書籍化お礼SS

きみに世界をあげる。

 土屋くんがおかしい。


 まず、待ち合わせ場所を中町駅近くのコンビニにしようと言ってきたときからおかしかった。

 定期テストが三週間後に迫った今日のデートは、図書館でいっしょに勉強してから、土屋くんの家に行っていちゃいちゃする、というプランになっていた(私の中では)。

 図書館は、土屋くんの家と中町駅のちょうど中間あたりにある。

 だから図書館デートの日は、いつも現地集合だった。以前は駅で待ち合わせをしていたけれど、そうすると土屋くんに無駄足を踏ませてしまうことに気づいて、途中で現地集合に変えたのだ。それについては土屋くんもとくに反対せず、むしろありがたいと言っていたのに。


 なのに今日はわざわざ、前みたいに待ち合わせをしようと言ってきた。迎えに行ってやるから、って。

 しかも、

『図書館行くだけだからって、気抜いてジャージとかで来んなよ、明日』

 昨日の夜遅く、突然電話をかけてきたと思ったら、言い忘れてた、みたいな口調で釘を刺してきた。

「……行くわけないじゃないですか。土屋くん、私のことなんだと思ってるんですか」

 べつに図書館デートだろうと家デートだろうと、土屋くんと会うのに気なんて抜いたことはない。デートの日は毎回、私なりにせいいっぱいのおしゃれをしている。前日は顔のパックまでして完璧にコンディションを整えている。土屋くんに言われなくても。

「だいたい、デートにジャージなんて着て行ったことないでしょ、私」

『そろそろ慣れてきて、ジャージでもいいか、とか思い出す頃かと思って』

「思いませんよ。失敬な」

 デートどころか、ちょっと近所まで出かけるにもジャージなんてためらうぐらいなのに。

 ともかく、そこまで言うなら全身全霊のおしゃれをしてやった。

 朝五時に起きて、存分に時間をかけて髪を巻いた。ゆるいポニーテールにして、買ったばかりのヘアアクセをつけた。

 服も、いちばんの勝負服であるレモンイエローのワンピースを選んだ。レースの透け素材だ。土屋くんの大好きな。図書館に行くには気張りすぎている気もしたけれど、なにか言われたら土屋くんのせいにしてやればいいや、と開き直って。


 さあこれで文句あるまい! とサンダルの高い踵を鳴らしながら、意気揚々と向かった待ち合わせ場所。

 土屋くんはすでに待っていた。途端、さっきまでの自信が萎んで、代わりに、え、と困惑した声がこぼれる。

「えっと……土屋くん?」

「あ、おはよ」

「今日、図書館に行くんでしたよね?」

 彼の前に立つなり、思わず心配になって確認する。どこにも遠出する予定なんてなかったはず。おしゃれなカフェとかに行く予定も。

「そうだけど?」いっきに不安になる私に、土屋くんは怪訝そうな顔で頷いて

「なんで?」

「だって」

 私は困惑して眉を寄せる。

 昨日は言えなかったけれど、正直、土屋くんのほうこそ、図書館デートのときは気を抜いた格好をしていると思う。部屋着の延長みたいな、だぼっとしたパーカとか。髪型も、遠出をするときとはあきらかに整い方が違う。べつに私のほうはそれで文句はなかったけれど。遠出用の気合いの入った土屋くんも、図書館用のゆるい土屋くんも、どちらも好きだったし。

 ただ、

「なんか、土屋くん……」

「なに」

「気合い入ってません?」

 目の前にいるのは、どう見ても遠出用の土屋くんだった。髪型もやけに決まっているし、なんというか、おめかししている。

 首を傾げる私に、土屋くんは当たり前みたいな顔で

「そりゃそうだろ。季帆と会うんだから」

 さらっと言い切られた言葉への反応が追いつかないうちに、突然、土屋くんが私の手をつかんだ。へっ、と驚きすぎてひっくり返った声が漏れる。なにごとかと思いきり焦る私にかまわず

「じゃ、行こう」

 なんとも当然のように言って、土屋くんはそのまま歩き出した。私の手を、握ったまま。

「え、えっ、ちょっ」引っ張られるようにして歩き出しながら、私はあわてて上擦った声を上げる。

「ま、待ってください!」

「なに」

「コンビニ行くんですか?!」

 土屋くんが足を向けている先にあるのは、どう考えてもコンビニだ。

 てんぱる私のほうを、土屋くんはきょとんとした顔で振り向いて

「そうだよ。なんのためにコンビニ前で待ち合わせにしたと思ってんの」

「手、つないだまま?!」

 土屋くんと手をつなぐこと自体は、はじめてじゃない。これまでもときどき、つないでくれたことはあった。

 だけど本当にときどきだ。遠出して、駅から目的地まで歩くときとか。周りにあまり人がいなくて、なんだかいい雰囲気になったとき限定で、つないでいたとしても、どこかお店に入るときには必ずほどいていた。どちらから言い出すでもなく。

 こんなふうに、初っ端からつないだことなんてない。しかもこんな、知り合いに見られる可能性のある地元でなんて。今までいちども、つなごうとはしなかったのに。


「そうだよ」

 私の問いかけに妙にきっぱりとした調子の返事が返ってきて、私はますます混乱する。いや、そうだよって。

「な、なんで」

「なに、嫌なの?」

「い、嫌じゃないけど、は……恥ずかしい、というか」

 もごもごと口ごもる私にはまったくかまわず、土屋くんはさっさと自動ドアをくぐる。

 直後、いらっしゃいませー、とレジのほうから飛んできた高い声に、私は思わず顔を伏せた。耳が熱い。自意識過剰なのはわかっているけれど。手をつないで入店するなんていかにもバカップルみたいで。

 というか、土屋くんもそう思われるのが嫌だから、今までお店では手をつなごうとしなかったのだと思っていた。


 顔を上げられずにいる私の手をしっかりと握ったまま、土屋くんは店内を進む。

 入る直前にちらっと確認した限り、コンビニには私たちの他に数人のお客さんがいた。顔までは見えなかったけれど、この近くにある商業高校の生徒とか――

「季帆」

「はっ、はい」

「なんか欲しいものある?」

「……へ?」

 なにを訊かれたのか一瞬わからず、私はぽかんとして顔を上げた。

 だって、はじめて聞いた台詞だった。いっしょにコンビニに入ったことぐらい何度もあるけれど、それぞれ欲しいものをそれぞれのお金で買うだけで、私が土屋くんになにか買ってあげたことも、買ってもらったこともなかったから。

「え、な、なんかって」

「なんでもいいけど。なんかあるなら買ってやろうと思って」

「……なにごとですか、今日」

 いつになく甘い言葉に、喜ぶより先に困惑と疑念が湧いてくる。

 思い返せば、今日の土屋くんはずっとおかしい。わざわざ駅まで迎えに来てくれたのも、図書館に行くのに気合いを入れた格好をしてきてくれたのも、デート開始からいきなり手をつないでくれているのも。なんだかまるで、私の機嫌をとろうとしてくれているみたい。

 そこまで考えたところで、ふっと恐ろしい考えがよぎる。

 ……え、まさか。


 私、振られる? 

 これが最後のデートだから、こんなに優しいとか――


「べつに。ただ、今日の季帆かわいいし」

「へっ?!」

「髪型も、服も。すげえかわいい。それ、超好き」

 本当に、なにごと?!

 畳みかけられる甘さ満載の言葉に、脳の処理が追いつかない。ただすごい勢いで顔に熱が集まってくるのがわかって、あわててうつむいた。

 熱い。顔もだけど、つないでいる手も。汗がにじんでくる。

 恥ずかしくて手を離したかったけれど、土屋くんは許してくれなかった。ますます力をこめて握られる手に、息がうまく吸えなくなる。なんでこのコンビニ、こんなに空気が薄いんだろう。


「なあ、なんかないの? 欲しいもの」

 店内をのんびり歩きながら、土屋くんがやけにしつこく訊いてくるので

「な、ないですよ」私は困り果ててかぶりを振った。あいかわらず顔は上げられないまま。

「ないから、もう出ましょう」

 暑さと息苦しさで、そろそろ限界だった。これ以上こうしていたら窒息してしまう。比喩でなく。そう思って、必死の思いで訴えたというのに

「だめ」

 返されたのは、至極きっぱりした一言だった。へ、と情けない声をこぼす私に

「だって、どうせまだ図書館開いてないし。時間つぶさないと」

「……じゃあなんで、わざわざこんな時間に待ち合わせたんですか」

 そうだ。思えばそこもおかしかった。

 私たちが図書館デートをするときの集合時間は、どんなに早くても九時だった。図書館の開館時間が九時だから。

 だけど今日の待ち合わせ時間は、八時半だった。これも指定してきたのは土屋くんだ。早いなあとは思ったけれど、早ければ早いほどいっしょにいられる時間は長くなるし、なにも文句はなかったから、とくに理由も聞くことなく頷いてしまったけれど。

「嫌だった?」

「いえ、嫌とかじゃ」

「俺は早く季帆に会いたかったんだけど」

「……う」

 どうしよう。本当におかしい。

 これでもかと重ねられる甘い言葉に、もう頭がくらくらする。いよいよ視界もぼうっとしてきて、手をつないでいなかったら倒れていたかもしれない。言いかけた言葉も喉を通らなくて、ひとり口をぱくぱくさせていたとき、


 ふっと前方に人が現れて、一瞬視線を上げた。

 まず映ったのは、藍色のセーラー服だった。それと、彼女の抱えるテニスのラケットバッグ。

 一瞬だった。だけどそれで充分だった。あ、と小さく声がこぼれる。

「なあ、季帆」

 目が合った彼女のほうも、驚いたような顔をしていた。

 目を丸くして、私の顔、次いで土屋くんのほうへ視線をすべらせる。

「俺がなんか買いたいんだよ。季帆に」

 驚く私たちにかまわず、土屋くんはしゃべり続けている。彼女のことなんて、なにも気にしていないように。

 ――いや、実際気にしていなかったはずだけど。

 だって、土屋くんは知らないのだから。私の中学時代のクラスメイトである、彼女のことなんて。

 知る由なんてない。はずなのに。


 待ち合わせ場所。時間。気合いの入った髪型に、服装。つないでくれた手。妙にはっきりとした口調で向けられる、いつになく甘くて優しい言葉。

 急にすべてがつながって、目の奥が熱くなる。

 理由はわからない。どうして土屋くんが、あの子のことを知っていたのか。

 もしかしたら、以前この場所で会ったことがあるのかもしれない。あの子が私の噂話でもしていたのだろうか。それを聞いた土屋くんが、なにか察したとか? だとしたら、土屋くんが聞いたのは間違いなく私の悪口だろうけれど。

 そう思うと少し胸が軋んだけれど、その痛みも、深くまで染み入ってはこなかった。それ以上に、こみ上げてきた熱いかたまりが、他の感情をすべて押しのけてしまって。


「……じゃあ」

 むず痒いような甘さが広がる喉から、声を押し出す。土屋くんの手を、今度は私のほうからぎゅっと握りしめながら。

「消しゴムが、欲しいです」

「消しゴム?」

 意外そうに聞き返してくる土屋くんに、はい、と私は笑顔で頷いて

「もうだいぶ小さくなってて。買わなきゃって思ってたんです」

「そんなんでいいの?」

「もちろん。だって必要なものじゃないですか。これから勉強、頑張らないといけないんだから」

 意識しなくても、喉を通る声は自然と明るく弾んだものになった。

 彼女はもうこちらから視線を外し、横の商品棚のほうを見ている。だけど彼女の横を通り過ぎるとき、ちらっと視線を上げてこちらを見たのがわかった。

 それだけで少し、胸がすっとする。彼女がどんな表情をしていたのか、不思議なほど想像がついて。


「土屋くん」

 コンビニを出たところで、私は彼のほうを向き直る。

 どうしてあの子のことを知っていたのか、とか、訊きたいこともあったけれど、それよりもまず、

「ありがとうございました」

「……べつに」

 めいっぱい気持ちを込めてお礼を言えば、めずらしく土屋くんはちょっと照れたように

「俺がしたかったからしただけ。むしろ付き合わせてごめん」

「いえ。……うれしかったです」

 きっと私のことをバカにしていたあの子に、当てつけみたいに見せつけられたことより。土屋くんが私のために、こんなことをしてくれたことが。

 土屋くんも、悔しいと思ってくれていたことが。


 胸がぎゅうっとなって、喉の奥がつんとする。気を抜いたらうっかり泣いてしまいそうで、「じゃあ」と振り払うように私は土屋くんの顔を見た。口元が自然とゆるむ。

「図書館に行きましょう! そろそろ開館時間ですし」

「え、マジで行くの?」

 そこでなぜか意外そうに聞き返され、私はきょとんとすると

「行かないんですか?」

「行かなくていいんじゃねえの、今日は」

 ふとこちらを見た土屋くんが、ちょっと困ったような顔になる。

「え、なんで」よくわからない反応に私が首を傾げていると、「だって」と土屋くんはまたすぐに視線を逸らして

「……今日の季帆、マジでかわいいし」

「え」

「なんか図書館行くのもったいないぐらいだし」

 めずらしく歯切れの悪い口調で呟く彼の目元は、かすかに赤かった。

 それを目にした瞬間、また心臓を思いきり握りしめられたみたいに、息ができなくなる。目眩がして、視界がにじむ。


 周りの目なんて一瞬どうでもよくなって、この場で彼に抱きつきたくなったのを、私は必死の理性をもって押し止めた。我ながら頑張ったと思う。

 つないでいないほうの手で自分の胸元を押さえ、ゆっくりと息を吸って、

「だめです」

 なんとか、そんな声を押し出した。

「なんで」と不満げに眉を寄せる土屋くんに

「今日は勉強するって約束だったので。テストも三週間後だし」

「……じゃあ、図書館じゃなくて俺の家で」

「それもだめです。土屋くんの家だと違うことしたくなるから。図書館じゃないと集中できません」

「いいじゃん、べつにそれで」

 軽く口をとがらせる土屋くんの表情がやたら子どもっぽくて、また揺らぎそうになる意志をなんとか堪えた。

「だめです」自分に言い聞かせるように、繰り返す。だって。

「勉強、頑張らないといけないから。私」


 ――土屋くんと、同じ大学に行く。ぜったい。

 今日決めた。今決めた。

 だから、今度こそヘマはできない。するものか。

 そう強く心に決めると、まだ不満げな顔をしている土屋くんの手を引いて、私は図書館へ向かって歩き出した。

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