第11話

 011




 あの後、彼は一目散に家に帰った。まあ、そもそもから、どこかによる予定もなかったので、帰る以外に選択肢はない。そもそも、彼女以外に知り合いもいなければ、友達がいないからだ。これは、文字通り言うまでもなかった。




 彼はマンション住まいで、メインゲートから中に入る。マンションの前には高級外車が止まっていた。それは、彼に、誰が来ているのかを理解するだけの情報だった。


「はあ、帰りたくねぇ。面倒くさい……。明日ではなく、ものの数十分だけか……」


 いつもならエレベーターに乗って十五階建てのマンションの十五階に登るところをわざわざ、ていうか、ものすごくしんどい方法を選んだ。




「登るか」


 ……外に付けられている非常階段は十八段プラス踊り場プラス十八段だから1階から2階へだと、合計36段。だから……、504段……。いい、運動だな。


 彼は、かつかつと音を鳴らしながら、一段一段登っていった。長い、長い時間をかけて登った。


 ……ああ、これは、あいつのせいだ。登りきった先に、あいつの使いがいると本当に肩が落ちる。がっくしくる。




 ようやくたどり着いた時には息が上がっていた。二分もかからないエレベーターを捨てて、十分くらいかけて疲れた。結果は変わらないのに……。


 家の鍵を開けて中に入る。紅茶の香りがした。家の中に入った瞬間悟った。片付けられてる……。


「鈴解様おかえりなさいませ」


 彼は、大きなため息をついた。


「はあ、富岡さん。人の家に勝手に入ってはいけないって聞いたことはないですか?」


「ここは、美代様の名義でございます。つまり、美代様の執事である私がここに入るのは、美代様の家の整理を行うという意味であり、世話をするという意味であり、なんら問題はありません」




 ……屁理屈を。


 目の前に立っている黒服の、いかにも執事姿の男は富岡 吉継。清水家お抱えの執事。


「それで、用件は? いや、言わなくていいです。どうせ、あの女のことだから、帰ってこい、などといってるんでしょ?」


「はい。お言葉ですが、ご自身のお母様を、あの女、とは、如何なものかと思われますが」


「よくも、事情を知って言えますね。帰ってください。僕は、この後用事があるんです」


「湊様のところですか?」


「あなたが様をつけるいわれはもうないでしょ?」




 彼は、皮肉っぽくいった。


「ええ、ですが、これは、美代様の御命令でございます」


「そうやって、子供の前で自分は悪くないアピールを行なっても無意味だ、とお伝え下さい。そして、帰ってください」


 彼は、わざとらしく玄関の方に手を伸ばした。執事の富岡はそれを悟ったのか、これ以上の滞在に意味を見出さなかったのかはわからないが、足早に家を出た。




 一人残された彼は、鼻に付く富岡の匂いにしかめっ面を見せながら、自分の部屋に入った。


 彼の部屋は、シンプル、という言葉に尽きる。机の上には必要最低限の教材と一枚の家族写真。本棚には哲学書から漫画までありとあらゆるものがあったが、それ以外にこれといった特徴がない。寝床はベッドだ。




 彼と彼の両親が写っていると思しき写真は彼は笑っていた。二人も笑っていた。なんとも楽しそうな家族だった。彼は幼かった。その写真は彼が3歳の時に撮った写真。何度も手に取っていたからか少し色褪せている。




 そして、その写真を感慨深そうに見ていたが、すぐに我に返って、倒した。


 彼は、かねてから用意していた私服に袖を通し、食卓に置いてあったリンゴなんかを袋に詰めて足早に家を出た。そして、自転車に乗り、家からおよそ十五分の位置にある中央病院に行った。




 中央病院に着いた頃には陽は落ちかけていた。あの日と同じ。彼は彼女との約束を頭によぎらせながら、エントランスに入り、受付で自分の名前を言った。


 ナースはその名前を聞いて、ある人の元へ案内した。普通の病室ではなく、より、精密に、より、監視された(いい意味で)部屋。無菌を保つため中には入らなかったが、彼は、ガラス越しに寝ている男の顔を覗き見る。穏やかな顔をしている。心肺停止から時間が経ち過ぎた蘇生は男の意識を持って行ったまま帰ってこない。




 彼は持ってきたリンゴをトイレの水で洗い流して、かぶりついた。経済的に余裕がないわけではない。それには理由があるが、それはまたの機会とする。まずは、あの、ガラスの向こうは誰なのか。


 彼は、リンゴにかぶりつきながら、ナースの計らいで用意された机で宿題をやり始めた。一分でも長く時間を節約して男の元にいる彼の姿はナースには悲哀にも男らしく見えた。




 男の名前は篠崎 湊。彼の父だ。八年前に交通事故で一時は心肺停止。しかし、必死の蘇生により、一命はとりとめたものの、そこまでの時間が長過ぎたせいか意識は戻っていない。もしくは、篠崎 湊自身の意思で戻したくないのかもしれない。彼には、そう思えるだけの理由があった。




 そうこうしているうちに宿題は終わり、読書をしていた。


「面会時間の終了をお知らせに参りました」


 ナースは丁寧に彼に声をかけた。どうやらその間に眠っていたらしい。ここのところ、動き詰で疲れているのだろう。彼は、肉体的には疲れてなかったが、精神的な疲労はここのところ取れた気分にはならなかった。むしろ、あの、執事とあったのも疲れの原因かもしれない。




「すみません」


 彼は、一礼して荷物をまとめ始めた。まとめた荷物を肩からぶら下げて、病室から出る時に、


「また来ます」


 と、一言だけ言って外に出た。ナースには、その姿も悲しく思えた。患者に感情移入すべきではないのかもしれない。程よい関係を持たないといけないのかもしれないが、ナースには彼の姿が小さく見えていた。まるで、重圧に耐えかねた子供のように……。




 彼は、真っ暗な外をとぼとぼと歩いた。蝉は勢いよく鳴いている。もう、夏が来ている。家に向かいながら、どこかで夕食を取ろうと某有名チェーン店に足を運んだ。家の中に食材はなくもないが、ほとんどが弁当に使うもののため、あまり使いたくないし、手の込んだものは面倒くさく、キッチンも毎日の弁当以外で使わない。金銭的な面では、ある筋から手に入れているが、家賃と水道代、光熱費、電話代、入院代などに使うだけで、そのほかでは使わないようにしていた。彼自身は、そのお金が汚いものに見えたからだ。しかし、悲しいことに、生きるためにはその汚いお金に頼るしかなかった。借金ではない。彼の食費は主にアルバイトから来ている。彼は、億劫とは思うが、働くこと自体は嫌いではない。それが自分のためだからだ。誰かのために行う行動が面倒だと思うだけであり、自分のための行動なら、面倒がる必要はない。バイトは生きるための行動であり、誰かのためではない。そのことは、彼女も認識していた。週三日のアルバイトは彼一人の生活では少し不便なところはあったが、なんとかなった。




 彼は、夕食を食べ終わると、また一人、とぼとぼと夜道を歩いた。蝉の鳴き声はより強くなっていく。夜だというのに暑い。蒸し焼きにされている気分に浸った。


 一人で歩いていると、彼のスマホが震えだした。電話だと思って彼は、ポケットから取り出して、電話に出た。名前には彼女の名前が記されていた。




「はい、もしもし」


『もしもし? 鈴解くん? 今、大丈夫?』


「大丈夫じゃなかったら、出てませんよ」


『む、たしかに』


「それで? 今日、あの後はどうでした?」


『うん……、そのことなんだけど……、うまくいったよ。また、仲良くできそう。今度は見かけではなく、本物の友達として……』


「それは、何よりです」


 彼は、なんだかんだで、あの後のことを心配していた。それを聞いて、胸をなでおろした。




「それで?それだけですか?」


『いや……、ただ、君の声を聞きたくて…、いてもたってもいられず……』


「はあ、いつも聞いてるでしょうに」


『そうだけど……』


「今から会えますか?」


 どうして、彼は、そんなことを言ってしまったのかわからなかった。でも、何故か、彼女に、突然会いたいと思った。




 そして、彼女はそれを意外がった。言葉には出なくても、息遣いでわかる。


『うん。どこで会う?』


 彼は、辺りを見回した。偶然にも彼のいる場所は彼女の家の近くだ。


「そうですね、こないだの公園でどうですか? そのあとで、場所を移せばいいので……」


『うん、すぐ行く』


 彼は、進路を家ではなく、公園に変えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る