第9話 眼鏡と三つ編み

「このまえの模試の結果出たってよー」

「マジ? 見に行こー」

 後ろでしゃべるクラスメイトの会話が耳に入って、俺も立ち上がった。

 教室を出て、一階に下りる。成績表は、職員室前の掲示板に貼られる。


 順位なんて、見なくてもわかっている。入学してから半年のあいだ、俺の名前がいちばん高い位置から動いたことはいちどもない。だからべつに、今回も一位とれたかな、なんてドキドキはない。ただ、確認しておくだけ。全国偏差値とか、二位のやつとの差とか。


  職員室前には、普段はない人だかりと喧噪があった。

 中には矢野もいて、俺を見つけると意気込んだ様子で声をかけてきた。

「お、つっちー残念だったなー」

「あ?」

 妙ににやけたその顔と向けられた言葉に、眉を寄せる。

 人混みの中心にある成績表に目をやる。

 探す必要はない。俺の名前がある位置は決まっているから。上位五十人の名前が並ぶその、いちばん上に――


「……は?」

 なかった。

 俺の定位置だったはずのその場所にあったのは、

「あの転校生、頭良いんだなー。頭良い学校から来たんかな?」

 ――『坂下季帆』の名前。

 俺は信じられない思いで、その光景を眺めていた。

 俺の名前は、季帆の下にある。

 点数差は12点。俺と三位のやつより大きい。


「土屋くん」

 まさかの事態に面食らう俺の背中に、声がかかった。

 ここ数日、おそらくいちばんよく聞いている、高い声。

「二位なんてすごいですね。勉強できるんですね、土屋くんって」

「……いや、お前のほうが上じゃん」

 眉をひそめながら振り返る。嫌みか、と続けかけた言葉は喉で消えた。

「え?」

 代わりに、間の抜けた声が漏れる。


「季帆?」

「はい、季帆です」

「なんだよ、それ」

「それとは」

「その髪とか、眼鏡とか」

 そこにいたのは、三つ編みを肩に垂らし、黒縁の眼鏡をかけた季帆だった。

 昨日まで茶色く、ゆるく毛先が巻かれていた彼女の髪。それが真っ黒になり、きっちりとした三つ編みにされている。顔には大きめの黒縁眼鏡。よく見れば化粧も格段に薄くなっていて、スカートの丈も昨日までより長い。


「はい、イメチェンしました」

「……なんで急に」

「樋渡くんを寝取るための、前準備です」

「ちょ」

 あいかわらず声量を落とさない季帆に、ぎょっとする。あわてて周りを確認したけれど、誰も聞いてはいないようだった。

 俺は季帆の腕を引き、喧噪から離れた階段下のほうまで移動してから

「なに、どういうこと?」

「樋渡くんの好みに合わせてみました。樋渡くん、こういう清楚で素朴な感じの女の子がタイプかなって」

「樋渡に聞いたの?」

「いえ、想像です。七海さんと付き合うということは、こういう子がタイプかなと」

「……七海、そんなださくないだろ」

 正直、清楚で素朴というより、単純に芋臭い。七海は少し地味目なだけで、もっとふつうに可愛い。

「え、いまいちですか?」

「いまいち。なんつーか、やりすぎ。もうちょい適度にしろよ」

「うーん、わかりました。検討します」

 自分のおさげに触れながら、真面目な顔で呟く季帆に

「……つーか、お前」

「はい?」

 本気だったんだな。

 わかってはいたけれど、激変した彼女の髪型に、あらためて突きつけられる。三つ編みはともかく、色まで変えるのはなかなか面倒なはずだ。

 私が奪います。昨日聞いた季帆の声が、頭に響く。

 ――本当に。

 どうしてここまで、するのだろう。


 いいよ、と俺は額を押さえながら呟いた。

「え?」

「そんなこと、しなくていい。寝取るとかさ、なにも俺のためにそこまで」

「べつに土屋くんのためじゃないですよ」

 静かだけれどはっきりとした声で、季帆は言った。

 え、と困惑した声をこぼす俺に

「私がしたいからするだけです。だから土屋くんになんて言われようと、します。土屋くんはただ、七海さんとの関係を切らずに待っていてください。やけになって冷たく当たったりしたら駄目ですよ。ちゃんと優しい幼なじみのまま、七海さんの傍にいてくださいね」

 淡々と告げる季帆の表情には、言葉どおり、俺がなにを言っても揺るぎそうにない意志があった。

 俺はひたすら困惑して、そんな彼女の顔を眺めていた。

 季帆がなにを考えているのか、さっぱりわからなかった。

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