第31話 きみのて

 浜辺まで降りてきたときには、日は落ちきって空の向こうから夜が訪れようとしていた。

 駅や展望台よりずっと濃く、潮の匂いが風に混じっている。


 砂が靴の中に入らないよう気をつけながら、俺たちは波打ち際まで歩いていった。

 見下ろしていたときは気づかなかったけれど、砂浜には意外と細かなゴミが落ちていて、けっこう汚かった。

 靴が濡れないよう、波が打ち寄せてくるぎりぎり手前で足を止める。

 隣の季帆も、当然そこで立ち止まるかと思ったら

「……え? ちょ」

 思いがけず、さらに足を前へ踏み出したものだから、ぎょっとした。


「季帆?」

 濡れた砂でスニーカーが汚れるのもかまわず、彼女はまっすぐに海へ進む。その迷いのない足取りに、心臓が硬い音を立てる。同時にぞっとするような冷たさが突き上げてきて、俺は思わず手を伸ばした。

「季帆!」

 夢中で腕をつかんで引っ張ったら、力加減ができなくて思いのほか乱暴になった。

「わっ」

 急に後ろへ引かれたせいで、季帆の足がもつれる。拍子にぐらりとよろけた身体は、そのまま俺のほうへ倒れ込んできた。

 あわてて支えようとしたけれど、間に合わなかった。重みに引っ張られるまま、俺までバランスを崩してよろける。


「……なにしてるんですか?」

 気づけば、季帆とふたり砂浜にしりもちをついていた。

 濡れた制服から、じわりとした冷たさが染み入ってくる。怪訝な顔でこちらを見つめる季帆の腕から、俺はまだ手を離せないまま

「お前が、海に入っていこうとするから」

「べつに入っていこうとはしてません。ただもうちょっと、近づこうとしただけで」

「まぎらわしいことすんなよ!」

「ええ……?」

 困惑した顔で首を捻る季帆の腕を引いて、立ち上がらせる。もう完全に手遅れだったけれど。水を吸った季帆のスカートの裾から、ぽたりと滴が落ちた。

「濡れちゃった」それを見下ろしながら、季帆がぽつんと呟く。


「困ったなあ、着替えなんてないのに」

 内容とは裏腹に、至極のんびりとした口調だった。

「しかも私、制服一着しか持ってないんですよ。明日も学校なのに」

「……ごめん」

 さすがに罰が悪くなって謝っていると、急に季帆が歩き出した。スニーカーを水に浸しながら、波打ち際を進む。「ちょ」それにまたぎょっとして、いそいで追いかけようとしたら、数歩進んだところで季帆がこちらを振り向いた。悪戯っぽい、子どもみたいな笑顔と目が合う。


 そうしてふいに身を屈めたかと思うと

「――えいっ」

 おもむろに足下の水をすくって、いきなり俺にかけてきた。

「うわ!」浅瀬なのでたいした量ではなかったけれど、ズボンを濡らした水の冷たさはしっかり伝わってきて

「なにしてんだよバカ」

 あきれて声を上げると、季帆は声を立てて笑った。ひどく幼い、無邪気な笑い方で。

「仕返しです。土屋くんも濡らしてやろうと思って」

「もう充分濡れてんだよ、俺も」

「なんかこういうの、憧れだったんです。ドラマみたいで」

 心底楽しそうに言いながら、季帆はまた身を屈めて水をすくおうとする。

 そりゃ、夏の日差しの下でならドラマみたいかもしれないけど。日の落ちた秋の海なんて、水も風もひたすら冷たいだけで

「いややめろって。帰りどうすんの。ずぶ濡れで電車乗る気かよ」

 季帆の手をつかんで制していると、帰り、と季帆はぼんやりした声で繰り返した。


「なんか、面倒くさくなってきましたね」

「なにが」

「帰るの」

 ふと俺の顔を見上げた季帆が、妙に吹っ切れたようなすがすがしい笑顔で、そんなことを言い出す。

「は?」

「帰るの、やめましょうか。今日」


 その声が本当に楽しそうで、俺は季帆の手を離した。濡れた身体に吹きつける風が、どんどん体温を奪っていく。はずなのに、不思議なほど寒くなかった。身体に貼りつく制服の冷たさも、なにも感じなかった。ただ腹の奥のほうがじんわり温かくて、その熱が喉元までこみ上げてきて

「……そうだな」

 それがくすぐったくて、俺も笑っていた。季帆と同じような、ひどく子どもっぽい自分の声が、耳に響いた。


「面倒くさいな、帰るの」

「でしょ。ここに泊まりましょうよ」

「いいな、そうしよ」

 お互い変なテンションになって、笑いながらそんなことを言い合う。言葉を重ねるたび、さらに喉奥から笑いがせり上がってきて、止まらなくなった。

「どっか泊まれるところとかあんのかな」

「あれ、ホテルみたいですよ」

 そう言って季帆が指さしたのは、山のふもとにぽつんと建っている、お城みたいな建物だった。悪趣味な派手派手しさは、のどかな海辺街の景色の中でそこだけぽっかりと浮いている。

「いやラブホじゃん」

「いいじゃないですか」

「いいけど」

「じゃあ行きましょう」

「よし、行こう」

 言いながら手を差し出せば、季帆は「はい!」と元気よく返事をしてその手をとった。その子どもみたいな声にまた笑ってから、ふたりで砂の上を歩き出す。


 お互い冷静さが戻ってきたのは、そうしてしばらく歩いていた途中で

「……いや、無理じゃん。俺ら金ないし」

「そうでした。それでカフェもあきらめたんでした」

「また行こう」

「え?」

「あ、いやラブホじゃなくて。柚島に」

 面食らったような顔でこちらを見た季帆に、誤解のないよう付け加えておく。

「今度はちゃんと前もって計画立てて、お金も持って、また来よう。季帆が行きたかったカフェにも、行けるように」


 季帆は黙って俺の顔を見つめていた。

 何度かまばたきをして、それからようやく思い出したように、顔をほころばせる。はい、と噛みしめるように大きく頷く。

 その無防備な笑顔になぜだか一瞬泣きたくなって、つないだままの彼女の手を、強く握りしめた。ぜったいに、離してやるものかと思いながら。

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