第34話 ぜんぶあげる

 よく晴れた日曜日の朝に、季帆と出かけた。


 あの日と違い、海辺の駅はたくさんの人であふれていた。

 地元の人より観光客が多そうで、あの日はひとけのなかった通りにも、たくさんの人が歩いている。

 海辺にはありすぎなぐらいカフェが並んでいるのに、空いているところはひとつもなかった。もれなく、入り口には入店待ちの列ができている。

 その中でもひときわ長い列の最後尾に、俺たちも並んだ。

「ここのパンケーキがすっごいおいしいって、前にテレビで紹介されてるの見たんです」

 と言う季帆に、熱く押されて。


 店内に入れたのは、けっきょく、一時間近くも待ったあとだった。

 十月のわりに強い日差しと高い気温のせいで、ちょっと額には汗がにじんでいたけれど

「――わあ、ほんとにおいしい!」

 名物だというパンケーキを食べながら、大袈裟なほど頬をゆるませる季帆を見ていたら、そんな疲れは一瞬で忘れてしまった。代わりに、途方もない安堵がこみ上げる。ただ、季帆が笑っていることに。


「よかったな」

「はい! 土屋くんのほうもおいしそうですよね。わ、メロンとか載ってる! いいな」

「食べる?」

「えっ、いいんですか! じゃ、じゃあ、ひとくち……」

「いいよ。ひとくちじゃなくて、半分ぐらい食べて」

 おずおずとフォークを伸ばしてきた季帆に、そう言って皿ごと差し出す。

「本当ですか?!」と季帆は感激したような声を上げていたけれど、まだほとんど手のつけられていないパンケーキを見ると、ふと手を止めた。「……え」なにかに気づいたみたいに、顔を上げて俺を見る。


「まさか、土屋くん」

「なに」

「甘いもの苦手なんですか?」

 驚いたようにそんなことを訊かれ、俺は一瞬きょとんとしてしまった。

 今更なにを訊いているのだろう、なんて思ってしまって、それからおくれて、俺も季帆の好きな食べ物なんてほとんど知らないことを思い出す。クリームパンとハンバーグと、あとは今日知ったパンケーキぐらいしか。

 思えば、それ以外のことも。俺はまだ季帆について、なにも知らない。

 ――たとえば、あの日。どうして季帆が死のうとしていたのか、とか。


「まあ……実はあんまり」

「えっ、じゃあなんでパンケーキなんて頼んだんですか?! しかもそんな甘そうなやつを」

「……お前が、どっちも食べたいっつってたから」

「え?」

「これとそれ。どっちにしようか散々迷ってただろ。両方食べたいって」

 真剣な顔でメニューをじっと睨んでいた、数分前の季帆の姿を思い出す。ぜんぶおいしそう、と困り果てた声で何度も呟きながら。

 最終的に二つにまでは絞り込んだのだけれど、そこからますます途方に暮れた顔になって。選べない、両方食べたい、と、悲痛な声を漏らしていた彼女に、それなら両方食べさせてやりたいと、つい、そう思ってしまったから。


「俺のを半分、お前にやろうと思って」

「……え」

「そしたらどっちも食べられるじゃん、食べたかった二つ」

 季帆は唇を薄く開けたまま、呆けたように俺の顔を見つめていた。

 反応が追いつかないみたいに、何度かまばたきをしたあとで、勢いよく視線を落とす。

「……あ、じゃ、じゃあ」そうして上擦った声でもごもご呟きながら、おもむろに手を伸ばして俺の前にあった皿をつかむと

「私が、両方食べますね。これも、ぜんぶ」

「え? いやそんな無理しなくても」

「いえ、ぜんぜん。無理じゃないです、ぜんぜん、本当に」

 うつむいたまま早口にまくし立てながら、季帆はパンケーキの皿を自分のほうへ引き寄せると

「むしろ食べたい、ぜったい食べたい。食べさせてください。……食べないわけにいかないじゃないですか、そんなの」

 ぼそぼそと呟く彼女の、髪の隙間からのぞく耳が赤くなっているのが、ちらっと見えた。


 けっきょく、季帆は本当にパンケーキを二皿平らげた。苦しげな様子もなく、終始幸せそうに。

「おいしかった」ととろけきった笑顔で呟いて、紙ナプキンで口元を拭う季帆を眺めていたとき

「……なあ、その髪」

「はい?」

 数週間前に染められた彼女の黒い髪が、ふと目に入って

「いつまでその色にしてんの?」

「え?」

 尋ねると、季帆はきょとんとして顔を上げた。なにを訊かれたのかわからなかったみたいに。「だって」と俺は続ける。

「もうその色にしてる意味ないじゃん」

 季帆が髪を染めたのは、樋渡を寝取るための前準備だと言っていた。樋渡はたぶんこっちのほうが好みだろうから、と。だったら。

「樋渡の好みに合わせる必要ないだろ、もう」

「土屋くんは茶髪のほうが好きなんですか?」

「……まあ」

 正直、そんなこともなかったけれど。むしろどっちかというと、黒髪のほうが好きかもしれない。ただ、樋渡のために染められた髪だというのが気に食わない。


「そろそろ前の色に戻せば」

「……うーん」

 だけど季帆の反応は渋かった。困ったような笑顔で、ゆるく巻かれた髪の毛先に触れる。そうしてそのまま指先にくるくると巻きつけながら

「でも、もう少し続けたいんですよね、あの計画」

「……だから、なんでだよ」

「ですから、私の個人的の事情で……」

「だから、なんだよ、それ」

 再度告げられた言葉に、眉をひそめてため息をつく。

「個人的な事情で樋渡を寝取りたいって、もうそれただの寝取りじゃん。単純にお前が樋渡を狙ってるだけってことじゃん」

「……樋渡くんを寝取りたい、というか」

 季帆は困ったように俺の言葉を繰り返してから、テーブルの上に視線を落とすと


「ただ、七海さんからなにか奪ってやりたい、っていうか」

「……は?」

「私ね」

 そこでまた視線を上げた季帆は、観念したように俺の顔を見て

「七海さんのことが、嫌いなんです。どうしようもなく」

 内容のわりにどこか穏やかな声で、そう告げた。

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