「それに僕、つらい思いをしたときは、こんなことを考えるようにしたんだ。

 人間の中で育って、人間として生きてきたオークなんて、世界を見てみても滅多にいるもんじゃない。だから、人間とオークが共存できるってことを証明できる存在は、世界でたったひとり、僕だけなのかもしれない。

 そう考えるとさ、自分で勝手にあきらめることなんて、できないよね。僕は何があってもこの生涯を精いっぱい最後まで生きて、人間とオークは共に生きられるんだってことを証明してみせるよ」


 そう言ったクマヨシの眼はまっすぐ前を、自分の歩いていく先を見つめていた。


「……でもそうはいっても、まだまだ半人前だからさ。もしもの時は頼むよ、父さん」


 クマヨシと目が合ったマシューは、しっかりと頷いた。


 思えばこの数日、マシューはさまざまな形でクマヨシの『成長』を実感してきた。ただそれは、体の大きさやたくましさといった、目に見える分かりやすい形での『成長』でしかなかった。

 しかしクマヨシは、己の力で自分の生きる道を見つけだし、希望を持って未来へと進もうとしている。これこそが、クマヨシにとってこれから生きていくうえで最も大切になるだろう、『心の成長』であった。

 そして、この成長に気づけたことは、長年クマヨシを育ててきたマシューにとっても何よりも大きなことであった。

 自分の息子がそこまでのことを考えるようになった、と思うと、マシューの胸は感慨であふれそうになった。と、その時。


 マシューの身体は突然ふらつき、転びそうになった。とっさにクマヨシはマシューの身体を支え、大きな肩を貸した。


「父さん、大丈夫?」

「ああ……傷がまだ治っていないし、疲れもたまっているんだろうな……」

「それじゃ……あそこの木の下でちょっと休もう。あそこまでは歩けそう?」

「なに、まだまだ余裕さ。若いやつの手なんぞ、借りなくたっていけるよ」


 そう言ったとたん、マシューは自虐するかのように小さく笑った。若いやつの手は、か。そんなこと言うなんて、俺も年を取ったな。




 ふたりは丘をくだって木陰の下にたどりつくと、ほぼ同時にどっかりと腰をおろした。

 陽の光の当たらぬところに吹く風は、とても気持ちがいい。特に大きな木の陰だと最高だ。まるで大木からも力をもらえているようにも思える。聞こえるのはかすかな風の音と、木の葉や草の揺れる音だけ。

 マシューは斧を鞘からとりだし、麻布に水をかけて磨きはじめた。磨かれた斧の刃は日陰の中でもなお輝いた。この輝きは若いころとなにひとつ変わらない。

 この輝きは、俺がこの世を去るまで抱き続ける光だ。その後はクマヨシやミカへ、そしてさらにその先へ、未来永劫へと受け継がれる光だ。


「なあ、クマヨシ……」


 マシューは斧のことについてクマヨシと話をしようと、声をかけた。

 だがクマヨシは、いつの間にやら座ったままの姿勢で俯き、静かに寝息を立てていた。

 まったく、こいつは……いつになっても変わらないな。

 俺も少し休むか。

 少々がっかりしながらも、マシューはクマヨシと同じように座った姿勢のまま、静かに目を閉じた。


 疲れもあって、マシューは間もなくしてまどろみの中に落ちていった。

 その眠っているのかいないのかという意識のなかで、マシューは人生ではじめての、そして同時に最後になるであろう、クマヨシの信じる神への祈りをささげた。




 神よ、どうか俺の息子だけは正しき心のまま生きさせてやってくれ、と。

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アーバンカルトの獣(けだもの) ゆずた裕里 @YuriyU

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