第22話 ずるいひと
昼間の駅は閑散としていて、見慣れない景色だった。
いつもは学生であふれているホームに、俺以外誰もいない。駅員さんも暇そうで、ほうきを持って構内の掃除なんてしている。
それをぼうっと眺めながら、俺は電車が来るのを待っていた。
次にくるのが上りでも下りでも、それに乗ろうと思っていた。そして適当にどこか遠くへ行こうと思った。無性に、そうしたかった。
スマホを眺める気にもなれず、まだ電車のやって来る気配はない線路の向こうへ目をやったとき
「――土屋くん」
ふいに、後ろから声がした。
ここ最近、数え切れないほど聞いている、俺を呼ぶ高い声。
振り返ると、肩に鞄を提げた季帆がいた。
走ってきたのか、頬が赤い。いつもは入念にセットされている前髪も、少し乱れている。
けれどかまうことなく、「よかった、ここにいて」と心底ほっとしたように呟いてこちらへ歩いてくる季帆に
「なんでいんの。まだ授業中だろ」
ふっと目をやったホームの時計は、二時半を指している。
「それを言うなら土屋くんもじゃないですか」
「俺は早退です。気分が悪いから」
「では心配なので、私は土屋くんを家まで送りますね」
「は?」
眉をひそめる俺にかまわず、季帆は俺の隣のベンチに腰掛けると
「土屋くん。私は今日一日、ずっと土屋くんの傍にいますから。ぜったいに」
いやにはっきりとした声で、そんな宣言をした。
「……は?」
「土屋くんを家まで送ったあとは、土屋くんの家の前で、土屋くんの部屋の窓をずっと見ています。土屋くんは十分おきぐらいに私になにか連絡をください。一言でいいので。それが途切れたら、私は玄関を壊してでも土屋くんの家に侵入します」
「……いや、なに言ってんの」
あきれて季帆のほうを見ると、これ以上なく真剣な顔をした彼女と目が合った。
冗談じゃないのは、それだけでわかった。
そもそも、彼女の言葉が冗談だったことなんて、これまでいちどもなかった。
「七海さん、大丈夫だったみたいですよ。あのあとすぐ呼吸も落ち着いて」
俺が黙っているあいだに、思い出したように季帆が言った。
「病院にも行かなかったし、早退することもなかったみたいです。あのあとは教室に戻って、ふつうに授業受けてました」
「……ふうん」
どんな反応をすればいいのか、俺は咄嗟にわからなかった。
とりあえず、そんな気の抜けた相槌だけ打ってから
「そういやお前、なんであのとき保健室にいたの」
「私も見てたんです。土屋くんが七海さんを保健室に連れて行くところ。それで二人がなかなか戻ってこなかったから、心配になって見に行ってみたら、保健室のドアの前に樋渡くんがいて」
「……ドアの前?」
なんとなく嫌な予感を覚えながら聞き返すと
「はい。土屋くんの声も七海さんの声もけっこう大きかったから、外まで少し聞こえてたんですよね。それ聞いてるみたいでした」
たしかに樋渡が入ってきたのは、中の様子がわかっていたようなタイミングだった。
「……盗み聞きかよ」
趣味悪、と吐き捨てようとした声は、自分でも驚くほど力がなかった。
なんだそれ。よけいに死にたい。
「なに、じゃあお前も聞いてたってこと?」
「はい。樋渡くんといっしょに、しばらく聞いてました。なんか入りにくかったし」
「どのへんから?」
「実際できてないじゃん、あたりからです」
「……めっちゃ序盤じゃん」
ということは、樋渡はそれより前から聞いていたのか。死にたい。
俺が思わずうつむいて打ちひしがれていると
「……あの、土屋くん」
季帆がめずらしく気遣わしげに、おずおずと口を開いた。
「これ、土屋くんはたぶん知らなかったと思うんですけど」
「なに」
「樋渡くんって、私たちより一歳年上らしいですよ」
「……は?」
なにを言われたのかよくわからず、聞き返しながら顔を上げると
「中学卒業して高校入学する前に、一年空いたそうなんです。だから同じ高校一年生だけど、歳はいっこ上なんだって。知ってました?」
「……知らなかった」
俺は季帆のほうを見た。
ざわざわと、胸の奥をなにかが走るような、嫌な感覚がした。
俺の返事に、「でしょう。だから」と季帆はなぜかうれしそうに笑うと
「土屋くんは樋渡くんに負けたからって、そんなに落ち込むことないんです。だって土屋くんと樋渡くん、フェアじゃないんですから。一年人生経験が違えばいろいろと変わると思うし、それに私たちぐらいの女子って年上に惹かれがちじゃないですか。だから、樋渡くんは最初からずるしてるようなものなんです。不公平なんです」
俺は黙って季帆の顔を見ていた。
ゆっくりと息を吐く。
卓くんはわかってくれる。俺にそう告げた七海の声を思い出しながら
「……なんで」
「え?」
「なんで一年空いたって? 高校入学する前に」
「えっと、なんか病気したらしいですよ。その手術とか治療に専念するためにって」
「……へえ」
力なく呟いて、俺はベンチの背もたれに寄りかかった。全身から力が抜けていくような感覚がした。
なんだそれ、と渇いた笑いが漏れる。
涙が出そうなほど、苦い笑いだった。
「……ずるいな、ほんと」
ぼそっと呟いた言葉に、「でしょ!」と季帆はさらに意気込んだ調子で声を上げると
「そんなの、ある意味チートみたいなもんですよ。ずるいです、超ずるい」
「そうだな」
「最初から全然フェアじゃなかったんですよ。だから大丈夫です、負けたって」
「……うん」
――本当に。
フェアじゃない。
だってそんなの、俺にはどうすることもできない。
同じ境遇じゃないと分かり合えないというのなら。
ひとり体育を見学しながら、七海がなにを考えていたのかなんて。外で遊ぶ同級生たちを、七海がどんな気持ちで眺めていたかなんて。そんなの、俺にはわからない。わかるわけがない。
……いや、違うか。
俺はたぶん、考えたこともない。
そんなこと、どうでもいいと思っていたから。
途方に暮れた気分で顔を上げたとき、線路の向こうに青色の車両が見えた。
ベルが鳴る。続いて、三番乗り場に上り電車がまいります、のアナウンス。
立ち上がろうとして、俺はふと季帆のほうへ目をやると
「あのさ」
「はい」
「俺、あれに乗るから」
「え? あれ上りですよ」
「うん。どっか行こうと思って」
「じゃあ、私もいっしょについて行きますね」
予想通りの言葉を続けて、季帆はさっとベンチから立ち上がると
「どこに行くんですか?」
「……どこにしよっかな」
気の抜けた声を返して、ぼんやりと近づいてくる電車を眺めていたら
「あっ、じゃあ」季帆がふと思いついたように声を上げた。
やけに楽しげな笑顔がこちらを向く。
「柚島に行きませんか。今から」
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