きっと、初恋だった。(3)
世界でいちばん遠いような気がしていたその場所は、拍子抜けするほど、あっけなく到着した。電車を乗り換える必要もなかったので、けっきょく、二時間もかからなかった。
駅に降りると、はじめて嗅ぐ潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
まだ海は遠いのに、その匂いは他のどんな匂いよりも濃く、辺りに漂っていた。
前を見ると水平線がもう視界に見えていて、胸が高鳴る。まずは砂浜へ行きたいというわたしの言葉に、卓くんは頷いてくれた。二人で駅を出て、海のほうへ歩き出す。
「あの、卓くん」
「うん?」
空は少し曇っていて、風があった。わたしは日傘を差すのをやめ、卓くんと手をつないで歩きながら
「最近、坂下さん、どう?」
ふと気になったことをそのまま口にしたら、変な言い回しになってしまった。
「え、どうって?」卓くんがきょとんとした顔でこちらを見る。
「その……坂下さんには、まだ」
迫られてるの、とはさすがに訊けなくて、わたしは少し言葉を探してから
「……仲良くしてるの?」
「うん、まあ」
なんの迷いもなく、卓くんはあっさり頷いてみせる。だけどそのあとで、ふと思い出したように
「ああ、でも、最近はあんまり話してないかも」
「そうなの?」
「うん。そういえば最近、あんまり話しかけられなくなったな、坂下さんから。教室まで来てくれることも減ったし」
「……そっか」
わたしは目を伏せると、スニーカーを履いた自分のつま先を見下ろした。
そっか。心の中で、もういちど呟く。
かんちゃん、頑張ったんだな。
ほっとすると同時にそんなことを思って、少し笑った。
本当は、薄々知っていたけれど。
このまえ、職員室の近くを通りがかったときに見かけたから。成績表の貼られた掲示板の前で、かんちゃんと坂下さんがしゃべっているところ。
結果はかんちゃんが一位で、坂下さんが二位だったみたいで
「実は私、テストの日風邪気味だったんですよ。だからぜんぜん本調子じゃなくて」
「え、なにその言い訳。だっさ。つーか、風邪ひいてたのは俺もいっしょだから。お前のせいで」
言い合う二人の声に、遠慮はなかった。だけど刺々しさもなく、むしろ楽しそうだった。かんちゃんは坂下さんのことを顔見知り程度だなんて言っていたけれど、今はもう違うことぐらい、すぐにわかった。
なんとなく、わたしは話しかけに行けないまま、少し離れた場所からそんな二人を見ていた。
かんちゃんって、あんなに子どもっぽく笑うんだな、なんて思いながら。
知らなかった。十五年もいっしょにいたのに。なんでも知っていると思っていたのに。
ああ、対等なんだ、と思った。坂下さんは、かんちゃんと。
ああいう子なら、かんちゃんと対等でいられるんだ。
垢抜けててかわいくて、勉強もよくできて。きっと身体も健康で、自分に自信があって、だからなんにも物怖じすることなく、好きな人に堂々とアプローチすることだってできて。わたしみたいに、こんなどうしようもない劣等感でうじうじ悩んだことなんて、きっといちどもない、そんな女の子。
そんな女の子じゃないと。
かんちゃんの隣には、並べなかったんだ。最初から。
十五分ほど歩いたところで、ふいに視界が開けた。
目の前に、どこまでも続く水平線が広がる。果ての見えない青に、一瞬、呼吸を忘れた。写真やテレビで見るよりずっと、ずっと濃い青だった。目眩がするぐらいに。
「どうですか。はじめての海は」
「……うん。すごい」
なんだかちっとも言葉が浮かばなくて、呆けたような声でそれだけ呟く。
そんなわたしに卓くんは優しく笑って、「もっと近くまで行こう」と言った。
砂浜には、たくさんの人がいた。観光客が多そうだったけれど、地元の人もけっこういるみたいだった。裸足になって波打ち際を歩いている人や、犬の散歩をしている人。遠くのほうではサーフィンをしている人もいる。
わたしたちも波打ち際のほうまで行こうと、砂の上を歩き出したときだった。
――ふいに、お腹の奥のほうからなにかがこみ上げてきた。
いっきに喉元までせり上がったそれに、息が詰まる。
思わず足を止めると、卓くんが心配そうにこちらを振り向いた。
「……七海?」
とっさに手で押さえた口からこぼれたのは、嗚咽だった。
まぶたの裏が焼けるように痛んで、視界がにじむ。顔を伏せると、水滴がふたつ、砂の上に落ちた。
「どうしたの? 気分悪い?」
心配そうな卓くんの声に、わたしは首を横に振る。大丈夫、と返そうとした。だけど喉からあふれた言葉は、違った。
「……ごめん、なさい」
口を開いた拍子に、引きつった喉から嗚咽が連続して漏れる。
堪えきれなくなって、わたしはしゃがみ込んだ。
「なにが? ……どうしたの、七海」
卓くんの困惑した声にわたしはなにも返せなくて、ただ首を横に振っていた。
ごめんなさい、と震える声で何度も繰り返しながら。
ずっと、ずっと行きたかった場所。わたしの、夢だった場所。
いつかいっしょにいこう、と。保育園の教室で、彼がそう言ってくれたあの日から。
――本当は。
本当に、わたしが、いっしょに来たかったのは。
考えかけて、振り払うように膝に顔をうずめる。
卓くんは、それ以上なにも言わなかった。黙ってわたしの横に座ると、わたしの背中をさすってくれた。その手が温かくて優しくて、さらに胸が絞られたように痛んだ。痛くて、涙が止まらなかった。
わたしのわがままを聞いてくれた。わたしのために頑張ってくれた。そんな、優しいこの人に。わたしは今、ひどいことをしているから。ひどいことを、考えているから。
わかっていたけれど、次々に流れ込んでくる記憶は隙間なく頭を埋めて、もう、押しのけようもなかった。
わたしといっしょに、お絵かきをしてくれた。本当は、外で遊ぶほうが好きなのに。我慢して、わたしといっしょに遊んでくれていたこと。
知っていた。本当は、ぜんぶ。
いつかいっしょにいこうと言ってくれた。あのときの彼に、嘘なんてなかったことも。
ずっと、ずっと覚えていた。わたしの宝物だった。あの日の彼の笑顔も、言葉もぜんぶ。
――きっと、わたしの、初恋だった。
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