第20話 歪み
七海が、地面に座り込んでいた。ふらついたのだろう。膝をつき、顔を伏せて片手で額を押さえている。
嫌になるほど、見慣れた姿だった。
樋渡も気づいて、動きだそうとしたのがわかった。だけどそんなの許さなかった。さえぎるよう、俺は彼の前に立つ。そうして、吐き捨てるように告げた。
「ほら、樋渡」
お前に、駆け寄る権利なんてない。あるはずがない。
だって、
「お前が止めないからだろ」
――やっぱり、なにもわかってなかったくせに。
胸の奥で、冷え切った感情が首をもたげる。なんだか笑いそうだった。
七海といっしょに練習していた女子が、七海の横にしゃがみ込んでおろおろと声をかけている。
それに七海が必死に顔を上げ、なにか言っているのが見えた。力ない笑顔で、何度か首を横に振りながら。
大丈夫、とでも言っているのだろう。説得力のない、真っ青な顔で。
「ね、あたしやっぱり先生呼んできたほうが……」
「いい、大丈夫。ほんとに大丈夫だよ」
近づくにつれ、ふたりが交わすそんな会話が聞こえてくる。心配する友達に、七海が必死に首を振っている。
「――七海」
呼ぶと、そんなふたりが同時にこちらを振り向いた。
俺の顔を見て七海が顔を強張らせる横で、友達のほうはほっとしたように「あ、土屋くん」と呟いて
「あのね、さっき、七海ちゃんがふらついちゃって……」
「わかってる。七海、保健室行くぞ」
見下ろしながら低く告げると、七海はぱっと顔を伏せた。
「い、いい」小さな声で、もごもごと返す。
「ほんとに大丈夫だから。ちょっと休めば、すぐ……」
彼女の言葉が終わるのを待たず、俺は七海の腕をつかんだ。
力加減なんてしなかった。ぐいっと思いきり引き上げれば、軽い身体は引っ張られるまま、よたよたっと立ち上がる。
痛みに七海が顔を歪めたのがわかったけれど、気にしなかった。
「行くぞっつってんの」
よろける彼女の身体を支えながら、低い声で繰り返す。
それでもう七海はあきらめたようだった。いつものように。
小さく頷いて、引っ張られるようにして歩き出す。その足取りはひどく覚束なくて、ふいに胸の奥で冷たい愉悦が広がる。
ほら見ろ、と思う。
ひとりじゃ歩けもしないくせに。
なにも、できないくせに。
保健室には誰もいなかった。ドアにかかっていた、『先生は外出中です。なにかあったら職員室まで』のプレートは無視して、勝手に中に入る。そうして奥のベッドのほうまで七海を引っ張っていくと、そこで腕を放した。
「――よかったな。今倒れといて」
支えをなくした身体はそのまま投げ出されるように、ベッドにしりもちをつく。ぎしりとスプリングの軋む音がした。
「これでわかったろ。柚島なんて、どうせ無理だったって」
ベッドに座る七海を見下ろしながら、苦々しく吐き捨てる。
さっき見た、樋渡の表情を思い出した。自分の正しさをみじんも疑わない、その目。それどころか、俺のほうが間違っているけれど責め立てないとでも言いたげな。
吐き気がした。
けっきょく、なにもわかっていなかったくせに。樋渡も、七海も。
七海は、柚島、と小さく俺の言葉を繰り返してから
「……かんちゃん」ゆっくりと顔を上げ、表情のない目で俺を見上げた。
「やっぱり、かんちゃんが教えたの? 柚島のこと、お母さんに」
その声に責めるような色があったことに、憮然とした。
頭に血がのぼっていくのがわかる。
「そうだよ」と俺はぶっきらぼうに返してから
「お前が嘘なんてつくのが悪いんだろ。小賢しいことしてんじゃねえよ。どうせバレるんだから」
「だって」
途方に暮れたような声で呟いて、七海はまた顔を伏せると
「言ったら、ぜったい行かせてくれないじゃん。お母さんも、かんちゃんも」
「当たり前だろ」
いじけた子どもみたいな台詞に、俺は心底あきれてため息を吐く。
なにを言ってるんだろう、こいつ。
バカだバカだとは思っていたけれど、なんでここまでバカなんだろう。
「お前には無理なんだから。行ったらどうなるかわかってんだから、そりゃ止めるだろ。俺もおばさんも。お前、ちょっとボール蹴ってたぐらいで倒れてんじゃん。そんな身体でどうやって」
「倒れてないよ」
俺の言葉をさえぎり、七海がむきになったように言った。膝の上でぐっと拳を握りしめている。
「ちょっとふらっとしただけだよ。昔みたいに、倒れたわけじゃ」
「はあ? いっしょだろ。どうせいつもの貧血だろ」
「軽いやつだもん。これぐらいなら大丈夫なやつだよ」
「ああもう、お前の大丈夫とかどうでもいいよ。どうせ大丈夫じゃないんだから」
いやに引き下がらない七海にうんざりして、俺はそう言って話を断ち切る。
イライラしすぎて頭痛がしてきた。
七海のくせに、なに俺に反発なんてしているんだろう。
ひとりじゃなにもできないくせに。ずっと、俺に守られて生きてきたくせに。
――今だって。
「なあ、これでわかっただろ。お前は、自分の身体のこともろくにわかってないんだよ。そんなんでいくら準備したって無理だよ。お前がひとりでどんだけ頑張って考えようが、どうせ、なにもできるわけないんだよ」
七海はうつむいたまま、じっと俺の言葉を聞いていた。
表情は見えないけれど、噛みしめられた唇が少し鬱血しているのは、不思議なほどはっきりと見えた。
膝の上で握りしめられた拳に、かすかに力がこもる。
やがて、噛みしめられていた唇が小さく動いて
「……やっぱり、かんちゃんは」
絞り出すような声が、耳に届いた。
「そんなふうに、思ってたんだね。わたしのこと」
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