その4

 今宵のマシューたちの見回りルートは、村の西部を中心としたルートだった。このルートはフィリップの家から、マシューたちの家のそばまでを通る。いわば事件の犯人が潜んでいるかもしれない、犯人探しの最前線だ。

 マシューたち四人は、昼間も通ったフィリップの家へと続く道を、ランプの明かりで照らしながら進んでいった。しかしマシューは足元には一切目を向けず、ただ畑の中を見つめていた。


 そんなマシューの瞳は、これまで以上にギラギラと輝いていた。

 今日は一団の中にフィリップがいる。それに事件解決の期限が明後日に迫っている。そして明日には、パトリックがこの事件について主導権を握る。その緊張と焦りと意地が、明らかにマシューの様子から見てとれた。

 一行は、この日の昼間に通った十字路に差し掛かった。左に曲がればフィリップの家だが、今回は右に曲がる。その先には、明かりひとつ見えない闇が広がっていた。ちなみに、十字路をまっすぐ行けば、その先は森へと続いている。

 マシューは十字路のそばの大きな木を指さし、他の者たちに言った。 


「よし、少し休もうか。じいさん、体はしんどくねえか?」

「あっ、ああ、まあな」


 ハンスじいさんは困惑しているようだった。恐らくまだ、小屋であったことを気にしているのだろう。だがマシューはそんなことなどどうでもよかった。今この時間は、ハンスじいさんも犯人を探すためともに戦う仲間なのだ。


「そうか、あまり無理はするなよ。あとフィリップ、ランプには俺たちがしてるみたいに布をかけてくれ」

「なぜです?」

「明かりに目が慣れすぎると、暗闇の中のものが見えにくくなる。それに暗闇の中では、小さな明かりでも遠くからまるわかりになる。犯人がこっちの明かりを先に見つけて、逃げちまうかもしれん。できれば布を外すのは、足元の悪そうなところでだけにしてくれ」

「は、はい」

「暗い中じゃ不安だろうが、どうか勘弁してくれ」


 ここから先の道は、民家がもっと少なくなる。そうなれば犯人は、より一層明かりを警戒するだろう。

 マシューも木の根元に腰を落ち着けると、じっと暗闇を見つめた。

 今宵は三日月、だがマシューたち狩人が活動することはできるくらいの明るさだった。フィリップたちには真っ暗にしか見えない闇の中にも、マシューとクマヨシには風に揺れる麦の穂がおぼろげながら見えていた。

 ここ数日マシューは、常に草むらや茂み、そして闇の中に事件の犯人が身を潜め、動きだせる機会を待っているのではないかと考えていた。しかしなぜかこの時だけは、ただ闇の中の麦の穂に気を取られ、そのことを忘れてしまっていた。


 しばらく休んだのち、一行は草原の中の道を一列になって歩き始めた。先頭を歩くのは闇でも目がきき、突然の襲撃にも対処のできるクマヨシ。そこにハンスじいさんとフィリップが続き、そしてしんがりにマシューという並びだった。

 動物が人の列を襲うときはまず、先頭かしんがりの人間を狙うことが多い。普段から森の獣を相手にしているマシューとクマヨシならば、襲ってきた相手を返り討ちにするどころか、先に相手の気配を察することもできるだろう。

 そのまま歩いていると、いつしか道の左手は雑木林になっていた。木々や草むらの奥に闇が広がっているのは、見ようによっては暗闇が広がっているだけより気味が悪い。そんな中をマシューたちは、薄暗い明かりだけで歩いているのだ。


「マシューさん、さすがにこのあたりは、夜になると少し不気味ですね……」


 さすがに沈黙を続けるのはきつかったのだろう、前を歩くフィリップが話しかけてきた。


「そうだな」


 夜の闇に慣れないフィリップを励ますためとはいえ、あまり声をあげるわけにもいかない。マシューたちは犯人を追い払うのではなく、捕らえるつもりで来ているのだ。敵を逃がしてしまっては元も子もない。

 考えてみれば、ここ数日犯人が夜に動きを見せなかったのは、昨日や一昨日に見回りを担当した男たちが肝だめしのごとく騒いでいたからではないだろうか。どうもマシューはそんな気がしていた。

 そして雑木林のそばも抜け、左手に再び草原が広がっているのが見えてきた、その時だった。


「シッ!隠れて!」


 先頭を歩いていたクマヨシが急に腰をかがめ、大きな手で制止した。マシューもハンスじいさんとフィリップに、茂みに隠れるようにうながす。


「ゆっくりでいい、音をたてるな。あと明かりもしっかり隠せ」


 そのマシューの言葉に上着の分厚い生地でランプの明かりを遮りながら、ハンスじいさんがつぶやくように言う。


「クマヨシ君、いったいどうしたんだね」

「このあと話します。父さん、ちょっと」


 マシューはランプの火を吹き消すと、静かに這いながらゆっくりクマヨシのそばに向かった。クマヨシはマシューのほうを一瞥もせず、じっと暗闇の中を見つめている。


「父さん、見える?あそこの……」


 クマヨシは暗闇の中を指さしていた。マシューは暗闇の中に見える限りのものすべてに注意を向けた。

 そして、暗闇の中に草原の風景が、おぼろげながら見えてきたその時。


 それは、確かに存在していた。


 草原の中、小高い丘の一角に、何か細長く黒いものの姿がうかびあがっていた。距離まではわからないが、そこそこ遠くにいるようにも見える。マシューは最初それを、看板かかかしだと思ってみていた。

 しかしよく見てみれば、それは何やら、その場で上半身をくねらせるような動きを繰り返していた。

 暗がりの中でよく見えないが、少なくともマシューの見たことのない動きであることは間違いなかった。


「父さん、あれはいったい?」

「わからん……」


 あまりの異様さに、マシューはクマヨシに呼ばれるまでじっとそれを見つめていた。


「このあたりの動物にあんな直立を続けられるヤツはいない。それに、あの動きはいったい何なんだ……人間なのか?」


 マシューは一瞬、自分が悪夢を見ているのではないかとまで思った。だが、それは確かに自分の目の前にいたのだ。

 マシューは自分の動揺を少しでも落ち着けようと、うつむいて影から目をそらし、小さく息をついた。

 そして再び影の方向を見ると、人差し指を咥えて空にかかげた。風はこちら側が風下だった。風上ならばこちらの匂いで相手に気づかれないか警戒しなければいけないが、今ならば音に気を付ければ大丈夫だ。そう確信した瞬間、クマヨシが話しかけてくる。


「とにかく、怪しい奴なのは間違いないよ」

「ああ。クマヨシ、こっちが風下だ。あいつからなにか匂いはするか?」

「さすがに遠すぎてわからないなぁ」

「なら、近づいて様子を見てみよう。それで怪しければ捕まえる」

「どうやって捕まえる?」

「そうだな……あの丘の向こうには何がある?」

「小川が流れてるよ」

「なら二手に分かれよう。一方は雑木林から声をかけて、相手の反応を見て追いかける。

 相手がそっちに気を取られているうちに、もう一方は反対方向の丘の下から近づいて、挟みうちで捕らえにかかる。もしうまくいかなかったら、呼子を鳴らせ。川沿いに追い詰めて追跡しよう」

「うん。追い立て役は父さんが頼むよ。僕が捕まえる」

「よし、もし声をかけて奴が逃げ出したら、大声でお前を呼ぶ。それが合図だ」

「わかった」


 この役割分担はクマヨシの提案だが、マシュー自身もそうしようと考えていた。この作戦では、実際に捕らえる役目を負うのは草原側だ。マシューも年齢にしては持久力があるとはいえ、若いクマヨシにはかなわない。さらに屈強なクマヨシのほうが、相手に飛びかかって組み伏せるには好都合だ。


「クマヨシ、俺は少し離れる。奴を見張っててくれよ」

「うん」


 マシューは一声かけると姿勢を低くし、音を立てないように細心の注意をはらいながら、フィリップとハンスじいさんが身をひそめる茂みに近づいた。ふたりが暗闇で何も見えないと思ったマシューは、念のために小さく声をかけた。


「じいさん、俺だ、わかるか」

「ああ、暗いがなんとなくわかるよ」


 呼びかけに応えて、ふたりは茂みから顔を出した。どうやら布で覆ったランプから漏れる明かりで、それなりに周りの状況はわかるようだ。マシューはふたりにも自分の顔が見えるであろう位置まで近づいた。


「フィリップもじいさんも、よく聞いてくれ。今、この先の草原に変な奴を見つけた。もしかしたら、事件に何かかかわりがあるかもしれん。これからクマヨシと二人で近づいて、様子を見てみる。何かあるまで二人ともここで待っていてくれ。いいな」

「ええ、その、マシューさん」


 ハンスじいさんが頷いた後ろで、フィリップが震える声で小さく言った。フィリップの目は暗闇の中でもはっきりと見えるほど大きく見開かれていた。


「どうした」

「私も、何かできませんか。その変な奴が、私の娘を殺した奴かもしれんのでしょう?」

「気持ちはわかるがフィリップ、でも……そうだ、もし万が一俺たちが奴を取り逃がしたら、クマヨシが呼子を鳴らして他の連中を呼ぶ手はずになってる。俺たちのいる方向から呼子の音が聞こえたら、お前さんも命の限り吹き鳴らしてくれ。じいさんも、よろしく頼むぞ」

「承知した」

「わかりました。マシューさん、どうかご健闘を」


 そう言って差し出してきたフィリップの手を、マシューは力強く握った。フィリップの手は温かかった。

 マシューがクマヨシのもとに戻った時も、依然として影はその場所に立ったままだった。


「クマヨシ、奴になにか変化は?」

「いや、特に変わりはないよ」

「よし……始めようか。準備はいいか」

「うん」


 クマヨシの答えにマシューが頷いたと同時に、ふたりは互いの反対方向に分かれた。クマヨシは影の右翼に回り、一方のマシューは物音ひとつ立てずに影の左翼の林の中へと入っていった。

 マシューは林の中に姿を潜めつつも、その目は例の影をとらえて離さなかった。影は相変わらず上半身をくねらせているようだ。その正体を突き止めようと、マシューは何度か位置を変えてしばらく影を観察したものの、結局はっきりとその姿をとらえるまでには至らなかった。

 よし、そろそろあいつもついたかな……。

 マシューは背中の斧を右手でつかみ、肩の高さに構えた。斧の刃が淡い月の光を受けて、鈍く照り返してきた。


 ついに、直接対決の時が来たかもしれない。


 マシューは気が引き締まるような思いがした。目を閉じて大きく息をつき、ふたたび見開いた時には、その目は闇の中の獲物をしとめる狩人の目になっていた。

 そして、マシューは茂みから立ち上がり、声をはりあげた。


「おい、そこにいるのは誰だ?村の者か!」


 叫んだ瞬間、影が動きを止めてこちらを振り向いたように見えた。それがマシューがはじめて見た、その影の理解できる行動だった。

 それもつかの間、影はそのまま態勢を低くしてマシューのとは反対の方向に動き始めた。

 すかさずマシューは、


「クマヨシ!」


 と叫ぶと、影にめがけて全速力で突っこんでいった。

 影はマシューの予想していたよりも早く逃げ出したために、もしかしたらクマヨシは呼ばれる前に自分で判断して追いかけ始めたんじゃないか、とマシューは思った。

 態勢を低くするのは四つ足の動物の特徴だ。だがそうだとしたら、あの長い間二本足で立っていたのはどういうことだろうか。

 と、考えをめぐらせながら走っていたマシューの顔に、何かふんわりとしたものが当たった。自身の走りに巻き上げられたと思しきそれが、汗ばんだ顔にいくつか張り付いた。

 汗をぬぐいながら払ったそれは、


「鳥の羽根か……?」


 と、思わず考えが漏れたその時、ピーッと甲高い音が鳴り響いた。クマヨシの呼子の音だ。さすがに捕まえそこなったか……?

 前を見ると、影は方向を変え、丘の向こうへと進んでいた。影はマシューが予想したルートを進んでいる。

 このまま小川のほとりで追い詰めてやる。クマヨシとフィリップの二つの呼子が鳴り響く中、マシューは小高い丘を全力で駆け上がっていった。


 丘のてっぺんまで走ると、月明かりに輝く川面が見えた。小川とはいえ、その幅は男の背丈くらいの長さがあり、並みの人間であれば簡単には飛び越せない。だが、影にはかなりのすばしっこさがある。もし鹿並みの跳躍力があったとしたら、こんな小川など飛び越されてしまうかもしれない。その時は、こいつの出番だ。マシューは右手の斧の柄をしっかり握りながら、そのまま足を止めずに影を追いかけ続けた。

 影はまったくスピードをゆるめることなく小川に向かって走っている。マシューと影との距離は十五メートルほどで、完全に仕留めるとまではいかなくても、動きを止める程度のダメージを与えるには十分な距離であった。それに今なら、川面の照り返しで暗闇よりかは影の位置もつかみやすい。


 影が小川を飛び越えるまであと五秒かというその時、マシューは斧を持った右手を肩の高さに掲げた。

 四秒……三秒……

 できれはマシューは、川の真上で仕留めたかった。川に流れている水の量は少ないが、底までは人の背丈くらいの深さがある。うまく川に落とせば、もし傷が浅くてもそう簡単には逃げられない。

 二秒……一秒……


 ……今だっ!


 大地を右足で蹴って飛びあがったその瞬間、マシューは力いっぱい右腕を振りおろした。きらきらと輝く斧の刃が回転しながら、きれいな山なりの放物線を描いて、川を飛び越えようとした影に向かって吸いこまれるように飛んでいく。その様に、マシューは確かな手ごたえを覚えた。このまま飛んで行けば、確実に命中する。


 と思った、その時であった。


 川べりを蹴って飛んだその影は空中できりもみ一回転すると、『ガキンッ』と金属を打ち合わせたような音を闇の中に響かせ、そのまま向こう岸に着地して何事もなかったかのように走り去ったのだ。

 思いがけない事態に、マシューは面食らった。何が起きたのか理解できないまま、ただ逃がすまいとの思いだけで川に向かって全速力で走る。丘を駆け下りた勢いそのままに、マシューも川べりを蹴って宙に飛んだ。


 しかし歳による身体の衰えのためか、それとも動揺で目算を誤ったためか、影に続いて川を飛び越えようとしたマシューの体は上半身が向こう岸に引っかかるに留まり、川を越えるには至らなかった。

 なんとか陸に上がろうとするマシューの横を、別の大きな黒い影が飛び越えた。そしてそれは振り向くと、マシューに向かって大きな手を差し伸べた。


「父さん、つかまって!」


「俺のことはいい、早く奴を追え!」

「あっ、うん!」


 クマヨシはマシューの言葉に従い、ふたたび影の後を追いかけ始めた。マシューはもがきながらもなんとか這い上がると、遠くにいくつかの小さい明かりがぽつりぽつりと見える。呼子の音を聞いて、援軍に来た連中だろう。マシューは立ち上がって再び影の逃げた先を追いかけはじめた。


 まるで御用提灯のようにせわしなく動く明かりを遠くに望みながら、草原をひとり進んでいたその時、マシューはふと周りの景色に見覚えを感じた。いや、それは見覚えというよりも、親しみといったほうが正しいのかもしれない。

 ……俺の家の近くだ。

 そう思ったマシューの心によぎったのは、娘のミカのことだった。

 あいつの身に何かあっては……!

マシューは突き動かされるようにその体を家の方向へと向けた。一心不乱に我が家へと向かう間、マシューの脳裏にたくさんの人の顔がよぎる。

 昼間に見たフィリップの気落ちした顔、墓の下に眠るフィリップの娘マノンの顔、事件のことを話しながら、なんとも言えないような表情をしていたハンスじいさんの顔……。今度は自分が、そのような目に遭うのだろうか。


 いや、もう誰も失わせはしない。なんとしても、俺が守り抜く。


 そう思ったマシューの耳に、遠くで何かがはじける音が聞こえた。

 銃声、か。誰かが暴発させたんだろうか。

 もしかしたら、このあたりに一気に人が集まりすぎて、みんな混乱しているのかもしれない。と、その時眼前に、明かりの灯った我が家が見えてきた。頼むから、どうか無事でいてくれ。マシューは家まで一直線に走ると扉をぶち破るようにして中に入った。


「きゃっ……父さん?」


 家の中で、ミカは何事もなかったかのように破れた服を繕っていた。ただあまりに突然な父親の帰りに、さすがのミカも驚きを隠せなかったようだ。そんな娘を見て、マシューは息を切らせながらも安堵の笑みをうかべた。


「よかった、無事だったか!」

「ねえちょっと、いったいどうしたの?」


 マシューは息を切らせながら、扉を閉めて鍵をかけた。起伏のない平地とはいえ、ここまで長く走ったのは久しぶりだったこともあって、息が整うまでには時間がかかる。その間、どこか心配げな娘からの言葉に返事もできなかった。

 そんなマシューのもとに、ミカはなみなみと水の入ったひしゃくを持ってきた。ありがとう、と小さく言って一気に飲み干してようやく、話せるくらいまで息が整った。


「一連の事件の犯人らしき奴が、このあたりに逃げてきてる。そいつはクマヨシに追わせているんだが、もし万が一のことがあってはいけないと思って……な」


 そう語ったマシューの姿は、老成した狩人ではなく、人生の下り坂を下りかけたひとりの父親でしかなかった。そんな父親をいたわるように、ミカは優しくひしゃくを受け取る。


「うん、でもアタイはこのとおり、大丈夫だよ。心配しないで」


 優しく笑ったミカの姿に、マシューは安心した半面、どこか切ないような思いを抱いた。笑うと本当に、ナオミの奴にそっくりになるな……。何があっても、たとえこの身が滅びても、ミカだけは……それにクマヨシも……守らなきゃならない。


「こっちこそ、いらん心配をかけたな」


 そう言ってマシューが娘の頭を撫でた、その時。

 マシューの視界の端、窓の外に暗闇に、何か動くものが見えた。


「ミカ、下がれっ!」


 そう言ってマシューは、ミカを家の奥へ追いやるように下がらせながら、背中のもう一本の斧を右手につかむと、窓際に身を潜めるようにしゃがんだ。一方のミカも、調理台の下から出刃包丁をとり出し、父親と同じように姿勢を低くしている。この姿を見て、ふたりが本当の親子であることを疑うものはいないだろう。

 マシューは窓の端から外をのぞく。影は明らかに家の前をうろついている。しかしよく見てみればほんのりとだが、明かりをもっているのが見える。マシューは窓を小さく開き、外の影に声をかけた。


「そこにいるのは誰だ!」

「わしだ、ハンスだ。フィリップもおるぞ」


 マシューはほっとしたと同時に、少し恨めしく思った。ハンスじいさんとフィリップはずっと、明かりに覆いをしたままこのあたりまで来ていたのだ。


「あなたの姿が見えないので、ここにいるんじゃないかとハンスさんが」


 フィリップは暗闇の中からそう言った。しかし心なしか、その声がこわばっているようにも聞こえた。


「そうか。それで、あいつはどうなった、じいさん。捕まったのか」

「いや……もう一人やられたぞ、マシュー」

「なんだと!?」




 惨劇が起きたのはマシューの家からそう離れていない、川向こうの家であった。昼にミカが卵をもらったという家族の家であった。

 家の周りには見回りをしていた男たちが集まり、その中にクマヨシもいた。クマヨシはマシューの姿を見るなり、助けを求めるように近づいてきた。


「父さん……」

「どうしようもない。今は何も言うな」

「うん……納屋の中だよ」


 クマヨシに続いて入った納屋の奥では、数人の男が人だかりを作っていた。

 そしてその中央では、中年の女が首から下を血に染めて、目玉をひん剥いたまま横たわっていた。彼女こそ、この日の朝ミカに卵を渡した女性であった。

 マシューは小さく十字を切ると、遺体にじっくりと目をやった。彼女は今までの犠牲者と同じように、喉笛を鋭利な刃物のようなもので切り裂かれていた。しかし衣服を見た限りでは、これまでの犠牲者と違い凌辱の形跡はない。

 つまり、彼女は犯人の姿を目撃したために、突発的に殺された可能性が高い。おそらく、何か物音がして見に来たか、遅くまで仕事をしていて運悪く出会ってしまったのだろう。この状況を見るに、あの影が今までの事件の犯人ということは、ほぼ間違いないだろう。

 それにしても……。再びマシューは、遺体の顔に目をやった。この度犠牲になったのは、これまでと違い、全く知らない顔ではない。普段から何度か顔を合わせてきた人間が、突然悪魔の牙にかかり、その命を奪われたのだ。


 今度は、お前の家族の番だ。


 マシューは取り逃したあの影から、そう宣告されたような気がした。

 重い気持ちを吐き出すように大きくため息をついたマシューに話しかけてきたのは、ハンスじいさんだった。


「ところでマシュー、お前さんいったい自分の家で何をしておったんだ?」

「……娘に会いに」

「娘ってお前さん、こんな時に」

「奴は俺の家の方角に走っていったんだ!もし万が一のことがあったら……!」


 マシューはそこまで言いかけて、ああっ、と悔しさを吐き捨てるように小さく叫んだ。ハンスじいさんにあたったところでどうにもならないことは、マシュー自身もよくわかっているはずだった。


「……すまない、じいさん」

「いいんだ。フィリップのこともある。お前さんの気持ちも、わからんでもない」


 苦虫をかみつぶしたような顔のまま、マシューは気をとりなおすとその場にいる者たちに声をかける。


「彼女を最初に見つけたものは?話を聞きたい。誰か……」

「俺だ」


 静かな、聞き覚えのある声がした。

 納屋の奥から歩きよってきたのは、パトリックだった。左腕の袖はまくられ、肘のあたりにぐるぐると包帯が巻いてある。

 マシューが状況を尋ねようとしたその時、パトリックはそれを遮るように話し始めた。


「このあたりに真っ先に着いたのは、この俺だった。あたりを照らして物色していると、納屋のほうから悲鳴が聞こえた。俺が走って近づいてみると、この家の嫁が横たわっている隣に、奴がいた。俺は銃を撃ったが、うまく当たらなかった。俺が弾を込めているうちに、奴は俺に不意打ちを食らわせて、逃げていったよ」


 そう言ってパトリックは、包帯をマシューに見せつけた。包帯にかすかに血がにじんでいるのが、マシューの目に見えた。なるほど、あの時の銃声はパトリックのものだったのか。


「となると、奴の正体をはっきり見たんだな」

「ああ、見たよ」

「何だった!?」


 マシューは思わず、詰め寄るように聞いた。ずっととらえられなかった影の正体を、パトリックはしかとその目に焼き付けているのだ。マシューはどうしても、その正体を知りたかった。


「奴は……」


 マシューは思わず唾をごくりと飲んだ。


「奴は、狼だった」


 あまりのことに、マシューは動揺した。


 そんなはずはない。二足歩行で立ち、あんな妙な動きを繰り返す、そんな狼がいるわけがない。もし本当に狼だったとしても、それがただの狼のはずがない!思わず食ってかかるように、マシューはパトリックに言い放った。


「そんな馬鹿な!俺も奴らしき影を追いかけたんだが、狼とは思えなかった。本当にお前は……」

「俺を信じないつもりか。俺はこの目で!人間並みに大きな狼を見たんだぞ!お前の目が狂っていたんじゃないのか!?」


 そう言われて、マシューは一瞬何も言えなかった。マシューが見たのはかすかな月の光に照らされた暗闇の中の影だが、パトリックはランプの煌々とした光の中でその姿を見ているのだ。どちらがその姿をはっきり捉えたかは、言うまでもない。

 ならば、とマシューはパトリックに近づきながら言う。


「そうだ、その傷を見せてくれ。狼の傷なら俺にもわかるはずだ」

「触るんじゃない!」


 左腕をつかんだマシューの手をパトリックは強く振り払うと、すぐさま問い詰めるように続けた。


「ところで今、お前犯人らしき影を追いかけたと言ったな?なのにこんなことになったっていうと、さてはお前、取り逃がしやがったんだな!まったく、いったい何のために現役の猟師のお前を呼んできたっていうんだ。毎日毎日、そこらへんをふらふらほっつき回ってねえで山狩りでもしてりゃあ、こんなことにはならなかったんだ!おい。おい!聞こえてんのか!聞こえてんなら何か言ってみろよ!この使えない、老いぼれの役立たずが!」


 公衆の面前での容赦ないパトリックの罵倒に、マシューはただひたすらに耐えた。この時のマシューに、言い返せる言葉は何一つなかった。

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