第8話 きみのため

 つかの間、前向きという言葉の意味がわからなくなった。


「……いや、いやいや。なに言ってんの」

 なんだ、前向きに寝取るって。はじめて聞いた。

「だってあきらめきれないなら、それしかないじゃないですか。大丈夫です。結婚してるわけでもないし、しょせん高校生同士の恋愛なんて脆いもんです。だから頑張りましょう。私も協力しますから、七海さんを奪い返しましょう!」

 力強い笑顔で、季帆が拳を握りしめてみせる。

 その表情は、たしかに前向きだった。はきはきとした明るい声も。


 俺はあっけにとられて、そんな季帆の顔を眺めていた。

「え……本気で言ってる?」

「もちろんです。可能性はあると思います。だって土屋くんと七海さん、すごく仲良しだったんでしょう?」

「いや、でも、季帆はそれでいいわけ?」

「はい。それで土屋くんが元気になるなら、それがいちばんです」

 わけがわからない。お前、俺のことが好きなんじゃないのか。転校までするぐらい。


「さて。そうと決まれば、作戦を立てましょうか」

 混乱する俺は放って、季帆は持ってきたクリームパンの袋を開けると

「まずはあの二人を仲違いさせないといけませんね。なにか彼氏さんのほうにクズなところでもあればいいんですけど」

 パンに口をつけながら、真面目な顔で考え出したので

「いや、待って」

「なんですか?」

「無理だって、今更」

「今更って、昨日のことでしょう?」

「そうじゃなくて。俺と七海が出会ったのは、十五年前だぞ」

 十五年。保育園でも小学校でも中学校でもいっしょにいた。思春期の男子にありがちな、好きな子に冷たく当たるなんてことも一切せず、ただただ最大限に優しくしてきた。十五年間、ずっと。

 それで半年前に出会った男に、「優しいから」という理由で負けたのだから。

 今更、ここからどう逆転するというのか。


「でもあの彼氏さん、そんなすごいイケメンってわけでもなかったですし。土屋くんが負けてるとも思いません」

 それは、正直俺も思った。遠目にしか見えなかったけれど。とりあえず人目を引くようなかっこよさはない、いたって平凡な男だった。

 ただ、だからこそ、よけいにこたえた。

 顔で選んだわけではないのなら、本当に純粋に、「優しさ」で負けたのだろうから。


「私は土屋くんの顔のほうが好みです。圧倒的に」

「……それはどうも。てか、そういうことじゃなくて。七海は」

 次の言葉を口にしようとしたら、ぎりっと胸の奥が痛んだ。

 軽く唇を噛む。

「十五年いっしょにいたのに、俺を好きにならなかったってことだから。それを今更、どうすりゃいいんだよ」

「たしかに、それもそうですね」

 絞り出すような俺の言葉に、なんともあっさり頷いてみせた季帆は

「――じゃあ、彼氏のほうにしましょうか」

「は?」

「私が、七海さんの彼氏を奪います。この方向でいきましょう」

 淡々と言いながら、スカートのポケットからスマホを取り出した。


「……は? はあ?」

 絶句して、そんな頭の悪い返ししかできずにいる俺にはかまわず

「土屋くん、その彼氏さんのことなにか知ってるなら教えてください。名前とかクラスとか部活とか」

 季帆は片手で器用にスマホを操作しながら言った。

 見ればメモ帳のアプリを開いている。情報を書き込もうとしているらしい。

「え、なに、本気?」

「もちろんです。土屋くんが吹っ切ることができないなら、これしかありません。私が七海さんの彼氏を寝取り、傷心の七海さんを土屋くんが慰めてゲット。うん、これでいきましょう!」

「え……い、いや、でも」


  お前、俺のこと好きなんじゃないの?

 とはさすがに訊けなかった。

 困惑して季帆の顔を見つめる俺に、季帆はあいかわらず力強く笑って

「まかせてください、土屋くん。土屋くんが明日も生きたいと思えるよう、私、頑張りますから!」

 途方に暮れるほどまっすぐな目で、ぐっと拳を握ってみせた。

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