第12話 仕返し

  一瞬、その単語の意味を思い出せなかった。

 けして好意的ではない、その響き。

「……仕返し?」

「はい」

「俺への?」

「はい」

「……え、俺、お前になんかしたの?」

「はい。四月十四日の朝、私に声をかけてきました」

「……は?」

 わけがわからず、心の底から困惑して季帆の顔を見つめる。


 たしかに声はかけた。季帆の顔色が悪かったから、大丈夫? と。

 だけどべつに、それ以外はなにもしゃべっていない。失礼なことをした覚えもない。むしろ、感謝される行動かと思っていた。

 というか、それでお前は俺に惚れたんじゃなかったのか。


「いや意味わかんないけど。なんでそれで」

「ほら、今日雨じゃないですか」

 唐突にそんなことを言って、季帆が窓のほうを指さす。

 外は薄暗く、朝早くに降り出した雨が、今も降り続いている。

「雨だけど」

「私、雨の日は偏頭痛がするんです。中学生の頃からずうっと」

「……は?」

 急になんの話だ。

 ぽかんとして季帆を見る俺にはかまわず

「だから今日は朝からしんどくて。おまけに今日、生理二日目なんですよ。私、生理痛もひどいんです。脂汗が出るぐらい。痛み止めは飲んだんですけど、それでもやっぱりしんどくて。頭もお腹も痛いし、身体は重いし、今日はほんと最悪でした」


 話の流れがさっぱりわからない。

 俺に仕返しをする理由を教えてくれるんじゃないのか。

「あ、あと」ついていけずにいる俺は放って、季帆はさらに思い出したように声を上げると

「今日は大好きなクリームパンが売り切れだったんです。それだけならよくあるんですけど、もうひとつ大好きなほうじ茶ラテも買えなかったんです。両方だめだとさすがにテンション下がりました。お昼の楽しみだったのに」

「……それがなんだよ」

 耐えかねて口を挟めば、季帆が俺の顔を見た。目を細める。


「――そういうの、ぜんぶ、土屋くんのせいなんです」

「は?」

「今日、頭が痛かったのもお腹が痛かったのも、クリームパンとほうじ茶ラテが買えなくてがっかりしたのも。ぜんぶ、あの日、土屋くんが私に声をかけてきたせいなんです」

「……は?」


 さっきから、「は?」以外の言葉が出てこない。

 だって、なにひとつ、意味がわからない。

 ひたすら困惑する俺に、季帆はやけに穏やかな笑顔のまま

「だから、仕返しをします。土屋くんに」

「……仕返しって」

「七海さんから樋渡くんを奪って、七海さんを土屋くんのもとに返します」

 続いた言葉も、さらに意味がわからない。仕返しって、相手を痛めつけるものじゃないのか。それじゃむしろ、俺の得になるだけの気がする。


「それで土屋くん、明日も生きたいと思えるでしょう? もう死にたくなくなるでしょう? 七海さんが手に入るなら、ずっと生き続けたいと思えますよね?」

 淡々と重ねられる問いに、ふいに背筋を冷たいものが走る。

 最初に会ったときから、ぶっ飛んだ子だとは思っていた。だけどもしかしたら、俺が思っているよりずっと、危ない子なのかもしれない。なんというか、電波な子なのかもしれない。


 急に怖くなってきて、思わず後ずさろうとしたとき

「だから土屋くん、私の損とか得とかは考えなくていいんです。これは土屋くんへの仕返しなんです。私がしたいからしていることです。それに、土屋くんにとっても悪い話じゃないでしょう? 私が樋渡くんを七海さんから奪えたら」


  ――季帆が、七海から樋渡を奪えたら。

 一瞬、その光景が頭をよぎった。

 樋渡に裏切られて、泣く七海。俺はそんな彼女の背中を撫でて、優しい言葉をかけてやる。慰め方なら知っている。小さな頃から何度も、そうやって泣く彼女を慰めてきた。だからきっと、うまく慰められる。俺なら。そうしたら。


「ね。――奪い返しましょう、土屋くん」

 俺は黙って季帆の顔を見つめていた。

 その目には、なんの迷いもためらいもなかった。ただひたすら、まっすぐだった。

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