第5話
次の日、学校に行くと、これまたテンプレというか、古典的というか、低俗というか、卑屈というか、なんというか、もはや、言葉にも出すだけ無意味なようなことが彼の机に起こっていた。
もちろん彼自身もそんなことは初めてだから、多少は戸惑ったりもした。でも、すぐに冷静になって、独り言をおおきなこえでいってやった。
「おいおい、こんなドラマみたいなことが起こるのか?」
彼は、笑うしかなかった。これまでも幾度となく人から嫌われたことはあったが、ここまで露骨なのは初めてだ。
ふと、昨日の約束を思い出した。
「自分を大切に……か」
彼は軽く周りを見た。犯人の目星はついた。というか、昨日の連中だった。
同じクラスだったことに驚いた。もっとちゃんと名前を覚えておけばよかった、と。彼は、遅まきながら実感した。
さて、彼の目下の問題はこれを彼女が来るまでにどう隠滅するかだ。何個か方法はあったが、恐らくは油性ペンで書かれているであろう『死ね』だの、『カス』だの、『クズ』だの、と言った低俗極まりない、ていうか、これを書くだけ超特大ブーメランになって帰ってくるようなことをどう消すかだった。それを考えながら、ただの好奇心で、彼は、これを描いた連中はどんな気持ちで書いたのかが、気になって仕方なった。
……自己紹介でもしているのだろうか? なんとも斬新な自己紹介だ。もしかしたら、こういう名前なのかもしれない。『しねか すくず くん?』誰だよ。知らんな。まあ、クラスメイトの名前もほとんどわからないからいるのかもしれない。あ、アナグラムか。
『かくね かずし』お、なんかいそう。なるほど、これを書いた人は『かくね かずし』なんていう人か。
そんな、呑気なことを思いながら、カバンの中から、もしもの時に備えて持っていたアルコールを取り出す。消毒アルコールだ。
おっと、先に、彼は、スマホを取り出して写真を収めた。証拠になるからだ。
「さ、この勢いで、これを書いたばい菌を消毒したいが、あの人は許さないだろうなー」
と言って、消毒液を吹きかけ、あらかじめ持ってきておいた雑巾でこする。そうすると、見事なまでに消えていく。
「消し方さえ知っていたら、なんの苦でもないからなー。むしろ、この、『かくね かずし』っていう人は、なんて、遠回りで姑息でくだらなくて、クズで、カスで、僕よりも存在価値のない人なのだろうか? 会ってみたい!」
と、こっちをずっと伺っている男どもに向けて聞こえるように声を出してやる。すると、そこから、ガタン! という音が聞こえたと思ったら、一人の屈強そうな男が立ち上がっていた。
「何? ここの学校のてっぺんでも取るの? リンダマンとかいるのかなー。まあ、彼は少なくともできないだろうなー」
彼は、一人、不敵な笑みを浮かべた。あのデカイ男を完膚なきまでに捻り潰す方法はいくつかある。例えば、胸倉を掴まれたら、手に持っているアルコールを目に吹きかけ(失明する可能性大)、顎に一発。うまくいけば、脳震盪で倒れるが、まあ、無理だろうから、怯んだところに股間めがけて蹴り、多分ダウン。それでも意識があるのなら、マウントをとって一方的に顎と頭を狙う。もちろん死なない程度に、半殺し程度に。
拳を使うっていうのは、それぐらいの覚悟がなくちゃならない、と、昔、彼が小学生だったころ、武道をやっている親戚から教わった言葉を思い出しながら、行動を練る。
しかし、相手は、ここではまずいと思ったのか、席について悔しそうな顔をしている。それを見るとまた笑いたくなってきた。ていうか、彼は、もうすでに笑っていた。腹を抱えて笑っていた。
「何をこんな朝から笑ってんのよ」
いつの間にか、彼の後ろに立っていた彼女はスプレーと雑巾を持った彼に少しばかり怪訝な顔を向けていた。
彼は、彼女の顔を見た瞬間少し目を背けたくなった。昨日の泣き顔が頭によぎった。あまりにも美しかった。それが頭にこびりついて離れない。
「いやいや、本当、僕はこれまでぼっちでよかったなと心の底から思って……」
「ふーん、どういうことかは後でしっかり聞かせてもらいます。まあ、大体のことはその机と雑巾の汚れ方と手に持っている消毒用エタノールでわかるけど……。私だって、それくらいの生活の知恵はあるからね? 伊達に読書家でもないですし」
彼は、彼女の目の奥にある怒りを悟った。そして、心の底から、やばい、と思った。
ちょうどその時に朝の予鈴がなったから、諦めて彼女は自分の席に座った。その頃には、すでに笑っていた。天使のように。
彼は、自身の机の中に手を入れてみた。流石にカミソリとかはなかった。あったとしてもさほど問題ではない。むしろ、好都合だったが、相手方はどうやら命拾いしたらしい。
授業が始まれば終わるまで、個人の時間が取れる。その間も昨日の彼女の泣き顔が頭から離れなかった。そして、次に出てくるのは、成り行きとはいえ、約束してしまった約束。まだ一日もたってないのに、自分を完全に拘束してしまっている。言葉に祈りが、呪いが、あることを信じてしまいそうだった。しかし、現に言葉には力がある。そのものを本気で縛るような術ではないものの、相手の思考を規定し、決定づけるだけの力を持っている。言葉は恐ろしい。言葉によって規定された人間はその規定から逃れることはない。彼がその一人となった。しかし、彼が思うに、人が法を、道徳を守るのは、これまで、色々な人からの規定に従っているからだと。そうなれば、今の、彼が陥っている目に見えた嫌がらせは、これまでの誰かが、それを行っていい、という、免罪符にも似た規定を与えたからではないのだろうか? と、思えた。だから、人々はクズになれる。だから、自分みたいな人畜無害な人間に対しても攻撃の対象になる、と。
そう思うと、彼は、少しばかり寛容になれた。
昼休みになり、彼は、弁当と水筒を持って屋上に上がった。夏だからか、凄く暑かった。
「焼けるー」
しかし、やっぱり、高いところだからか、風通しがいい。四方をフェスに囲まれた安全策が幾重も施された屋上はそれでも、風の侵入は拒めなかった。足元からは蝉の鳴き声がよく聞こえた。遠くには大きな雲があった。中に、城でもありそうな勢いの雲だった。
彼は、梯子を登って上に上がると、
「遅かったね」
彼女は座って待っていた。
「ここに、パラソルとか欲しいよ」
「ここをバカンス場にするとつもりですか?」
「海がないなー。ああ、海だ! と叫びたい」
「近くに川があるのでそこで叫んでください」
「え? 川だ! って叫ぶの? バカじゃない?」
「だったら、そのパラソルなんていう発想を流してきてください」
「ちぇっ」
「そんな可愛くぶすくれても何も出ませんよ」
「え? 可愛い? 誰が? どこ? どこにいるのー?」
「それはともかくとして、詰めてください。僕が座れません」
「いや。どこに可愛い子がいるのかを教えてくれるまでとかない」
二ヶ月前の彼なら、諦めてどこか別のところで食べていたのだろう。しかし、人は変われる。ちょっとでも。
「さあ、どこでしょうね? 少なくとも僕の目の前にいる人が可愛かったのは気のせいのようです」
「意地悪」
彼は、軽くドヤ顔をしてみせる。彼女はくすくすと笑って、なにそれ、と、言うだけだった。そのまま、腰を軽く浮かして詰めたから、彼は、座って弁当を開けた。
「それで? 朝、何を消していたの?」
「……」
「ねえ、昨日約束したよね? 私は本気で心配しているんだよ?」
彼は、その問い詰めを回避できなかった。そして、朝の出来事を簡単に話した。
「やっぱり。昨日の連中は陰湿な方法に出てきたのね。よくわかったね、机があんなことになるなんて」
「ええ、まあ、初めての経験でしたけど、そもそもがチキンな彼らにはそれくらいしかできないでしょうから。真正面から戦うことだってできない。ストーカーとか、闇討ちとか、いじめとかの、そんな低俗なことしかできない奴らには、地べたを這ってもらうのが一番いいですね。まあ、僕は戦ったわけでもないですし、なんか、チートをした気分ですけどね」
彼は笑って見せたが、その笑顔は何かしらの恐怖が含んであった。
「チート?」
「例え、仮であっても、あなたとこうやって二ヶ月も過ごしたのは、本当にあなたのことを好きでいる人たちには失礼な気がして……、気がひけるんですよ。だから、自分の行いが正しいかは知らないですけど、少なくとも、真正面から立ち向かってくる人たちには負けますね」
「成る程……、でも、それは、私の責任じゃないの?」
「たしかに、そうかもしれません。でも、あの日、この場所で拒否しきれなかった僕の落ち目ですよ」
彼は、男らしい一面を持ってもいた。『女性には優しく』彼はこのモットーとまではいかなくとも、ある種、信念めいたものを持っていた。だから、断りきれなかった。彼は、優しいのだ。優しすぎるくらいに。でも、自分に対して害が起こりそうならばそれを容赦しない。しかし、根は優しすぎる。人を傷つけたくない。誰かを傷つけるくらいなら自分を傷つけてしまうくらいに。自棄を孕んだ優しさ。でも、それは、彼女にとってすれば、不安の種でしかない。だからといって、彼は、その生きたかを変えようとは思わない。そして、彼女はそれをひっくるめて、彼を受け入れている。でも、あわよくば、その、考え方が少しでも、自分本位な考え方に変わることを願っているから、彼に対して、あんなわがままを言ったのだろう。本当のところは、彼にはわからない。
「でも、私は、君であったことに後悔はしてないよ。むしろ君でなくちゃダメ。あの時の私も、今の私もそう思ってる」
彼女は雲ひとつない空を見て笑った。空は晴れ晴れとしていた。涼しい風が吹き付ける。
……なんとかなる。
彼は、自分にそう言い聞かせた。
……なんとかなる。
でも、彼は、不安になった。
……この件が終わったら? 僕はどうなるのだろう……。
彼は、不安になった。そして、それが、どういう感情で、どう言い表せばいいか分からなかった。彼はもどかしさを隠したままご飯を頬張った。
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