第21話

彼が目覚めて二日、その間は体の回復に努めた。合流したときはガリガリだったが、前の姿に戻りつつあった。それでも、体力は落ちており筋力も落ちていた。彼女もその後、十時間以上寝続けた。彼は、彼女が目覚めるまでの間、隔絶されていた時間に世間では何が起こっていたのかの情報を集めた。これは彼の日課でもある。あちらこちらにある意図された情報はその裏側を見ることで自分の周りがどのような状態にあるのかを考えさせてくれる。これは、彼にとっては思考力を鍛える方法であり、彼の思考の源泉とも言えるのかもしれない。


 常に考え続ける。それは、言うのは簡単だが、かなり難しいことである。人は毎日何かしらについて思考する。それは、簡単な話、今日の晩ご飯であったり、明日のことだったりするのかもしれないが、人の欲求の一つに常に快楽がある。それは、肉体的な快楽も含め、人間の基本とされているが、思考というのは、その快楽に大きく反する行為である。


 人にとって思考を止めることはその快楽に身を委ねることになるのだが、それは自らの行為に対して責任を負うことを拒否することに近い。思考という行為はそれだけで崇高な行為とも言える。目先の快楽に委ねるのではなく、それらを超えた先にあるより確実でより長い快楽に関係する。場当たり的な快楽はそれだけでは人を満足させることはなく、常に飽くことなき不満を抱くことになる。しかし、思考という行為は、その不満を解消するための行為でもあり、もしくはそれを避けるための行為でもある。


 では、彼にとって思考とは苦痛に他ならない。彼はその特性上、思考することによってその反動とも言うべき点を抱えている。それは頭痛にはじまり、あまりにも長期に頭を使い続ければ熱を出す。一定期間の冷却が必要である。しかし、その間も何かしらの思考をする。苦痛の先に彼にとっての快楽、この場合は幸福があると彼はそう信じているからだ。幸不幸はその先で総和を整えると。まあ、幸不幸をどう捉えるかでその総和は変化することは自明ではあるが、少なくとも彼は今、幸福である。これだけは、間違いではない。彼女と出会うことなく、今日日を迎えていたのならば、彼は支えもなく一人潰れていたことだろう。


 だからこそ、彼にとっての彼女の存在はそこまで大きいものになっている。彼は彼女に依存している。これは良くも悪くもそうなってしまっている。そして、それは彼女にも言えた。彼女に何かしらの問題があるとか、そういったことではない。それでも、彼女は彼のためならば何にでもなれると思っているくらいに依存している。それは、お互いに不幸なことになることもあるだろう、と言う点で、二人は合致しているが、お互いに一切その話をしない。それは、何かを崩してしまう気がしているからだ。


 さて、話を戻そう。彼は次に何が起こるかを予測した。そして、それは必ず起こるべくして起こることを予測した。だから、構える必要すらなかった。

「それで、これからどうするの? もう、体の方も大丈夫そうだし、帰る?」

 彼女はここ数日、緊張の糸が張りっぱなしだったが、ぐっすり眠れたからか、顔色が良かった。

「いえ、まだ帰りません。僕の予測が正しければ、ある人がここを訪ねるはずです」

 彼と彼女、そして先生の三人で食卓を囲む。彼女にしてみては手料理を食べてもらえる機会ではあるのだが、何分、先生の前でいちゃつくわけにも行かず、すこし、やりきれない思いを抱いていた。

「ここを教えたの?」

 先生は至極真っ当な質問を向ける。

「いえ、教えていませんよ。でも、あいつらなら、ここを見つけるくらい造作ないでしょう」

「話が見えないわね。君を捕まえに来るの?」

「いえ、それは違います。もし、捕まえに来るのならば、すでに来ているはずです。あいつらはそれだけ危険なんですよ。もし、その可能性があるのなら、あちこちに動き回らなくてはなりませんでしたが、そうもなりません。もし、そうなってたら、僕は一人でやっていましたよ」

 誰も合点していなかった。

「僕の予測が正しければ、ここに来るのは、一人。そして、その人は僕らにとある条件を携えて取引を持ちかけると思われます。そして、分が悪いことにそれに乗ることでしかこの場を乗り切ることができない。それは、戻ることではない。でも、その条件は僕にとっては好条件なのかもしれないですが、にとっては良いとは言えない」

「僕ら?」

 彼女がつかさずその点を突いてくる。

「ええ、僕らです。この計画自体は君と逢う前から作り上げていました。これは、先生に頼んでここを用意してもらったり、資金面での工面もしてもらいました」

 先生は彼の言葉一つ一つにうなずく。

「そうそう。それのおかげで私、一体いくつの婚活パーティを逃したか!」

「はは、無理でしょ」

「あ? 何? 何が無理って?」

「いえ、まあ、話を続けましょうか」

 先生は彼を睨んだまま微動だにしない。

「え、えっとー、どうしよう」

「君が自分でまいたんでしょ。私知らないからね。あーあ、クラスの皆ですら触れないでいたのにー」

 ……おい、それは、日を注ぐ行為! ……

「何? クラスの皆にそんなに心配されてたの? じゃあ、もっと皆成績上げて私を楽させて欲しいなー」

「ちょっと、待ってください。僕はそんなに成績悪くないと思いますけど……」

「でも、補習サボったでしょ?」

「でも、それは、不可抗力というか、まあ、無理じゃないですか」

 先生はおもむろに立ち上がって、鞄をとってくる。

「さて、そのような言い訳に耳を貸すつもりはないので、ここに本来やる予定でした問題集を持ってきました。その人が来るまでやりなさい。そして、私はあなたたちをおいて学校に行きます」

「え!?」

 彼女は驚きのあまりのけぞる。関西人らしいところが彼女の思わぬところで出てくる。

「何よ。補習期間は終わってないのよ。まあ、いいわ、君達は公欠にしておいてあげるから。帰りはどうする? 迎えに来ようか?」

「いえ、大丈夫です。ここから電車で帰ろうと思います」

 先生は彼女の方に目を向ける。

「本来なら、美涼さん、あなたを連れて帰らなくちゃならないのだけれども、まあ、それに応じるつもりは……」

「もちろんないです!」

 この反応は彼も予想はしていたし、彼としても離れたくはなかった。

「わかった。じゃあ、時間がそろそろ迫ってきたし、学校に行くわ。良い? 補習の期間はまだまだ続くのだから、最低でも来週から来なさいよ。OK?」

「ええ、約束しますよ。多分、明日からいけるでしょうから」

「よし、それじゃあ、幸運を祈ってる。あと、二人とも、大人がいないからって何かをしたらいけないからな」

「はは、『何』をするのだか」

 本当に『何』をするのだろうか。

 当の彼女は顔を赤らめる。それに少しばかり彼も狼狽するが、まあ、それなりに済ました。

「まあ、なんとかしますよ。ほら、先生は学校に行ってて下さい」

「あっそ。何が起こるか分からないけど、それでも、まあ、なんとかなるさ。じゃあ、学校で!」

 先生はこれから起こることが何かを知らない。しかし、彼ならばなんとかしてしまうだろう、という楽観がどこかにあった。


 先生が学校に行くと、二人きりになった。

「行ったね」

「行ったな」

 彼は無言で居間に戻ろうとした。しかし、すぐに玄関のベルが鳴った。おそらく、先生が出るのを待っていたのだろう。

「はあ、美涼、お茶を入れといてもらっても良いかな? 一人分で良いよ」

「む? 私を小間使いか何かと思ってるの?」

「はは、彼女でしょ。まあ、確かに、ジェンダー問題に触れてしまう言葉だなー。よし、言い換えよう。まず、ここに来る人と一対一で話したいから先に戻っててくれない?」

「別に私は、そういうつもりではなかったんだけどなー。まあ、いいよ」

 そういって、彼女は先に居間に戻る。

「さて、頭を使うか」

 彼はぼそりと呟いて玄関の扉を開ける。


 目の前には白髪の老紳士が経っていた。

「こんにちは、ですかね、富岡さん」

「ええ、こんにちはですね。鈴解様」

 誰にとっても一切意外でもなかった。あの関係者の中で彼と接触できるのは富岡だけだ。

「まあ、入って下さい。長くなりそうですから」

「ええ、長くなるでしょう。それでは、上がらせていただきます」

 富岡は一礼して家に入った。

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