きっと、初恋だった。(2)

「……無理?」

「無理だろ、だって」

 かんちゃんは表情を動かさず、当たり前みたいに繰り返す。

 なに言ってるんだろうこいつ、みたいな顔で。

「行ったら、お前ぜったい体調崩すじゃん」

「……でも」

「てか、おばさんが無理って言ってるなら無理だよ、どうせ。俺がなに言ったって」


 かんちゃんが無理だと言ったのは、わたしが校外学習に参加すること。

 行き先が柚島だと知って、わたしはどうしても行きたくて必死だった。

 早々にお母さんはわたしの不参加を決めていたから、それを撤回してもらいたくて、だけどわたしがなにを言ったところでお母さんが聞いてくれるはずはないと思って、わたしはかんちゃんを巻き込もうとしていた。

 かんちゃんから、七海はこんなに元気だから大丈夫、というようなことをお母さんに伝えてもらえれば、わたしが言うより効果があるんじゃないか、とか、そんな浅はかなことを考えて。


 だけどそれをかんちゃんに頼んだとき、かんちゃんから返されたのは、そんな言葉だった。

 あきれたように、眉をひそめながら。

「いい加減あきらめれば。しょうがないじゃん、七海には無理なんだから」

 それを聞いた瞬間、喉の奥のほうが熱くなって、つかの間、息ができなくなった。

 本当に一瞬、目の前が暗くなった。


 わたしだって、かんちゃんに頼んでもらえばお母さんの考えが覆る、なんて甘いことを本気で思っていたわけじゃなくて。頭のどこかで、どうしたってわたしは行けないことぐらい、薄々理解していた。

 ショックだったのは、気づいてしまったから。

 かんちゃんは、わたしが柚島へ行けるなんて、みじんも思っていないこと。

 だから、いつかいっしょに行こう、というあの約束も、かんちゃんの中では、果たされるはずがないものにされていること。


 もしかしたら、最初から約束ですらなかったのかもしれない。お泊まり保育に行けなかったわたしを慰めるために、かんちゃんが何とはなしに口にしただけの、なんの重みもない、ただその場限りの言葉だったのかもしれない。

 だってかんちゃんは、たぶん、忘れていたから。

 どうせ行けるはずがない、と迷いなく言い切った彼の頭に、あの約束のことなんて過ぎりはしなかった。きっと。それが、わかってしまったから。


 だから、あの日。

 無理だと言われたのは、柚島行きじゃなくて、わたしといっしょに歩くことのように思えた。



 かんちゃんは頭が良かった。運動もよくできた。友達もわたしなんかよりずっと多かった。

 対してわたしは、身体がポンコツなんだからせめて勉強ぐらいできればよかったのに、悲しくなるぐらい頭も悪くて、どんなに頑張ってもクラスの上半分にすら入れないぐらいの成績で。人見知りで引っ込み思案なせいで、友達も少なかった。


 なのにかんちゃんは、こんなわたしと、ずっといっしょにいてくれた。

 小学校に上がっても、中学校に上がっても。わたしたちのあいだの距離が開くことはなかった。

 かんちゃんはずっとわたしに勉強を教えてくれていたし、わたしが学校で体調を崩したとき、いちばんに気づいてくれるのも、いつもかんちゃんだった。

 こんな、なにもできないわたしと。

 ……いや、きっと、なにもできないから。


「かんちゃん、来週、部活の大会があるんでしょ?」

 その日も、授業中に体調を崩したわたしを、かんちゃんがいつものように保健室まで運んでくれていて。わたしをベッドに座らせたところで、すぐに授業に戻ろうとしたかんちゃんを呼び止め、わたしは尋ねた。

 今日、こうしてかんちゃんと話をするのは、これがはじめてだった。その頃はかんちゃんだけ部活に入っていて、朝も帰りも時間が合わなくなっていたから。だからわたしがかんちゃんと話せるのは、こういうときと、あとは勉強を教えてもらうときぐらいで。


「あるけど」

「かんちゃん出るんだよね?」

「いちおう」

「じゃあわたし、応援に行きたいなあ」

「え、無理だろ」

 間髪入れず返ってきたのは、いつもと同じ言葉。予想していた言葉。

 それでも一瞬、喉をぎゅっと絞められたみたいに息が止まる。またなにかを、突きつけられた気がして。

 眉を寄せたかんちゃんは、いつもと同じ、あきれたような目で

「外だし暑いし。倒れるだろ、七海が行ったら」

「大丈夫だよ。だいぶ涼しくなってきたし、きつくなったら早めに帰るから……」

「無理だって、七海には。そこまでして応援来てもらうほどの大会でもないし」

 でも、行きたい。

 言い募ろうとした言葉は、喉の途中で詰まって、出てこなかった。

「……うん。わかった」

 代わりに、力ない笑みといっしょに、そんな言葉を押し出す。あんまりしつこく言って、嫌われるのが怖いから。嫌われると、困るから。


 そもそも、大会があることを聞いたのも、かんちゃんからじゃなくて、クラスの友達伝いでだった。

 かんちゃんはわたしに、そんなこと教えてくれない。今までいちども、教えてくれたことはない。わたしに知ってほしいとか、応援に来てほしいとか、かんちゃんはそんなこと、少しも思っていないから。

 大会のことだけじゃなくて、他のことでもなんでも。

 いつだって、かんちゃんはわたしに、なにも望まない。なにも期待しない。わたしにしてほしいこととか、わたしといっしょにやりたいこととか、そんなの、かんちゃんにはひとつもない。きっと。

 ただ、わたしがバカだから勉強を教えてくれる。わたしの身体がポンコツだから、心配して傍にいてくれる。わたしがなにもできないから。“かわいそう”だから。わたしたちの関係なんて、ただそれだけで。それ以外は、なんにもない。


 だから、もし。

 わたしが、“かわいそう”じゃなくなったら。

 そのときにはもう、かんちゃんがわたしの傍にいる理由なんて、なくなるのだろう。


 十年かけて、わたしはゆっくりと、そんなことに気づいていった。

 かんちゃんはけして、わたしを置いてはいかない。優しいから。幼なじみだから。だけどきっと、わたしの隣を並んで歩いてくれることも、ない。

 ないんだ。

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