第24話 海

 駅に降りると、潮の匂いが鼻腔を満たした。

 すぐ目の前には、どこまでも続く水平線が広がっていて

「うみー!」

 それを見るなり、いきなりテンションが上がった季帆が叫ぶものだから、ちょっと引いた。

 さいわい、平日の早い時間の駅にひとけはなく、引いたのは俺ひとりだった。


「……ほんとに海見て海って叫ぶ人いるんだ」

「え、なんですか?」

「いやなんでも」

「ね、早く砂浜のほうまで行きましょう!」

 浮き立った笑顔で言って、季帆が俺の腕を引く。待ちきれない様子でずんずん歩いていく季帆に、俺は引きずられるようにして歩きながら

「……そんなに好きなのか、柚島」

 思わずぼそっと呟いた。

 七海が、あんな無謀な計画を立ててまで行こうとしていたぐらい。柚島には、女子を惹きつけるなにかがあるのだろうか。たしかに海はきれいだし、おしゃれなお店も多いけど。似たような場所なら、もっと近場にもあるのに。


 そんなことを考えていたら

「いえ、私はどっちかというと嫌いです」

 季帆からは思わぬ答えが返ってきて、面食らった。

「え、なんで?」

「小学校の頃、校外学習で来たので」

 返された理由も、よくわからなかった。

「なに、それが楽しくなかったの?」

「はい。私、友達もいなかったし」

 さらっとそんなことを言われ、咄嗟になんと返せばいいのか思いつかなかった。

 あー、と思わず言葉に詰まって声を漏らしていれば

「でも私は、健康だったので」

「え」

「参加しないといけなかったんですよね。そういう行事も、ぜんぶ」

 よくわからない言い回しに季帆のほうを見れば、奇妙に静かな表情で前を見つめる横顔があった。


 それに困惑して俺がなにも返せないでいるうちに

「あ、そういえば土屋くん」

 思い出したように声を上げ、季帆がこちらを向いた。

「今、お金どれぐらい持ってます?」

「えーと」俺はさっきちらっと確認した財布の中身を思い出しながら

「三千円ちょいぐらい」

「それは、帰りの電車賃を引いて?」

「合わせて」

「……うーん」

 俺の答えに、季帆はしばしなにか考え込むように黙ったあとで、おもむろに鞄を開けた。中から財布を取り出し、じっと中身を確認する。

 そうしてまたしばし考え込んだあと

「カフェは無理かなあ……」

 なんて呟いていたので、「無理だよ」と俺はいそいで言っておいた。

「俺、帰りの電車賃でぎりぎりだし」

「私も土屋くんの分まで出せるほどは持ち合わせてないみたいなんです。残念ながら」

「じゃああきらめよう。しょうがないじゃん、急だったし」

「そうですね……」


 しゅんとして頷いてから、だけどすぐに「あっ、じゃあ」と気を取り直したように顔を上げた季帆は

「山に登りましょう」

「山ぁ?」

 あからさまに気乗りしない声で聞き返してしまった俺にはかまわず

「はい、近くに白波山っていう山があるんです。低い山だからすぐ登れるみたいだし、絶景スポットらしいですよ。登りましょう」

「やだよ、きつそうじゃん」

「なに言ってるんですか、若いのに。それに大丈夫ですよ、途中までバスで行けるみたいですし」

 俺の意見はそう一刀両断して、季帆は鞄からスマホを取り出すと

「私、ちょっとバスの時間調べてみますね!」

 てきぱきと告げて、さっさとスマホを操作し始めた。


 けっきょく、ちょうど十分後にやって来る山行きのバスがあることがわかってしまい、近くのバス停まで移動した。

 観光名所として有名なこの場所も、平日はただのどかな海辺の街に見えた。

 小さなバス停には、俺たちの他に、五歳ぐらいの女の子とお母さんらしき女性の二人がいる。

 しきりにお母さんに話しかける女の子の舌っ足らずな声が、少しだけこちらまで聞こえてくる。ユミちゃんは竹馬が上手なのだとか、今度教えてもらう約束をしただとか。それをぼんやり聞きながら、俺はふと、七海たちの旅行計画にも登山があったのを思い出していた。

 ……七海に、登れるはずがないのに。


 やがて、小さな青色のバスがやって来た。

 乗り込むと、車内には地元の人らしい高校生が数人いるだけで、席はガラガラだった。バス停にいた親子連れは、このバスには乗らなかった。

 後ろのほうの二人がけの席に座ると、窓の外で、さっきの女の子がこちらをじっと見上げていた。

「……あ」

 その光景にふいに既視感が湧いて、俺は顔を上げた。

 まだ夕焼けには早い時間の海は、日差しを反射してきらきらと光っている。風があって、波は少し高い。


「どうしました?」

「いや、思い出して」

「なにをですか?」

「俺もここ、来たことあったな、って」

「あ、やっぱり。小学校の校外学習でしょう?」

「それでも来たけど、それと、保育園のお泊まり保育で」

 ――そのどちらも、七海は来なかった。来られなかった。


 ……ああ、そういうことか。

 なんだか急にピントが合って、俺は目を伏せた。

 七海がなぜ柚島にこだわったのか。ようやくわかった気がして、なんだか少し、途方に暮れた。

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