第6話


 少し前に噂は七十五日で消えるなんて言っていたが、たしかにそれで消える。しかし、問題は残る。残った問題は尾を引いて歯止めがきかなくなる。


 毎日のように机には何かを書かれ、それを毎日消す。飽きもせずに油性を使って、アルコールで消す。不毛な抗争。実質的な被害がまだ出ていないからまだいい。これが少しでも彼女のもとに行くようなら……、いや、来ない。来るはずがない。彼らの狙いは彼であって彼女ではない。目的が、彼女から、彼を引き剥がすためだから、彼女を狙う必要性がない。それでも、追い込まれた家畜は何をしでかすかわかったものではない。その家畜は自意識過剰で、被害妄想の塊なのだが……。おそらく、何もしなくても勝手に潰れる。と、彼は彼で、自意識過剰なレベルで高をくくっていた。


 しかし、今日に限って、教室内の空気がいつも以上に歪んでいた。歪みすぎるくらいに歪んでいた。


 こういう日に限って彼は偶然彼女と道でばったりあったので学校に共にきてしまう。すると、


「美涼ちゃん! 大丈夫!?」


 黒上長髪の一見清楚系の遊び女が教室に入るなり、彼女のもとに駆け寄った。そして、彼の肩を強く押して、彼は、机につまずいてこけた。


「くっ……」


 肩を強く押されたことよりも、勢いよくこけた時についた尻餅の方が痛かった。不幸にも机の角が彼の頭に刺さった。思いがけない痛みだった。


「篠崎くん! 大丈夫!?」


 デジャブか? 奇しくも同じ言葉を違う人が違う形で使った。


 彼女は急いで彼の隣に座って、彼を起こす。


「ちょっと! 何してんの!」


「何って!? 美涼ちゃんがこいつに弱みを握られてんでしょ!?」


「は!?」


「いや、だから、こいつが美涼ちゃんの弱みを握ってるから、美涼ちゃんはこんな奴と付き合わなくちゃならないんでしょ!? どんなことでも、私たちは受け入れる覚悟があるから! 信じて全部話して! こんな奴、私たちにかかればなんのそのだから!」


 言いたい放題、矛盾し放題。彼は、声にもならない苦笑をした。彼は、彼女から差し出された手を握って立ち上がった。その行動一つにも、その女はご丁寧に反応してくれる。


 彼は、そのヤジを無視していたが、彼女は明らかに怒っていた。声には出ていない。態度にも出ていない。でも、何故か、彼には、そう思えた。確信できた。


「篠崎くん。いつものところに行っていて、あとで行くから」


「いや、でも……」


 さすがの彼でも、この場を逃げるようなまねはしたくなかった。しかし、


「いいから!」


「はい……」


 彼は、立ち上がって教室を出た。彼女の剣幕に負けてしまった。ここは、おとなしく従う方が良いと彼は直感的に思えた。そして、同時に、彼には尻にひかれる才能があることがわかった。


 だから、彼は、このあと、ここで起こったことを知らない。


「今のを見ても、まだ、私が彼に弱みを握られてるって言うの? それとも何? 私は、これすらも演技で彼にやらされてると? 冗談じゃない! 私は、彼が好き! 彼が好きだから、彼の隣にいるの! それがどうしてわかってくれないの!? どうしておかしいといえるの!? 好きな人の隣にいるのは私だとおかしいことなの!? 変なの!? 私が彼のことを好きで好きで好きで仕方ないのに! 私の告白を受けてくれたからなのに! あなた達は弱みを握られてるだのなんだのと、好き勝手に! 気づいてないとでも思った!? 私を毎日つけている人がいることに!」


 彼女は精一杯の声で怒鳴った。隣に聞こえようとも、外にもれようとも、何が起ころうと関係ない。むしろ、好都合だった。


「で、でも、証拠があるのよ!」


 黒髪清楚系遊び女はスマホの写真を出す。


 その写真は彼女が泣いた時のものだった。よく撮れている。このあと、彼女は彼の胸の中にいた。しかし、この写真を見たら、まるで、彼に泣かされているような構図だった。偶然にもほどがある写真。確かにみんな勘違いする。


「何よこれ?」


「これが証拠。美涼ちゃんが、脅されてる、って言う証拠!」


「まず、どうしてこんなものが撮られたの? 誰かが意図的に私たちをつけないと無理じゃない? そして、このあと、私は彼に慰めてもらいました! もっと言えば、この原因を作ったのは、いつも呑気に婆みたいな話をしている男どもだよ!?」


 彼女はヤジを一生懸命に飛ばしていた男ども、つまりは、彼を襲った連中を指差した。視線が一気に集まる。


「ねえ? 知ってるんだよ? この前、大切な人に『手を引け』とか、『痛い目見せる』とか言ったよね? 私は、それに傷ついたんだよ? それをわからないのに好き勝手に彼を言って……。最初は仕方ないと思って見逃していたけど、これは、もう、最低だよ。彼の机が毎日落書きされてるのを、彼のことだから、まるで日課のように消すだけで、傷ついてないのか知らないけど、あなた達が傷つけてるのは私なんだよ!? あなた達のそのふざけた友達関係が、偽善が、彼を介して私のもとにくるのよ。あなた達が何を目的にそんなことをしたいのかは知らないけど、でも、少なくとも、彼を傷つけたら、私は、あなた達を許さない」


 彼女は、思いつくままに胸の内をぶちまけて部屋を後にした。部屋に残されたのは、沈黙と言葉では言い表せない何かがそこを占めていた。


 彼女は寸前で泣きそうになっていた。でも、なんとか、彼の元に辿り着くまでこらえようと決めていた。ここで泣けば、たどり着けない気がしていたからだ。でも、もう、目尻には涙がたまり、今にもこぼれ落ちそうだった。いや、もう溢れていた。後少しでたどり着けそうだった。もう、足が動かなかった。これ以上歩めなかった。


「遠いよ、篠崎くん。本当、君は強いよ……。強すぎるよ……。私なんかじゃ、届かないよ……」


 彼女はうずくまって泣いていた。壁に寄りかかって泣いていた。届かない彼を想って、自分の弱さを恨んで。自分の非力を憎んで……。


「羽澄さん!? 大丈夫ですか?」


 上から、彼女が聞きたくて、聞きたくてやまない声が聞こえた。


 彼は、屋上へと続く階段を降りてきていた。彼は、待っていられなかった。


「どうして……?」


 彼女は弱々しい声で聞いた。


 彼は、階段を駆け下りて、彼女の前にひざまづいた。そして、彼女の肩を抱き寄せた。彼は、優しく彼女の耳元で囁いた。


「どうしてって……。君の涙の音が聞こえたからですよ。ごめんなさい。そして、ありがとうございます。あなたは、僕が出会ってきた人の中で最も優しい人です。あなたの優しさは誰でも救えます。僕も、あなたの優しさに救われました。僕は、そんなあなたが、傷つくところを見たくない。あなたは、前に僕にいった。自分を守れ、と。僕は、例え、君と別れることになってもその約束を守ります。君を守るともいった。僕は、もう、君を傷つけない。僕は、もう、許さない。こうなった原因を見つけて潰します」


 彼女は、その内容よりも、彼の声を聞いて安心したのか、もっと大きな声で泣き始めた。

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