第29話 死ねなくなった日
「あの日、本当はあの駅で降りる気なんてなかったんですよ、私」
――あの日。
季帆の言葉に、急速に記憶がたぐり寄せられる。
おぼろげだった景色に、色がつく。
「本当は、高校の最寄り駅なんて通り過ぎて、どこか遠くの駅へ行って、そこで電車に飛び込もうと思ってました。知り合いのいない、どこか遠くの街で」
ひとり、うつむいて窓際の席に座っていた季帆。
電車が止まっても、動き出す気配もなく。
「なのに土屋くんが声をかけてきて。びっくりしました、本当に。動揺したし、怖かった。もしかしてこの人、知ってるんじゃないかと思ったから。私が今からしようとしていること。ぜんぶ、見透かされてるんじゃないかって」
俺の声に反応して、こちらを見上げた季帆。
真っ青だったその顔がひどく強張っていたことに、今更気づいた。見開かれた目が、怯えたように俺を見つめていたことに。
「だからとっさに、なにも答えられなくて。引っ張られるまま降ろされちゃいました。まさかこんなことになると思わなかったから、私、どうすればいいのかわからなくなって」
思い出すように目を細めた季帆は、ちょっとだけ困ったように笑う。
まったく今の状況に釣り合わない、穏やかな笑顔で。
「なぜか土屋くんはいろいろお世話してくれるし、しかも立ち去るときに駅員さんまで呼んでくれちゃうし。おかげで私、あのあとも逃げられなくなっちゃったんです。駅員さんもお人好しですごく心配してくれるし、救急車なんて呼ぼうとするから、あわてて止めて」
たしかにお人好しそうだった、あの日の駅員さんの顔を思い出す。
「家族に連絡とか学校に連絡とか、いろいろおせっかいなことしてくれようとするから、それもぜんぶ必死に止めて。もう大丈夫です、学校に行きます、って。そう言うはめになっちゃって」
「……学校行ったのか」
「行きましたよ。土屋くんと、あの駅員さんのせいで」
そう言った季帆の声には、ほんの少し、恨めしげな色がにじんでいた。だけど目を細めた表情は、かわらず穏やかで。
「そのあとは、今までどおりのゆううつな日常でした。当たり前ですけど、死ねなかっただけで状況はなんにも変わってないから。私はかわらず、勉強だけ必死にやってきたくせに肝心の高校受験には失敗した、バカみたいなガリ勉女だし。あいかわらず雨の日の偏頭痛はひどいし、生理痛も重いし」
――ガリ勉。
コンビニで聞いた女子の声が、ふいに頭の奥で響いた。
季帆が志望校に落ちたことを、かわいそ、と嘲るように笑う声。
――あんな、必死だったのにさ。
「だから私、また死のうと思ったんです。何度か。あの日邪魔された自殺を、やり直そうって。だけど」
平坦だった口調が、そこで少し乱れる。
「そうしたら」同時に、ゆるく笑みの形を保っていた彼女の口元も、少しだけ歪んだ。
「――土屋くんの顔がね、浮かぶんです」
泣き出す寸前の、子どもみたいな声だった。
「浮かぶようになっちゃったんです。あの日見た土屋くんの顔とか、声とか。思い出しちゃって、そしたら胸がぎゅーって苦しくなって。
……また、会いたいなって。そんなこと思うようになっちゃって。そうしたらね、死ねなくなっちゃいました。土屋くんのせいで」
だから、と季帆は不格好な笑顔のまま続ける。
「こうなったら仕返ししてやろうって、そう決めたんです。土屋くんにつきまとって、もし土屋くんが死にたくなるようなことがあれば、今度は私がなにがなんでも邪魔してやろうって。どこまででも追いかけて、ぜったいぜったい死なせない。生き続けたいって、土屋くんにそう思わせるまで」
――これは、仕返しなんです。
七海から樋渡を寝取ることを、季帆はそう言った。そうして七海を、俺のもとへ返すことを。
だって、そうしたら。
――土屋くん、明日も生きたいと思えるでしょう?
「だから」
俺に向けられた季帆の言葉の中に、嘘なんてひとつもなかった。ずっと。
死ぬなんて死んでも止めると、そう言って彼女が俺の前に立ちふさがってきたときから。
ぜんぶ、季帆の言葉は真実で。
「死んでも、止めます。土屋くんが死ぬなんて」
だから本当に、彼女はそうするのだろう。いつものように、なんの迷いもためらいもなく。
俺のために、ここから飛び降りるのだろう。
ふいに、背中を強い震えが上がった。
「……や、死なないし」
俺は力なく顔を伏せ、ただ、彼女の腕をつかむ手に力をこめながら
「死なないから、ぜったい」
そもそも、俺の言う「死にたい」なんて、「つらい」とか「しんどい」とかの同義語のようなもので。本気で死にたいと思ったことなんて、たぶんいちどもない。
――こいつみたいに。
本気で、死のう、なんて。
後ろから吹きつけた潮風が、彼女の髪を揺らした。
その光景に指先から熱が引いて、たまらず彼女の腕を握りしめる。
どれだけ強くつかんでいてもその細い腕は心許なくて、気づけば、こめられる限りの力をこめていたらしい。いた、と季帆がちょっと顔をしかめて声を上げる。
「痛いですよ、土屋くん」
「お前がそんなとこにいるからだろ」
突っ返した俺の声は、少し掠れていた。取り乱したみたいに、情けなく。
「つーかお前、いつまでそこいんの。もういいから早く戻れよ」
「本当に、飛び降りません?」
「飛び降りるかよ。最初から死ぬ気もないし」
言っても、季帆はまだ疑わしげに俺の顔を見つめていた。
だから睨むようにその目を見つめ返してやれば、しばらくして、彼女はようやく納得したようだった。
両手で柵をつかむと、ぐっと上体を持ち上げる。
片足をかけたところで俺が手を差し出せば、季帆は素直にその手をとった。もう片方の足も柵に載せ、季帆の身体が完全に地面から離れた、一瞬だった。
ふいに、強い風が吹いた。
「わっ」
大きくなびいたスカートを、季帆が反射的に押さえようとした。そのせいでバランスが崩れた。季帆の身体が、ぐらりと後ろへかたむく。
ぎょっとして、俺はあわててつかんでいた腕を引っ張った。
思いきりこちらへ引き寄せれば、その勢いのまま、季帆が俺のほうに倒れ込んでくる。支えきれず、気づけば俺も地面にしりもちをついていた。
「びっ、くりした……」
くぐもった声が、すぐ近くから聞こえた。
目を落とすと、顎の下あたりに季帆の頭があった。
俺の上に倒れ込んでいた季帆が、ゆっくりと顔を上げる。至近距離で目が合う。
途端、季帆はぎょっとしたように目を見開くと
「わっ! 土屋くん、だいじょ――」
いそいで上体を起こそうとした彼女の腕を、俺は引いた。
離れかけたその頭を、ふたたび俺の胸へ引き寄せる。そうしてそのまま、力加減もせず思いきり抱きしめた。
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