第19話

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 彼の身に何が起こったのかを簡単に語らなければならない。


 時間軸としては、残りの見合いをヘロヘロになりながら終えて、ベッドの上で倒れ込むように寝込んでいるところからとなる。




 彼はあまりにも疲れていた。なれない衣装になれない見合い、彼の体力を削る要因となっているのは、何か異物が混入しているのだろう。食事をとるたびに弱っていくのが分かった。そして、さらに、それよりも二日めの二人目、つまりは雛だった。雛は先にも話したように計画的な人間だった。だからこそ、死にかけている中、頭を使うしかなかった。そういった意味では、水乃や志乃、伊予がどれだけ楽なのかが分かった。




「つまりですね、私はあなたが彼女もちだろうと関係なくアタックすると言うことですよ」




 ベッドで寝込んでいる彼にはその言葉が永遠と頭の中を占有し続ける。振り払おうとしても何も変わらなかった。彼はだるい体を持ち上げてシャワーを浴びた。久しぶりに彼は鏡をまじまじと見た。そして彼は自分の体があまりにも変化していることに驚きを隠せなかった。彼は体格はそこそこ良い方ではあったが、ガリガリとは言えなかった。しかし、鏡の前に立っている彼は骨と皮と申し訳ない程度の筋肉で構成されていた。まだなんとか動ける程度ではあったが、それでも、時間が経てば経つほど不利になるのは明らかだった。




 ただ、彼はすぐには動かなかった。最低でも二日待たなければならなかった。ここまで細くなった体を支えているのが何なのかを理解できないほどに彼は弱った。それでも、彼は気丈に振る舞った。彼にとって、あの女に弱っている姿を見せるくらいならば、死を選ぶ方がまし、と言わんばかりに振る舞った。それはまるで子供が母親に対して心配をかけまいとするようにも見て取れた。ただ、これを行っているのが、あの女ではないという事は示しておかなければならない。そして、それは彼も百も承知だった。




 彼にとって幸いなのは、彼が滞在している間にパーティーがもう一つ開催されたところだった。そこで彼は人目を盗んで、できる限り口に詰め込もうと色々と試行錯誤をしたが喉を上手く通らなかった。ことあるごとに四人の見合い相手につきまとわれ、目の前で頬張るほど彼の肝は据わっていなかった。しかし、彼にとって幸いなことは彼女たちは彼を心配していたと言うことだった。いや、もしかしたら、家庭的であるところをあえて見せているのかもしれない。少なくとも、雛はその打算で動いていた。だから、ある意味では食に困ることはなかった。彼はその日、新月であることを確認し、パーティーの喧噪の中、抜け出すことを決めた。




 彼はあらかじめ用意していたフォークを上着に忍び込ませて、トイレに行く。彼はあらかじめどうするかを決めていた。幸いなことにトイレは個室であるが、窓があったことである。お客様用ではあるが、三階であるから簡易格子がはめられていた。そこで、フォークの出番である。彼はフォークの真ん中以外をすべて折り、上手にネジを外していく。音を立てないように静かに。そして、彼は、すべてのネジを外し、格子を外して、上手に体を捻って窓の外の縁に足をかける。人一人分なんとか足がかけられた。そして、彼は、ゆっくりとトイレから離れた。




 大きな木があって、そこに飛び移ることも考えたが、それが失敗したときのダメージは甘いにも大きいので、彼は直感を信じて、ただひたすらに前へと進んだ。案の定、と言うわけでもなかったが、彼は偶然、窓の開いている部屋を見つけた。彼は静かにその部屋の中に入る。真っ暗だったが、それが誰の部屋なのかはすぐに分かった。あの女、美代の部屋だった。




 彼は、ふと、デスクの上に置いてある、ずっと大事に彼が持っていたのと同じ写真が額縁の中に納められているのを見てしまった。彼はその瞬間、胸が締め付けられる思いに駆られた。彼は十重に承知している。彼は心の中では何度となく、自らの母を許していた。でも、考えれば考えるほど、自分を見捨てた母を、父を見捨てた母を許せない自分が現れる。美代も、彼も八年前から時が止まっている。誰も前に進んでいなかった。




 もし、彼が彼女と出逢う前、たった一人でここに立ち向かっていたとしたら、彼はこの瞬間言葉では言い表しようもない憎しみと後悔に駆られていたことだろう。でも、彼はなんとかその思いを止めることが出来た。久しく聞いていない彼女の声、顔、匂い、彼女のすべてをはっきりと頭に思い浮かべることが出来たからだ。




 彼はこの余韻に浸っていたかったが時間が迫っているので、部屋を後にした。




 屋敷の中では、パーティーが続いている。しかし、屋敷の警備員は彼が逃げ出したことを無線で聞き、捜索に乗り出していた。指揮を執っているのはもちろん富岡である。彼は富岡を出し抜くためにトイレに仕掛けをしていた。機長ではあったが、トイレに彼はスマホを置いていく。リピートでトイレをしている生活音をながしていたが、さすがにおかしさに気がついたのだろう。それでも、十分に稼げたはずである。彼は人混みのなかに入ったり、そうかと思えばどこかの部屋でやり過ごしたりと、色々手を尽くしながら外へと向かった。




 途中何人かを気絶させることはしたが、それ以外では特に何もしていない。彼はどうにか駐車場にたどり着くことが出来た。そして、彼は車を塀にしながら目をかいくぐって、外に出ることが出来た。




 そこから彼はひたすら歩いた。山の中を、暗闇の中歩き続けた。新月の良いところは外に出るまでであり、外に出た後は道しるべが一気になくなってしまう。だから、彼は、どこかで休める場所を優先して探した。そして、朝を待った。寝付くことは出来なかったが、幾分か気分がましになった。




 山の中はあまりにも気持ちが良かった。川の音、風の音、自然を一心に堪能することが出来た。そして、彼はこの空気を彼女と共に味わいたいと心の底から思えた。




 音の中に人工的な音が混じっていないかをずっと確認し続けていた。そして、朝日が登ると彼はすぐに太陽の位置と屋敷の位置を頼りに方角を見つけ、ひたすら山の中を動き続けた。そしてすぐに舗装された道を見つけた。それをたどりながら歩くことも出来たが、発見される可能性もあったため、確認程度に見ていた。途中、目的の町の標識を見つけ、希望が湧いてきたが、同時にその距離に悲しくもなった。




 彼の推測が正しければ、今日、彼女たちはその町にやってくるはずであり、例えそうではなくても、セーフハウスへは入れる。問題は、その後だ。いくつかその先を見据えてはいた。それはそうとして、彼はまず何よりも眠りにつくことを優先したかった。町に入った頃から体中から熱を発し、意識が何回も遠のいていった。そのたびに気力で意識を保つという荒技で保ち続けた。




 そして、セーフハウス、つまり先生の兄の家にたどり着き、鍵が開いていることを知った瞬間、意識が途切れた。

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