第18話

文編集

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 クーラーの効いた職員室はあまりにも涼しく、風邪にかかりそうな予感しかしなかった。この悪寒は、これから起こることへの不安なのか、クーラーなのか、彼女には判別が出来なかった。


「じゃあ、これから車に乗って、少し遠くに行くから、じゃあ、しゅっぱーつ!!」




 白川先生はなぜかウキウキしていた。


 彼女は連れられるまま、先生の車に乗り込み、何の説明もないままただひたすら彼が通った道と同じ道を通っていく。先生と彼女は進路やこれまでのこと、これからのことを、惚気など、いろいろなことを話す。でも、それだけだった。




 一時間ほどは知って、隣の県のとある町にたどり着いた。そのまま、少しばかり、走らせて、その町の郊外にたどり着いた。


「さ、ここだ」


 そこは何処にでもある日本家屋だった。表札には「白川」と書かれている。


「ここ、先生の実家ですか?」


「ううーん、ちょっと違う。私の兄の家。今は、誰も住んでないけどね」


 先生の目が曇った。


 家の中に案内され、二階の一室に通された。


「ここで少しの間寝泊まりしてね。すこし、ほこりっぽいけど許してね。何分、ここに来るのは二年ぶりだから。と、荷物を下ろしたら今に降りてきて、少し話さないといけないことがあるから」


 そう言い残して先生は下の階に降りていった。


 彼女は近くのベッドに鞄を投げ、そのまま、自分も寝転がった。そして少し考える。


 ……何も知らないって、こんなに怖いんだ。ねえ、鈴解くん、私って、こんなに弱かったんだ……




 彼女は少しだけ休憩した後、居間に降りた。そこには、お茶と茶菓子が用意されていた。


「まだ、ゆっくりで良かったのに。まあ、ゆっくりも出来ないよね。じゃ、先ずはお茶にしようか」


 彼女は案内されるままに席に着きお菓子を食べようとしたが、一切喉を通らなかった。彼女はここ数日ほとんど何も食べていなかった。食べられなかった。例え、食べれたとしてもすぐに吐いてしまう。




 先生は重い口をようやく開こうとしていた。


「さて、どこから話そうか。


 そうだね、まずは、私と兄、そして、篠崎君とそのお父さんの関係だけを話そうか」


 と言って、ゆっくりと話し始めた。




「彼のお父さん、ああ、いっつも、悠人兄ゆうとにいと呼んでるんだけどね、その悠人兄と兄さんは友人だったの。古い友人でね、小学校の時代から仲が良かった。私も小さい頃よくお世話になったよ。悠人兄は優しくてね、いつもお菓子を買ってくれたんだよ。ああ、懐かしい。


 今から十六年前、彼のお父さんは鈴木財閥の美代さんと結婚したの。大学で付き合って、そのまま。親からはものすごい反対をされたらしいよ。でも、美代さんも悠人兄も反対を押し切って結婚した。一番の理由は、結婚よりも先に篠崎 鈴解を身籠もったから、らしい。兄さんたちは幸せだった。彼らはほとんど家から勘当されてて、生活は苦しかったけど、それはそれなりに生活していたんだ。私も幼い頃の鈴解くんを抱かせてもらったし、兄さんと悠人兄との関係は持ちつ持たれつと円満に続いていた。




 でも、そんなある日、すべてが変わってしまった。彼が八歳になる一週間前。悠人兄が事故に遭ったの。車にひかれた。雨がかなり強かった。その現場には彼と美代さん、そして、私。事故を起こしたのが、私の兄だった」




 氷がカランと音を立てる。あまりにも短い話はそれだけで彼の夢と絶望がこもっていた。先生はあえて語らないところを残した。あまりにも出来た話だった。


「そして、美代さんは八歳の誕生日を迎えた彼をおいて、鈴木家へと帰り、政略結婚をした。悠人兄と美代さんは籍を入れてなかった。戸籍上、彼は美代さんの子供、私生児扱い。でも、彼は中学校卒業と同時に社会勉強という名目で家を出た。でも、実際は小学校卒業時点でほとんど一人暮らしをしていて、悠人兄と過ごしていたの。私も何度もお見舞いに行った。そのたびに彼は一人でいた。一人でいることを良いことに彼はできる限りのつてをたどって情報を集めた。




 そして、私のいる高校へと入学して、君と出逢った。彼が人と絡もうとしなかったのは、彼の性格でもあるけど、何よりも家のことがあるから。だから、以外だった。美涼さん。彼は、彼の意志であなたを引き入れた。危険と分かっていながら。君なら、彼を救えるのかもしれない」




 彼の中学までの生活はあまりにも語ることがなかった。なぜなら、足がつかないように生きていたからだ。彼はその素性だけで地獄を見るからだ。でも、彼は彼女にだけは気を許した。彼にとってそれは、地獄を共有する、と言うことにも等しい。だからこそ、先生の驚きは当たり前と言えた。




「彼から渡して欲しい、と手紙受け取っているの」


 凍った空気の中、先生は再び声を出した。彼女は先生のあまりにも真剣な顔を見て、いや、これまでの話からでも理解できるのだが、彼が言わんとしていることを理解した。手紙と言いながらほとんどメモ書きのような紙を手渡された。




『さて、書き出しはあまり、得意じゃないし、なんなら適当に書き始めるから、一切手紙の書式なんて知らないけど、まあ、構わないか。さてさて、どう書きだしたら良いか分からないから、そうだね、もし、今君がこれを読んでいるなら、そのとき僕はもうこの世にいないでしょう……。とまあ、書いてみたかったから書いたのだけど、さて、少し真面目な話をしようか。こんなことを言えた義理ではないんだけどね。




 もし、君が先生から僕の両親のことを、僕自身のことを聞いたとしたら、察しのいい君はこれから言うことを理解しているかもしれないし、僕が知っている君ならば多分すぐに返答するかもしれないけど、それでも、ここから先に進むには、君にも覚悟してもらわなければならない。これから何が起こるか、僕が君を守り切れるか、そういったことをしっかりと、ちゃんと約束できるわけじゃない。でも、それでも、僕のそばにいてくれるだろうか。




 僕は君をこんなことに巻き込んでしまって申し訳ないと本気で思っている。あの時、本気で拒めば良かったと思ってる。でも、君と一緒に過ごすのがあまりにも楽しかった。だから話せずにいた。君は何度も心配してくれたのに、僕はそれに甘えて言えなかった。でも、事がここまで大きくなり、奴らが手を出し始めたとき、僕は逃げることはもう出来ないのだと悟った。いや、違うな、姑息な時間稼ぎの意味がなくなった。多分奴らは君の素性を調べ上げている。




 だから、そういった事を含めて、君に聞かなければならない。僕はこれから血なまぐさい世界に戻って、父さんの敵を討たなくちゃならない。母さんの気持ちは十分知っている。でも、子供の僕を捨てた人と、僕は生きていけない。父さんのために、僕はね、あの、小さな病室の中で何日も、何ヶ月も、何年も考えて、でも、やらなくちゃいけないんだ。




 だからね、僕としては、君には幸せになって欲しいんだ。僕は君のことが好きだ。でも、危険なことに巻き込みたくない。口下手で、なんなら、筆を執っても上手くは伝えられないけど、それでも、君にはこのことを伝えとかなくちゃならない。




 僕は復讐に取り憑かれた一切の魅力のない人間だよ。でも、それでも、君と、君と過ごした時間は僕が生きてると思えた時間だったんだ。だから、ありがとう。僕は、幸せだった。小さい頃、もう色あせてしまったけどあの時感じていた暖かさを感じたんだ。ありがとう。




 でも、君を巻き込めない。でも、それでも、もし、僕のそばにいてくれるのなら、いて欲しいと思ってる。




だから、ここで、君に選択をしてもらわなければならない。だから、こう言えた義理じゃない。』




 彼女は一度手紙から目を離して、先生を見た。先生は彼女の答えを聞くためにただひたすら待とうとしていたが、彼女はすでに、そうすでに答えは決まっていた。ここに来る前、彼が彼女の元からさったその日、いや、もっと前から彼女の心持ちは決まっていた。例え何があろうとも、彼から離れない、と。




「まあ、答えは聞くまでもないよね。さて、まあ、君をここに連れてくる以外やることはないから、あとは、彼がここに来るのを待つしかないね」


 先生はお茶を飲み干して、また入れ直した。


「さて、空気が暗くなったね。彼が一番苦手なのは暗い空気だから。知ってるでしょ。じゃあ、美涼ちゃんの過去を聞こうか、ねえねえ、どうして、彼のことを好きになったの?」


 彼女の目の前にいるのは先生と言うよりも乙女だった。28の。


 彼女は最初答えるつもりはなかった。でも、話すことですこしでも気が紛れる気がして、小さな声で堂々と話し始めた。




「何でなんでしょうね。こっちに引っ越してから、大人しくしてたんです」


「ああ、関西、京都だっけ、関西からこっちに引っ越してきたら言葉とかで黙っていようとしたの?」


「はい。今ではましになりましたが、それでも、高ぶったらまだ出ますけど……」


「まあ、それで黙っていたらモテるだろうなー。あー、うらやまし」


「先生、生徒にそういうのは、どうかと思いますが……」


「うるさいなー、モテない人がモテてる人をひがんで何が悪いんですかー」


 ……悪かないです……


「で、続きは?」


「大人しくしてたら、なんかモテ始めて、基本私、興味ないんです」


 先生に睨まれた。


「はー、これだから、頑張ってもだめな人と頑張る必要のない人、はらたつー」


「いろいろな人に告白されました。でも、皆私の見てくれだけです。高校に入っても基本的に変わりませんでしたが、でも、関西弁が少しずつ抜けてきたのでおしゃべりはしてたのですが、でも、演じるのに疲れたのです。そんな時、彼を見つけたんです。屋上に毎日通ってる彼は、誰よりも自由に見えたんです。まあ、勘違いだったようですけど、でも、私とは違った。誰かに気を遣うこともなく、面白くもない話に付き合うこともない。どうでもいい関係から遠くに行きたかった。




 でも、彼に近づくのは難しかった。いろいろなことをしてみたけど、下手に何かするよりも正攻法が良いと思ったんです。まあ、そのとき同時に少しばかり事件があったので、それにかこつけたんですけどね……」


「それ彼に言った? まあ、多分言っただろうけど、どんな反応してた?」


「照れながら、『君はおかしなこと言うね』って」




「ああ、なるほどね」


 その後沈黙がやってくる。彼女は少しばかり後悔した。そして、言い表しようもない胸騒ぎがやってくる。彼女は直感していた。彼の身に間違いなく何かが起こっていることを。そして、それを考えると同時に少しばかりの疑問が湧いてきた。


「先生、彼はどうして今、その美代さんの元にいるのですか?」


「うーん、私は分からないけど、彼曰く『典型的な跡継ぎ問題です』と言っていた」


 ……だから、見合いがあったのか。彼のことだから恥ずかしいこと言ってるんだろうなー……


「美代さんと美代さんの再婚相手との間に生まれた子供に、少しばかり問題が、いえ、現代では何ら問題はないんだけど、あのような古い世界の人たちからすれば問題でしかなかったの。ねえ、美涼ちゃん。ギフテッドって、知ってる?」


「先天性の障害を持った子供にその障害部分を補うかのように何かしらが特化した、特異性をさす用語でしたっけ。『西洋的価値観の表れだー』なんて、彼が言ってたのを覚えてます」


「西洋的価値観、まあ、上手に言ったなー。ギフテッド、彼の異父弟にあたる悠木君は自閉症を抱えてるの。それと同時に失語症も患ってて、でも、その子には論理演算能力と空間把握能力、何よりも数学的思考力に優れてる。それだけでも、天才と言えるけど、彼らからすればそれらはどうだっていい。重要なのは家の存続であり、その子の未来じゃない」




 ……残酷な世界……


 理解はされないだろう。倫理観というものはそういったものだ。倫理観は論理的思考から生まれてきたものではあるが、さて、倫理観、つまりは道徳は先天的なもの、カントの言葉を借りるのならば、アプリオリなものであるのだろうか。まあ、これに関して考察しようものならそれ一つであまりにも面白い世界を描けるが、さてさて、そういった旧世界に生きる人たちはさて、倫理観、道徳を何処まで捨てることが出来るのだろうか。道徳はいとも簡単に崩壊する。あまりにも簡単に、冷酷な計算など何もいらない。




 さて、彼のお母さんであるところの、美代は道徳を自ら捨てた人間だろうか。これは否である。そして、このことを彼はあまりにも理解できるほどに理解している。だからこそ、彼はそういった道徳的な言葉に傷つく。彼があまりにも道徳的だからだ。


 でありながら、そんな扱いを受けているその子に彼は一切の同情はしなかった。むしろ、彼はその子を羨んだ。それは愛を受けているからとか、そんな理由じゃない。その子はあまりにも自由に見えたからだ。そして、彼がその子に同情しないのは、その道徳的な理由からである。彼が道徳的である以上、彼はその子に同情はしない。なぜなら、同情とは自らが強者でなければ出来ないことであり、弱者とその子を見なすことはそれは、ただの差別であり、優しさでも何でもない。彼はその子を一人の人間として扱う。そして、それを見た周りの人は彼を差別主義者だと揶揄するが、それでも、無自覚な「優しさ」は無自覚な「悪意」に近い。絶対的な悪が最大の悪を為すのではなく、小さな無自覚な悪意が最大の悪を為す。彼はそういった人間になりたいとは考えていない。彼は考えているのだ。無自覚を自覚的になるために。




「さ、暗い話に……」


 ガタン! と大きな音が玄関先でなった。彼女はすぐに席を飛び出して玄関に向かう。彼は一週間前とは似ても似つかないほど痩せこけた体で倒れていた。

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