ぜんぶ、きみだった。
はああ、と季帆が本日何度目になるかわからないため息をつく。
落胆ではなく、恍惚の。
「もうだめです、私、死ぬ」
物騒な台詞とは裏腹に、彼女の顔はこれ以上なくゆるみきっている。目尻も眉も締まりなく下げた、幸せです! と書いてあるようなとろけ顔で
「たまりません。かわいすぎます、この子。萌え殺されそう」
「……じゃあ離したほうがいいんじゃないの」
そいつ、と。俺は彼女を殺しにかかっているらしい原因を指さしてみる。
季帆の肩に小さな顎を載せ、短い腕をめいいっぱい伸ばして彼女に抱きついている、そいつ。
「嫌です、離せません。もう一生こうしていたい」
季帆のほうも、そいつの背中に手を回し、ぎゅうっと抱きしめている。「はあ、かわいい」とさっきから軽く百回は口にしたであろう言葉を呟きながら。
「なんでこんなにかわいいんでしょうか、颯太くん。天使の生まれ変わりでしょうか。きっとそうですね」
「……なに言ってんの」
俺はひとりソファに腰を下ろして、そんなふたりの姿を眺めていた。
そうするといつもならすぐに隣に座ってくるはずの季帆が、今日はこちらに目もくれない。新幹線やらクレーン車やら、おもちゃの散乱するリビングの床に座り込んで、夢中でその三歳児の相手をしている。
颯太のほうも、普段は「あそんであそんで」とまとわりついてくるくせ、季帆がいるなら俺に用はないらしい。「ぎゅーっ」とか言ってきゃっきゃとお互いを抱きしめながら、完全にふたりの世界に入っている。
……なんだあいつ。
ぼそっとこぼれた言葉は、どちらへ向けたものなのかはっきりしなかった。
ただなんとなく面白くなくて、俺はふてくされた気分でふたりから目を逸らした。今日、季帆を家に呼んだことを、心底後悔しながら。
「ね、土屋くん」
久しぶりに季帆から名前を呼ばれたのは、颯太の機嫌が少し悪くなってきて、なにをするにも「いやだ」とごね出したときで。
「これ、あげてもいいですか? 颯太くんに」
そう言って季帆が自分の鞄から取り出したのは、子どもに絶大な人気を誇るキャラクターもののお菓子。
「なに、持ってきてたの?」
準備の良さに驚いていると、「はい」と季帆は得意げな顔で
「ぐずり出したときのために、と思って。あげてもいいですかね? 市販のお菓子はあげない方針とかないですか?」
「いや、いいと思うけど。ふつうによく食ってるし、お菓子」
手の掛かる子どもを預かっているのだから、お菓子にぐらい頼らせてもらわなければ困る。
「よかった」と季帆はほっとしたように笑ってから、「颯太くーん」とまたすぐに子どものほうを向き直った。
「お菓子あげますよー。来てください」
「えっ、わーい!」
ぱっと顔を上げた颯太が、機嫌良く季帆のもとへ駆けてくる。そうして当たり前のように彼女の膝の上に座った。それにまた、季帆の表情がへにゃりとゆるむ。
「ああ、かわいい! なんでこんないちいちかわいいんですか、この子」
「……そりゃよかったな」
恍惚の声を上げる季帆にも、むすっとする俺にかまわず、颯太は季帆の膝の上でお菓子の袋を開け、豪快に食べ始めていた。
ビスケットのカスがぽろぽろこぼれて、季帆のスカートに落ちる。けれど彼女に気にした様子はなかった。至福の表情で颯太の頭を撫でながら、その様子を眺めている。あいかわらずデレデレと。
「かわいい……もう、なにしててもかわいい」
噛みしめるように呟く季帆の目は、完全に颯太に釘付けだ。
べつに今だけじゃなく、今日は一日中。季帆はずっとこんな調子だった。
はじめて会った俺のいとこに、一目見た瞬間から骨抜きにされている。彼の一挙手一投足に、かわいいかわいいと黄色い声を上げている。
正直、はじめて見るほどのはしゃぎようだった。俺といっしょにいて、ここまで季帆のテンションが上がったことがあっただろうか。……ない気がする。
考えていると少し気分が沈んできて、思わずふたりから目を逸らした。それでもきゃっきゃと笑い合うふたりの声は耳に届いて、ますます眉間にしわが寄る。
大人げないとはわかっているけれど。モヤモヤするものは仕方がない。
もうやめよう、とひっそり心の中で決意する。
颯太が家に来る日に、季帆を家に呼ぶのは。
颯太の母親にあたる叔母から、颯太の子守りを頼まれたとき。一人より二人のほうが心強いし、なにより楽だし、あとは単純に、せっかくの休日だから季帆といっしょに過ごしたかったし。そんな理由で、いっしょに子守りをしてくれないか、と今日は軽く彼女に連絡してしまったけど。
まさかここまで、季帆が颯太に心を奪われるとは思わなかった。颯太のほうも、あきらかに俺と遊ぶよりうれしそうだし。なにはともあれ、面白くない。とても。
お菓子効果が切れたのか、颯太がまたグズグズしはじめたのは一時半を回った頃で
「あ、颯太。そろそろ昼寝するぞ」
今度はジュースを与えようとしていた季帆を止め、俺は颯太に声を投げた。
覚えのあるこのぐずり方は、眠たいときのやつだった。そういえばおばさんからも、二時までに寝かせておくよう頼まれていた。遅くなると夜寝なくなるから、と。
俺は押し入れから布団を出すと、床に敷いた。そうして、「颯太、寝るぞー」ともういちど呼んでみたけれど
「や! ねない!」
予想通りの声が間髪入れず返ってきて、ため息をついた。昼寝に手こずるのは、いつも同じだ。
「だめ、寝るぞ。お前もう眠いんだろ」
「ねない!」
「寝、る」
「ね、な、い!」
颯太、と低い声で呼びかけた俺をさえぎり、「あっ、じゃあ颯太くん!」と季帆が声を上げた。
「お姉ちゃんといっしょに寝ましょう!」
「おねえちゃんと?」
「はい。おいでー!」
季帆は布団の上に座ると、両手を広げた。途端、ぱっとおもちゃを放って立ち上がった颯太は、一直線に季帆のもとへ駆けていく。そうしてその胸に勢いよく飛び込んだ。
「ねるー!」とうれしそうに抱きついてくる颯太に、季帆の顔がまたデレッとゆるむ。
対して俺はまた、眉間にしわが寄るのを感じた。
……面白くない。
季帆は颯太の隣に寝ころぶと、彼の背中をトントンし始めた。颯太のほうはぎゅっと季帆に抱きついて、その胸に顔をうずめている。どうやらそのまま寝に入ってしまったらしい。
落ちるまで、十分もかからなかった。
やがて颯太が寝息を立てはじめると、季帆はキラキラした目でこちらを振り向いた。見てください! と無言で口だけ動かし、自分の胸で眠る颯太を指さしてみせる。
「……やるじゃん」
その心底うれしそうな顔はあいかわらず面白くなかったけれど、さすがに大人げないので堪えることにする。
俺は颯太の肩にタオルケットを掛けてやると、ソファに戻った。
少ししてから季帆もやって来た。ほくほくとした満足げな表情で、俺の隣に座る。
「瞬殺でしたよ。すごくないですか、私。寝かしつけの才能あるかも」
「そうですね」
どや顔は鼻についたけれど、たしかにその早さについては認めるしかなかった。俺が寝かしつけようとしたら、だいたいいつも三十分はかかる。
そんなことを考えて、また面白くない気分になっていたとき
「土屋くん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
唐突に季帆が口にした礼の言葉に、きょとんとする。
「なにが?」と聞き返しながら彼女のほうを見ると
「今日、私を呼んでくれて。颯太くんに会わせてくれて」
季帆はあいかわず幸せそうに目を細めて、布団に眠る颯太を見つめていた。
ひどく実感のこもったその声に、こいつに会えたのがそんなにうれしかったのか、と俺はまた複雑な気分で思いながら
「……知らなかった」
「なにがですか?」
「季帆がそんなに、子ども好きなんて」
俺のことも完全放置で、夢中になるぐらいに。
心の中でだけ継いで、また少しふてくされた気分になっていたら
「違いますよ」
「え」
「子どもが好きなわけじゃないです。むしろ今までは苦手なほうでした。どう接すればいいのかぜんぜんわからないし。ただ、颯太くんがあんまりかわいかったから」
季帆からは、さらに追い討ちをかける言葉を返された。彼女の表情も口調も本当に穏やかで、なんというか慈しみに満ちていて、よけいにモヤモヤしてくる。
これ以上聞いていたら、この大人げない苛立ちを抑えきれなくなりそうで、「あっそ」と素っ気なく返して話題を打ち切ろうとしたとき
「――だって颯太くん、土屋くんに似てるから」
「……え?」
「目元とか雰囲気とか、そっくりです。だから土屋くんの小さい頃って、こんな感じだったのかなって思ったら、うれしくて」
驚いて季帆を見ると、「だって」と彼女はちょっとはにかむようにして続ける。
「私、土屋くんの小さい頃知らないじゃないですか。これから先も、どうしたって会うことはできないし。颯太くん見てるとね、そんな土屋くんに会えた気がして、うれしかったんです。無理だってあきらめてたものに、思いがけなく会えたような感じで」
噛みしめるように告げる季帆の横顔を、俺は黙って見つめていた。
今日、最初に颯太と顔を合わせたときの季帆のことを思い出しながら。
驚いたように目を見開いたあと、うれしそうに顔をほころばせた、彼女。ぱっと目を輝かせ、かわいい、と弾む声を上げた彼女が、あのときなにを思っていたのか。
――ああ、なんだ。今度は途方に暮れたような気分になって、思う。
今日一日、俺はいったいなにに嫉妬していたのだろう。季帆がこういうやつだということは、よく知っていたくせに。
「だから、ありがとうございます、土屋くん。今日、すごく幸せでした」
「……いや」
繰り返された言葉に、今度はモヤモヤではなく、目眩がするほどの狂おしさがこみ上げる。かすかに赤くなったその頬に触れたくなって、だけどそこでふと視界の端に映った子どもの姿に、手を止めた。
すやすやと眠るそいつに目をやり、ちょっと考える。
まあいいか、とすぐに結論を出しかけたとき、「んふふ」とか言って急にそいつが笑うものだから、どきりとした。けれど起きた気配はなく、あいかわらず目は閉じたまま寝息を立てているその子どもに
「なにか楽しい夢でも見てるんでしょうか、颯太くん。かわいい」
季帆がまた愛おしそうな声で呟くから、俺は彼女のほうへ伸ばしかけた手を下ろした。やっぱりやめよう、ともういちど固く決意しながら。
邪魔者がいるときに、季帆を家に呼ぶのは。
きみが明日も生きてくれますように。 此見えこ @ekoko
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