第25話 あのこのとなり

「ななみのママはね、うみが大好きなんだって。それでね」

 自由帳に青いクレヨンで絵を描きながら、七海が言う。うれしそうに弾んだ声で。

「だからななみの名前にも、うみが入ってるんだよって」

「入ってないじゃん。ななみに、うみなんて」

 七海の言っていることがよくわからなくて、俺は首を捻る。七海と同じように、自由帳にクレヨンを走らせながら。


 天気の良い日だったから他の子たちはみんな外で遊んでいて、教室にいるのは俺と七海のふたりだけだった。

「入ってるよ。ななみのみは、うみだもん」

「……わかんない」

「だからね、ななみ、うみに行ってみたかったんだあ。ずっと」

 俺の反応なんてかまわず、七海は楽しそうにしゃべりつづけている。手を動かすのもやめずに。


 さっきから彼女が描いているのは、海の絵だった。その頃の七海は、いつも海の絵ばかり描いていた。お泊まり保育の、一週間ぐらい前の日だった。

「すっごくおっきくてね、きれいなんだって。ゆずしまに行ったら、みんなでうみで遊ぶんだって。先生が言ってたよ」

「ふうん」

 それより俺は、外から聞こえてくる楽しげな声が気になっていた。お絵かきなんて、もうとっくに飽きていた。そもそも、お絵かき自体そんなに好きでもなかったから。


 七海はよく飽きないなあ、なんて思っていた。来る日も来る日もお絵かきばかりして。それも最近は、同じ絵ばかり描いて。

 だんだん退屈になってきて、あと少ししたら俺も外に行こうかなあ、なんて考えていたら

「ゆずしまに行ったら、かんちゃん、いっしょにうみで遊ぼうね」

「うん、いいよ」

「やくそく!」

 うれしそうな笑顔で、七海が小指を差し出してくる。


 ――その頃の俺は、まだ、よくわかっていなかった。七海がどうしていつもお絵かきばかりしているのか。外で遊ばないのか。しょっちゅう保育園を休んでいたのか。だからなにも考えることなく、彼女の指に自分の小指を絡めていた。

 それにますますうれしそうに笑った七海が、ゆびきりげんまん、と歌いはじめる。つられて、俺もいっしょに歌った。知らなかったから。七海が、お泊まり保育に行けないなんて。



 それを知ったのは、お泊まり保育当日の朝だった。

 いつもより大きな荷物を抱えて、いつもよりわくわくしながら外に出たとき。

「――やだ! やだやだ!」

 家の前で、七海が泣いているのを見た。髪を振り乱して、真っ赤な頬にぼろぼろと涙をこぼして。

「ななみも行く! ぜったい行く!」

「もう、わがまま言わないでよ……」

 困り果てたように七海をなだめるおばさんのほうも、泣きそうな顔をしていた。七海と同じぐらい、悲しそうな顔に見えた。

「やだ!」抱きしめようとするおばさんの腕を振り払って、七海が叫ぶ。

 七海はよく泣く子だったけれど、あんなふうに大泣きしているのを見たのは、あれがはじめてだった。

 ――そしてけっきょく、最初で最後だったように思う。

「ななみも、かんちゃんといっしょに行く! やくそくしたもん、うみでいっしょに遊ぶって! かんちゃんと、やくそくしたもん!」


 そのときぼんやりと、俺は認識した。

 七海が、他の子とは違うこと。他の子にできることが、七海にはできないこと。


「……おれも、行くのやめよっかな」

 バスに乗り込む前、先生にぽつんとそんなことを言ったら、なぜだか先生もちょっと悲しそうな顔をして

「七海ちゃんとは、また帰ってきたらたくさん遊んであげてね」

 そう言って、けっきょく押し込むようにして俺をバスに乗せた。

 席に座って窓の外を見ると、真っ赤な目をした七海がこちらを見ていた。肩を上下させ、まだぼろぼろと涙をこぼしながら。目が合うと、さらにその表情がぐしゃっと歪んだ。いかないで、と唇が動くのが見えた。

 おいていかないで、かんちゃん。


 七海は“かわいそう”なのだと、そのとき知った。

 だから帰ってきたら、また七海といっしょにお絵かきをしようと思った。どんなに外で遊びたくても、我慢しよう。七海はできないのだから。かわいそうなのだから。俺がいっしょにいてあげよう、と、そのとき、そう決めた。

 七海がもう、あんなふうに泣かないように。悲しまないように。


 ――最初はただ、本当に、それだけだったのに。



 山のふもとぐらいまで運んでくれるのかと思っていたバスは、思いがけなく山の中腹まで登っていった。

 山道を二十分ほど登ったところで、終点に着く。他の乗客はみんな途中で降りていて、そこまで乗っていたのは俺たちだけだった。

「……山に登るって、これ?」

 思わず拍子抜けして呟く。

 バス停で降りてすぐのところには、もう展望台があった。ごろごろと転がる岩と柵の向こう、一面の海と小さな島々が広がっている。

「山頂はまだ先ですよ。でも、ここでも充分きれいですね」

 頷いて、俺は柵の近くまで歩いていく。見下ろすと、深い青が視界を埋めた。



「かんちゃん、うみの絵、かいて?」

 お泊まり保育から帰ってきて、次に七海と保育園で会ったとき。

 七海は俺に自由帳を差し出しながら、そう言った。

 お泊まり保育でなにをしたのかとか、どんなところへ行ったのかとか、そんなことはひとつも訊いてこなかった。ただそれだけ、頼んできた。


 頷いて、俺は七海から自由帳を受け取る。

 そうして青いクレヨンを手に取り、白いページを青く塗りつぶそうとして

「……ななみちゃん」

「うん?」

「こんど、いっしょに行こう」

「え」

「ななみちゃんが、もう少し元気になったら。いっしょに、ゆずしまに行って、うみであそぼう。ね」

 七海は俺の顔を見つめて、何度かまばたきをした。

 一拍置いて、その顔に笑みが満ちていく。頬を赤くして、顔をくしゃくしゃにして

「……うん!」

 やくそく、と七海は満面の笑みでまた小指を差し出してきた。

「いっしょに行こうね、かんちゃん」


 ――七海は、いつまで覚えていたのだろう。

 いつまで、その隣に、俺の姿を描いてくれていたのだろう。

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