第8話

09


「知りたいですか?」




 彼は、空を見上げながら、つぶやくように聞いた。これまでの話もすべて、彼は、心ここに在らず、という言葉がぴったしだった。何かを思いながら話していた。




 彼は悲しんでいた。自分で話しながら、仮定の話でありながら、もし、それが真実なら、人は救いようがない、と。彼は、悲しんでいた。自分が夢見た人々はどこにもいない、と。自分が救いたいと感じる人が目の前にいても、何もできない自分がここにいることに。




「私は……、例えどんな結末でも、君となら知りたい。君が私のために見つけてくれた1つの可能性を信じて知りたい。君となら、どんな真実でも受け入れられそう。まあ、もし、その時傷ついたら、君に慰めてもらうよ。君の心に近くありたいから……」


 彼は、悲しい目のまま優しく微笑んで、


「そうですか。わかりました。羽澄さん、今日にでも出来るかもしれません」


「わかった。……あと、1つだけいい?」


 静かな口調だった彼女は急に声のトーンを上げた。これは、甘える時のトーンだ。彼もいい加減わかってきた。その上で、態度を和らげた。




「はい?」


「君、さっき私のこと、美涼さん、と言ったでしょ? しかも二回も」


「ええ、まあ、ああ、嫌でした? 仮の関係なのに、馴れ馴れしかったですか。すみません。謝ります」


「違うよ! なんで、ようやく私のこと、さん付けだけど、下の名前で呼んでくれたのに、急に、羽澄さん、なんていう、他人行儀に戻すの! 美涼で良いのに! ねえ!」


「いや、でも、あなただって、僕のことをだいたいは、君、と言いますけど、人前では篠崎くん、じゃないですか。それと一緒ですよ」


「む、そうか、じょあ、鈴解くんって呼ぶ」


「いや、そんな、無理に呼ばなくても……」




 彼は、心の中で、そんなの呼ばれ続けたら、うっかり惚れてしまいますよ、なんて、本当に吐けばいいセリフを胸の内にしまってしまった。もし、言っていたら、彼女はどれだけ舞い上がっていたのだろうか? まあ、彼は、もしかしたら、敢えて、言わなかったのかもしれない。


「ま、まあ、人の呼び方は置いといて、羽澄さん、作戦を説明しますね」


「羽澄さん?」


 彼女は明らかに睨んでいた。


 彼は、それをあえて無視して、耳元でその作戦を伝えた。


「さ、戻りましょう。何時間もここにいるのは流石の僕でもしんどいです」


「確かにね。でも、大丈夫?」


「それを聞くのはこちらです。そちらこそ大丈夫ですか?」


「心配してくれるんだ」


「まあ、仮でも彼氏ですから」


「本当に、優しいね。どうして、そんな君が、一人で生きていこうとするのよ」


「さあ、なんで、でしょうね。でも、確かに一つわかるのは、僕の優しさは誰にだって優しいわけではありません。特定の人にだけに向けるものですよ。たしかに、昔はみんなに好かれたいと思って、みんなの為になりたいと思ってやってきたこともあります。でも、いつだってそれは裏目に出てきました。人のためになんか何もできやしない。それを悟ったんですよ。人は救えない。人の為にやろうとしたら、それに同調を見せながら、実は自身の株のための駒として使うようなクズが溢れてることに気づいたから。僕はね、利用されることに慣れてしまった。でも、それがもう嫌だから誰からも頼られないように生きようと。あなたが、あんなことを頼んだ時、また、利用されると思いました。まあ、たしかに利用されましたが、でも、今までとは違う。あなたには、どういうわけか喜びがあった。僕には理解できない。正直、今でも怖いですよ。いつ、また、僕は捨てられるのか……。それがさらに、仮の関係だから。最初は、あなたは、すぐに僕を捨てて、自分の株上げをするんだとばかり思っていました。でも、矛盾もあった。だから、考えを変えました。もし、あなたの言っていることが本当なら……。あなたの笑顔が、涙が、その全てが本心なら……」


 彼は、また、ここにない目をしていた。




「本心だよ。全部君にしか見せないものだよ。君のためのもの。君がいたから、私は頑張れる。たとえ、全てが終わっても、それがいつか本物になればいいなと思ってる。その日までに君が私のことをちゃんと見れるようになったら、その時は、私はもう容赦しないから」


 後ろに手を組んで、少し恥ずかしそうに応える。




 どう見れば、これが仮の関係なのか、理解できる人がいるのなら、是非とも会ってみたものだ。


「さ、いこうよ。まずは、1つ終わらせようよ。そして、始めよう。私たちの明日を」


 扉に手をかけて彼女は先に屋上を出た。そして、彼の方を向いて、これまでで一番の笑顔を見せた。明るすぎる笑顔だった。何の不安もない、安心しきった笑顔。本当は安心などしていないのかもしれないが、それでも、美しい、まるで女神のような笑顔だった。いや、天使なのかもしれない。


 彼は、彼女の言葉で、笑顔で、完全におちた。




「ずるいですよ。あんな顔見せられたら、惚れないわけがないじゃないですか」


 彼は、この関係がずっと続けばいいと願うようになった。それが彼の中で形付いたのがいつなのかはわからない。でも、少なくとも、今の彼の心は、それで満たされた。


「これが、人というものですか……。ようやく出会えましたよ。僕を変えてくれる人に……」


 彼は、ここにはいない誰かに向けた思いを口に出した。


 屋上を出た階段で彼女は待っていた。




「先に行っているものだと思いましたよ」


「行くと思う? 晴れて私も君の仲間なのに」


「なんですかそれ? ぼっちの仲間ですか? はは、彼氏持ちのぼっちなんて聞いたことないですよ」


「そんなこと言ったら、君はどうなのよ? 彼女持ちだよ? しかも、こんなに可愛い子が彼女なんて、ぼっち期では考えもつかなかったでしょ?」


「ええ、まあ」


 彼は苦笑した。




「感謝なさい。あなたのようなぼっちに語りかけるのは偽リア充しかいないからね」


「自覚あったんですね」


「もちろん!」


「なんで、自慢げなんですか」


「なんでって? 私は完璧だから」


「いや、意味がわかりません」


「わかれ」


「無理ですよ」


 クスクス2人で笑う。




「時に鈴解くん」


「はい? どうしたんです? 急に改まって」


「私のことを美涼とお呼びくださいまし」


 また始まった。そして、どうして、そのような話し方になったのか、彼には理解できなかった。


「本当に急ですね。恥ずかしいから嫌です」


「嫌!? 嫌って言った!? 言いなさいよ!」


「そんな、暴君な」


「私のことをハスー=アントワネットと呼びなさい」


「呼ばれたいですか?」


「……嫌です。呼ぶなら、クレオパトラと呼んで」


「もっと呼びたくないです。ていうか、どうして歴史上の人物なんですか?」


「じゃあ、アニメで行く?」


「いや、そういう問題じゃないでしょうに。ていうか、今までこんな会話したことないのにどうしたんです!?」


「いや、ラノベなのにラノベっぽいところないなーと思って。だって、私なんて、笑顔見せて、泣いてるだけじゃん。関西人だけど、関西弁使わないし」


「じゃあ、使ってくださいよ」


「ええ、しゃあないなー。ちょっとだけやで」




 酔っ払いを扱っている気がしてきた。彼女に酒を飲ましたら、下手したら、泣上戸と絡み上戸かもしれない。もしかしたら、笑いも入るかもしれない。


「めんどくさい」


 ボソッと彼は呟いてしまった。


「誰がめんどくさいて? ほら言うてみ。誰や? え?」


「いえ、誰もめんどくさくありません!」


 やっぱり敬語は抜けない。いや、これネタかもしれない。でも、彼は、楽しそうに笑っていた。




「家では、いつも関西弁なんですか?」


「せやでー」


「酒入ってません?」


「シラフー。なんか関西弁使うときって、なんでかテンション上がってまう」


 本当に面倒に感じてしまった。このテンションはまだ彼には早かった。しかし、今からでは遅い。




「どうして隠してるんですか?」


「だって、めんどくさいやろ?」


 自覚していた。まあ、小ボケが挟まれないだけマシな気がして仕方なかった。彼は、ツッコミキャラではないし、ましてや、ボケキャラでもない。どちらかといえば、ツッコミの方が得意かもしれない。彼女は、ツッコミでもないが、ボケてるわけでもない。ボケの方が得意なのかもしれないが……。ある意味ではバランスのとれた二人なのかもしれない。


「なんか言えや」


「いいえ、面倒ではないですよ。ただ、少し疲れるだけで……」


「それは、めんどくさいって言うんやで?」


 また、クスクス笑う。




「ほな、関西弁キャラは少し収めますわ」


 すっ、と言う効果音が似合う戻り方をした。


 ちょうど、一時間目終了のチャイムが鳴った。先生が出てくるのを待っていた。謝るためだ。もちろん、あまり関係の無い先生なら、二人とも何も言わずにしれっと戻ったのだろうが、これから会う先生は、彼の事情をよく知る数少ない人間であったがために、謝罪と理由を述べる必要性があった。


 休み時間は十分しかないため、すぐに出てきた。




「白川先生」


 彼女が先生を呼び止めた。


 白川先生は国語教師で彼と彼女のクラスの担任でもある。白川 静音。二十八。絶賛婚活中。先生曰く、最長記録は四年らしい。高一から大学一回生らしい。先生は、国語教師でありながら、なぜか白衣を着ている。一見すればリケジョとも受け取れるが、れっきとした文系で、歴女ではないが近代思想を研究していたらしい。さて、一体どう転べば、国語教師になれるのだか……。




「ああ、お前たちか。授業を二人仲良くサボりよって。何もしてないだろうな?」


「はは、何も、と言いますと?」


「言わすな。それで? どうしてサボったかは大体察しがつく。羽澄も困ったものだ。よりによってこんな見てくれも中身もしょぼい男を捕まえるなんて。職員室は君の話題で持ちきりだよ」


 彼は、ぼそっと、


「しょぼくれで悪かったですね」


 この後、婚活話題を少し出していじろうと思ったが、彼は、あとが怖かったのでやめた。




「で? 君たちはどうするつもりだい?」


 彼女が答える前に彼が答えた。


「まずは、目の前の片付きそうな課題を片付けます」


 白川先生は納得した顔をしてうなずいた。納得と言うよりも、いつもの彼で安心したのかもしれない。


「うむ。わかった。くれぐれも問題は起こすなよ」


「先生、もう起きてます。でも、これ以上長引かせるのは面倒ですから、一つ目を終わらせます」


「そうだな。君たちには期待しているからな。頼むぞ」


 そして、彼の肩を軽くたたいて、まるで任せたと言わんばかりの仕草をする。かわいいや、美しいと形容するよりも、かっこいい、部類の人間だ。




 彼女には意外だったのだろう。誰とも喋らないと思っていた彼は、まさかのクラスの担任に心を軽く開いていたからだ。まあ、考えればわかることか、と思って、すぐに納得した。


 先生は彼女の肩も軽く叩いてニコッと笑った。なんで、こんな笑顔を向けれる人が娶ってもらえないのかが、彼には理解できなかった。自分がもうちょいだけ早く生まれていたら、多分、すぐに告って結婚してたと思ってしまう。


「それじゃあ、餌撒きは昼休みだね?」


「ええ、予定通りお願いします」


「了解。それまでは、まあ、休み時間ごとに君のところに行ってあげるよ」


「いや、来なくていいですよ」


「うわ、ひどい……」


 なんて、くだらない会話をしていると、


「こら! 私の前でイチャつくな!」


 先生はこっちを向いていた。




 ……行ったんじゃないんだ。ていうか、こっち見てたんだ。ていうか、私怨が入ってる……。誰が思ったのかは言わないでおこう。


「じゃあ、行こか」


 教室の中に入ると朝とは打って変わって、何事もなかったかのように生活していた。そう、彼がいないのは日常茶飯事だが、人は、残念なことに、もう一人消えても、普遍性は崩れない。たとえ、それがどんなポストの人間であってもだ。別の人がその役になれる。誰だっけ? 誰かが、


『社会を作った人間は、社会を持続させるための人間になった。それはつまり、時計で考えたとき、時計を作ったのは人間だが、同時に人間が時計の普遍性を保つための歯車になった。その歯車は、いくらでも代用が可能だ。その歯車の安定供給するための生産工場がいわゆる学校と呼ばれる教育生産機関だと。つまり、我々は、社会という一企業に勤める社員であり、その育成機関として学校がある』だったか。




 こんな一節の証明が目の前だった。彼は苦笑した。笑わずには居られなかった。しかし、それは、声を上げたものでもなければ、人目を引くような笑いではないため気にかけてはもらえなかった。まあ、気にかけられたら、ヤバイやつだが……。そして、元々から気にかけられ、気にかけられないから、問題ですらなかった。




 そのあとは本当に休み時間ごとに彼女がくる以外これと言って何かがあったわけではなかった。そして昼休み。


「鈴解くん! 今日も一緒に帰ろー」


 ……この演技派。




 どうして、そんなに演技が自然にできるのか彼には分からなかった。それもそうだ。演技どころか、彼にだけに見せる素だからだ。最初は彼と二人きりでしか見せなかったが、最早、スクールカーストのトップから彼と同じところに位置付けられた(多分)、彼女にとって、周りと調和を図る必要性がなくなった。もう一つ理由としては、こうやって、地道に真実であることを示すことが後々効いてくると彼女なりに考えた結果でもある。確かに、少なからず効果は早速出てはいるだろう。もちろん草の根の運動でしかないのだが……。




「いいですけど、ちょっと今日は図書室によってから帰ろうと思うんですが……」


「じゃあ、そこによってから一緒に帰ろうよ」


「いや、別にこちらに合わせなくても。本当、付き合わすのも失礼なくらいの野暮用なんで」


「いいよー、どこだってついていくよー。天国から地獄まで」


「それは……、重すぎませんか?」


「重いのはお嫌いで?」


「ノーコメントで」


「そういえば、図書館ってどこだっけ?」




 ここで、取って付けたかのように、計ったかのように、思い出したかのように、今しがた考えついたかのように彼らのいる学校の構図を説明しておこう。


 彼らの学校は全部で3つの校舎がそれぞれ並列している。大抵の人は、上、真ん中、下と言っている。これはというと、空から見て、かつ、方角を北に顔を向けた時に北側を上、南側を下と呼んでいる。3つの四階建ての校舎が並列しているため、二階と四階にそれぞれ二つずつ連絡路があって、それで繋がっている。下が一年、真ん中が二年、上が三年と学年単位で校舎を分けている。音楽室やらのいわゆる実技科目、部活等の部室は全て真ん中に集められている。そのためか、真ん中の校舎だけ、会議室やら職員室やらが入っているからか少しだけ大きい。さらに、そこには図書室まであるが、その図書室にはかなりの癖がある。彼が初めて来た時、地下に研究所でもあるのかと思ってしまった。もしかしたら、本棚の本を入れ替えたら、その後ろから扉が出てきて地下研究所に行って、究極生命体を倒さないとダメとか、そいつは、多分、心臓丸出しなんだろうとか、グラサン金髪オールバック野郎の暴れっぷりが見れるような気がするとか、ゴリラが暴れるかもとか、サンドウィッチが出来上がるかもとか、そんなことを考えてしまった。ほんのちょっとだけ……。すぐに、無駄なことを考えたと思って反省した。何が特徴的かって、それは、図書館が二階建てであること。二階から三階が1つのフロアにまとめられていて、その二つの階は全面ガラス張りで外から見られたい放題だ。いつも彼がいるのは下の屋上。そして、そっからなら、図書室がはっきりし過ぎるくらいにはっきりと見える。だから、図書室を選んだ。




「真ん中のガラス張りのところですよ」


「ああ、ここの屋上からはっきりと見えるところね」


「ええ。そうですよ」


「まあ、図書室についていくから、いいんだけどね。じゃあ、ちゃんと、待っててよ? 先に行ったら、謝るじゃ許さないよ」


 演技が自然すぎるのが彼に取って恐怖を感じさせた。途中までは演技のはずなのだが、最後の方はそんな感じは一切しなかった。むしろ、本音に近い何かを感じた。




「ええ、わかりました」


 彼は、ニコッと微笑んで見せた。誰にも見せたことない笑顔。そして、彼女にもほとんど見せたことがない笑顔。だから、彼女の心臓が高鳴った。


 彼は、すごくイケメンというわけではない。むしろ、かっこいいに近いのかもしれない。やはり、性格的な問題と、彼の何も映していないような目は恐怖を与えてしまうのか、それとも、彼が賢すぎる故の性なのか、彼の見てくれが全く発揮されなかった。しかし、彼女と過ごすうちに、彼は、素、というものが出せるようになったのも事実である。具体的には、いろんな人がいる前で、たった一人のために向けた笑顔とかだ。二ヶ月前の彼なら、あり得なかった。




「じゃあ、約束ね。これから、毎日一緒に帰る」


「うん、約束……!? 毎日!?」


「うん。何かおかしいこと言った?」


「いえ、まあ、今まで通りですから……。別に、約束しなくても良かったんですけど……」


「友達がいないから? 帰る人が私以外にいないから?」


「すごく癪に触る言い方しますね」


「あら、失礼。つい、意地悪したくなっちゃいました。私っていけない子。てへっ!」


「自分でしないの。なんですか? その、ぶりっ子キャラは? 関西人のよくわからないノリですか?」


「もちろん、なんとなく」


「でしょうね」


「ま、そういうことだから。もう約束しちゃったもんね。今更、無かったことにはできないよ」


彼は、また、軽く笑って、


「ええ、いいですよ」


 と、約束を増やした。ここでないどこかを見ながら……。




 彼の性格上、例えどんな約束でも(例えそれが理不尽なもであっても)破れない。優しいからだ。彼は、心の底から、誰も傷ついて欲しくないと願っている。それが、どれだけ理想論でどれだけ実現不可能なのかを理解していても、それでも願っている。効率的に生きようとしても、彼の根っこはそれを受け入れない。理性と精神の乖離は彼の中を確実に蝕んでいた。


 彼女が、その蝕みに最初から気づいていたとは考えにくいが、少なくとも、彼と過ごしているうちに彼女は、彼の何かがおかしいことに気づいていた。でも、考えないようにしていた。


 彼女は信じていたからだ。この先、何が起こっても、彼を愛し続けることができる自分がそこにいる、と。


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