きっと、初恋だった。(1)
大きめの革のリュックに、荷物を詰める。薄手の上着や日傘、読み込みすぎて中身がほぼ頭に入ってしまった情報誌と、なにかあったときのための薬も忘れず。
三回忘れ物がないか確認してから、ようやくそれを肩に掛けた。
一階に下りると、お母さんが玄関で待っていた。
なにか言いたげな顔でわたしを見て、だけどぜんぶ呑み込むように、「これ」とわたしに小さなお守りを差し出して
「気をつけてね」
「うん。ありがと、お母さん」
お母さんの笑顔が思いがけないほど優しくて、なんだか少し泣きたくなりながら
「……心配かけて、ごめんなさい」
お母さんは笑顔のまま首を振って、「楽しんできてね」と言ってくれた。「卓くんによろしくね」とも。
だからわたしも目一杯の笑顔で頷いて、いってきます、と手を振った。
――本当は、こんなふうに謝りたい人が、もう一人いたけれど。
外に出ると、まず、斜め向かいにあるかんちゃんの家が目に入る。
そうして思い出す。十年前、お泊まり保育の日の朝に、ここから見た景色。
十年間、何度も何度も、思い出した。
保育園のバスに乗り込むかんちゃんを、わたしはこの場所から見ていた。お母さんの腕の中で、いかないで、と泣きながら。
怖かった。途方もなく。わたしとかんちゃんは違うのだと、そのときはじめて、実感したから。かんちゃんは柚島にも、どこへでも行けるんだって。ここから動けない、わたしと違って。
だからあの日、かんちゃんに置いて行かれる気がして。柚島にじゃなくて、なんだか、この先ずっと。二人でお絵かきをしていたあの教室に、かんちゃんはもう、戻ってきてくれないような、そんな気がして。
それが怖くて、わたしは泣いていた。
駅に着くと、卓くんはすでに待っていた。
白いシャツにグレーのチノパンを穿いた彼は普段の制服姿よりずっと大人っぽくて、どきどきする。砂浜を歩いたりすると思ったから、わたしはけっこう活動的な格好をしてきたけれど、大丈夫かな、子どもっぽくないかな、やっぱりショーパンじゃなくてスカートにすればよかったな、なんて今更ちょっと後悔しながら
「おはよう、卓くん!」
「おはよう。体調はなんともない?」
顔を合わせるなり真っ先に訊かれ、うん、とわたしは笑顔で大きく頷いてみせると
「なんともないよ。すごく元気!」
「ちょっとでもなんかあったら、すぐ言ってね」
「うん、わかってる」
ぜったいに無理はしない。卓くんともお母さんとも、何度も約束したこと。
ICカードに往復分のお金をチャージして、やってきた上りの快速電車に乗る。
柚島行きの、電車に。
わたしにとっては世界でいちばん遠い場所のように思えていた、その場所に。今日、ようやく行ける。
お泊まり保育へ出発するかんちゃんを見送ったあと、わたしが家でどんなふうに過ごしていたのか。あまり、よく覚えていない。ずっとめそめそ泣いていたのか、案外けろっとしていたのか。覚えていないということは、後者だったのかもしれない。
「こんど、いっしょにいこう」
ただ、柚島から帰ってきたかんちゃんが、保育園でわたしに言ってくれた言葉だけは覚えている。今でも、はっきりと。
「ななみちゃんが、もう少し元気になったら。いっしょにゆずしまに行って、うみであそぼう。ね」
うれしくてうれしくて、たまらなかったから。
かんちゃんといっしょに柚島に行けることより、かんちゃんはわたしを置いていかないんだと、そう思えたことが。
きっとこれからも。かんちゃんは、こんなわたしの隣をずっと歩いてくれるのだと。
あのときはただ、無頓着に、そんなことを信じていたから。
車内は案外空いていて、わたしたちは扉近くの席に向かい合って座った。
「そういえば」
「うん?」
いつの間に買っておいてくれたのか、卓くんがわたしの好きなミルクティーのペットボトルを差し出しながら
「このまえ、土屋に言われたよ。今日のこと」
「え?」
唐突に出てきたその名前に、わたしは顔を上げると
「かんちゃん?」
「うん。七海のこと、よろしくって」
「……え」
「あいつすぐ無理するから、ちゃんと気をつけてやってって。そう言ってた」
「……そっか」
卓くんの言葉に、一瞬だけまぶたの裏が熱く痛んで、わたしは目を伏せた。
ゆっくりと息を吐いて、振り払うように窓の外へ視線を飛ばす。
こんなふうに動揺するのは、きっと不誠実だから。柚島に行きたいというわたしのわがままを聞いてくれて、反対するお母さんたちが許してくれるまで、何度もわたしの家に来て、いっしょに話をしてくれた卓くんに。
「七海と土屋って」
「うん?」
「保育園からの付き合いなんだっけ」
「うん、そうだよ。もう十数年」
すごいな、と純粋に感心したような声で卓くんは呟いて
「俺、そこまで長い付き合いの友達っていないから。なんかうらやましい」
「……うん。わたしも」
次の言葉を口にしようとしたら、少しだけ、胸の奥が軋んだ。
「かんちゃんがいてくれて、ほんとによかったと思う」
かんちゃんがいなかったら、わたしの人生がどうなっていたのか、とか。
想像しようとしても、ちっともわからないぐらいに。
あの日のかんちゃんの言葉は、それまでの、わたしのすべてだった。
あの日からずっと、わたしの目標は、かんちゃんの隣に並ぶことで。そのために頑張って、生きていこうと思っていた。ずっと、ずっと。
「無理だよ、どうせ」
何年後か、かんちゃんにそう言われるまで。
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