第13話 動き出す日常

 013




 一夜明ければ冷めるものと思っていた。でも、彼は冷めるどころか、まず、寝付けもしなかった。寝付けるはずがない。彼の心臓は破裂するかと思うくらいに高まっていた。意外と自分がそういうのに弱いのだと初めて気づいた。一方の彼女はというと、これもまた、彼と同じだった。どちらも理由は違えど、その胸の高鳴りは留まるところを知らず、挙げ句の果てには死ぬのではないかと恐怖もしていた。まあ、死ぬ訳ではないので、冗談半分で思ってただけで、そんなことよりも、寝たくても寝れない苦しみは永遠と続いた。二十三時くらいに帰って、二十四時に電気を消したかと思えばそれは、二十五時となり、二十六時となり、気付けば、朝日がカーテンの隙間から、おはようございます、と顔をのぞかせていた。




「やってしまった……」


 彼も彼女も二人の知らないところでぴったしと同じことを言った。不思議と眠くなかった。アドレナリンが出ているからだろう。ただ、それが切れると異常なまでの眠気が襲ってくる。抗い難い睡魔。抗うだけ無駄な睡魔。それは、流れに身を任せて、そのまま寝るのが一番だ。




 何とかして寝付こうといろんな態勢をとって、いろんな事を考えないように頭を間にしようとすればするほど寝れなかった。もう、いっそのこと諦めて大人しく何かしらのゲームをしてる方がいい。気を紛らわす方がいい、と考え始めた頃にはもう、四時を回っていた。




 誰もいない家の中に一人、彼は、黙々と眠い目をこすりながら、学校への身支度を済ましていた。今日は、早く起きた(まず寝ていない)から、少し頑張って食パン一枚、食卓にスクランブルエッグとソーセージとサラダをつけてみた。いつもなら、七時に起きて八時には家を出るところを六時に布団から体を出して、弁当を作り、朝食を作って、準備を完了した頃には七時三十分を指していた。あと、三十分の過ごし方が彼には思いつかなかった。テレビは持っていない。待つ必要がないと思ったからだ。ノートパソコンは父譲りのもので、ネットには繋がるが、それだけの存在であり、学校では、なし崩し的に必要となったスマホを使うだけで、それだけの存在であり、彼にとってなくても問題のないものでもあった。そもそも、話す友達がいなかったから……、というのは無粋だろうが、今では、少しばかり必要性を感じていた。もちろん彼女と話すためだ。昨日はなんだかんだあって長々と話さなかったが、だいたい、夜の十時くらいから二時間か三時間くらいかけて電話で話す。さて、昨日晴れて本物となったが、その前から、今話したように電話で話している二人が本物じゃないと断言なんぞ第三者から見たら明らかにそうは言えない。体裁と大義名分で取り繕った彼の言い訳は晴れて昨日終わった。




 正直な話、彼は、彼女に今日からどんな顔をして会えばいいのか皆目見当がつけられていない。というよりも、今、自分がどんな顔をしているのかもわからない。鏡を見ても普通を装っているようにしか見えない。もしかしたら、鏡のないところでは口角が上がって、ニヤついてるかもしれない。それはそれでキモい。




 彼は、残り三十分をなんとかして潰そうと本棚から本を一冊引っ張り出したが、一ページ目の一行目で選んだ本を間違えたと思った。彼のお気に入りを引っ張り出したのはいいが、短編だから読めるなんていう浅すぎる理由から手に取ったお気に入りは、今の彼には重く感じるものだった。純愛も純愛。時を超えた純愛。時を超えて戻ってきていた女性のお話。それは、重い気がする。ならば、ここでは、その本の形をかたどって書いてみてもいい。




 彼の頭の中に、その本の一節がよぎっていた。


『一昨日はうさぎを見たわ。昨日は鹿、今日はあなた』


 この一節で賢明な読者はかの名作を頭の中に思い浮かべ、そのたんぽぽ色の少女のあどけない仕草を想像してしまうだろう。もし、それがよぎらなければ、それは、どこかで読んだ方がいい。心の癒される美しい短編だからだ。


「間違えたな……」




 ……この恋愛話は余計に彼女を意識させてしまう。どうしてだろうか、あったことのないたんぽぽ色の髪をした少女にどうしてか、彼女を重ねてしまう。多分、性格が似ているからだ。お喋りで、元気溌剌という言葉が似合っているから……。




 彼は、そう思うようにした。手に取った本をもう一度本棚に戻して、自称読書家の本棚をもう一度眺めた。


 ……こう見ると、恋愛物もかなり溜めてたんだ……


 彼は、本の中身を気にして買ったことはない。ただ、漠然と面白そうだから、手を伸ばして気づけばレジに持って行っていた。ある人は、本というのは出会ってその時に買おうと思ったら、その瞬間に買った方がいい、だそうだ。確かにそうだ。下手に買うのを伸ばせば、次がない。彼は、そうやって先延ばしにしてきた本を一体いくら見逃してきたことだろうか。その度に彼は、軽い後悔に苛まされた。まあ、病むほどではないし、気にする必要もない。いつかまた巡り会えるだろうなんていう楽観的態度を貫いて本を買ってきた。それなのに、彼は、今、猛烈に迷っている。いったいどの本を手に取って読もうか、と。




 ロシア文学を朝から読む気にはならない。動物の国家経営ものを読むのも悪くはないが、頭を使ってしまう。というよりも、某出版社の海外SFものを朝から読むのは疲れる。せめて、ホームズとか……、やはりそれも疲れる。ただ受動的に読める何か……。




 とかと、考えているうちに時間は過ぎていき、それに悩んでいる時間で十五分も潰れた。とうとう、彼は、本選びを諦めて、少し早いが、家を出ることに決めた。


 外に出ると、その瞬間から強烈に夏を意識し始めた。蝉の音はその勢いを増して一週間の、人間にとっては短い時間を謳歌する。しかし、蝉にとってこの一週間とは短いのだろうか? 懐疑論ではないが、蝉の短さに人間はどういうわけか風情を見出した。もののあわれ、という精神なのかは分からないが、短いから同情するのではそこに風情はないと思う。肝心なのは、蝉の死、とは、人間の知らぬ間にその音をやめ、地面に戻る。人間の目に見えて、知覚できない儚さにこそ風情があるのだと思う。散っていく桜に風情を感じるのではなく、散っていく中にまだ力を持つ桜に魅入られるように……。これは、視点の問題でしかない。どこに風情を感じるか、昔の人からすれば、大多数が感じる風情を凡庸だと表現し、共感者が少ないが、その少ない共感場所に共感できる人間を無常感を会得した人などと考えるのだろう。間違いだろうと思うが、彼にとって、無常観的視点は特別優れたものではない。常に、儚さを感じて、そこに美しさを見出せるからこそ、彼らしさがあるのかもしれない。




「ああ、夏か……」


 彼は、熱い空気を喉の奥に感じながら、エレベーターで下に降りてエントランスから外に出た。マンションの目の前に昨日と同じ車が止まっていた。中にいた男は外に出てきた彼を見るなり、車のエンジンを止めて車を降りた。


「鈴解様」


 執事の富岡は彼を呼び止めるが、彼は、知らないふりをした。朝から、関わりたくなかった。余計な面倒でしかない。




「清水 鈴解様!」


 その名前で呼ばれるのは嫌で仕方なかった。彼は、仕方なく、そして、キレ気味に反応した。


「富岡さん。僕は、篠崎です。あんな、クズの名前で呼ばないでください」


「それでも、あなた様の戸籍上のお名前は、清水でございます」


「それで? 僕に関係してるとでも?」


「はい。あなた様が、清水家次期当主であることには変わりません」


「僕は、その権利を放棄したはずですが?」


「美代様がそれをご承諾しておりません。それに法的にもその権利の放棄を宣言なさってません。それは、あなた様の思い込みでございます」


「でも、僕に、その気はない」


「その気はないかもしれませんが、それでも、あなた様を美代様の元へ連れていくのが私の使命でございます」


「重い言葉を使わなくても、こう言えばいいじゃないですか、力ずくで連れていく、と。まあ、もっとも、あなた方に僕の勉学の邪魔をする理由はない。そんな暇があるのなら、そっちにいる可愛くて、可愛くて仕方のない不貞の子の躾をしたらどうです? ああ、出来損ないでしたっけ?」




 彼は、憎らしくいう。


「あなた様に、今日は予定をお伝えに参りました。来週、日曜日、朝、十時にここで私は車を置かせてもらいます。それに乗っていただいて、清水家にお連れいたします」


「拒否したら? というよりも、来週は用事がある」


「あなた様にできた彼女とでしょうか?」


「調べたな?」


「僭越ながら」


 ……なるほどね、力ずくで、というのは、僕にとって大切な人を傷つけるということか。姑息な。これだから、クズの考えることは……




「それで? 彼女を使って脅すつもりですか?」


「必要とあらば。しかし、それは、あなた様も同じことをなさっているはずですが……、ご自身のことを棚に上げて、何を仰います」


「それとこれとやってる度合いが違う。あなた方のやろうとしていることはれっきとした犯罪だ」


「それは、お互い様です。あなたの家に支払われている額は普通の家庭の五倍です」


「あなたが仕えている清水 美代のせいで、父はああなった。それくらいの罰は必要では?」


「確かに、それは、こちらの落ち度でございます。ですが、それを理由にあなた様が、美代様にお会いにならないのは筋違いでは?」


 これ以上の逃れられそうになかった。水掛け論でしかない。




「分かった。来週の日曜だな」


「承諾ありがとうございます」


 執事は、その言質だけで十分だった。


 彼は、頭をかきむしった。天然パーマの入った彼の頭は、くるっと巻かれた。彼は、くるっと巻かれたパーマを伸ばしながら、冷めた目つきで富岡の車を見送った。


「これは、謝らないと……」


 彼は、独り言でつぶやいた。また、面倒なことが増えて、少し、イラついている。




「何を謝らないといけないの?」


 彼は、驚いた。後ろから、急に聞きたくて、聞きたくてたまらなかった声が飛んできた。


「うお! びっくりしたー」


 彼は、驚きのあまり、軽く飛び跳ねた。もしかしたら、嬉しさを隠したのかもしれない。


「おはよう、鈴解くん」


「おはようございます……、あ、おはよう」


「もう、どうして、敬語が抜けないのよ?」


「本当、なんでかなー。まあ、癖だね」


「もう。それで、何を謝らないといけないの?」


「ああ、来週の日曜日……、会えないと思う。土曜はちゃんといけるけど、ちょっと、すぐには行けないかもしれない……、ごめん」


「でも、来週じゃなくても、すぐに行けるんでしょ?」


「うん、多分……」


「行けるんでしょ?」


「はい。行けます」


「嘘ついたら、許さないからね」


 なんか、目に力がこもって、少し怖い目をしていた。でも、すぐにその目の色は変わった。


「それで? どうして?」


 彼は、言葉に詰まった。




 ……話せない。話せば傷つけてしまう。これには、関わらせない方がいい。関わればそれだけで地獄を見ることになる。そんなことはさせない。あいつら……、なんとかしなくちゃ……


「ごめん、それは、ちょっと言えない」


「彼女なのに?」


「うん。でも、安心して、やましい事は何もない。何もない。なんとかするから……」


 彼は、ある意味の決意を固めた。


「そう……」


 彼女の目には不安の色が広がっていた。少し前の彼女なら、無理くりにでもその中身を引き出していたに違いない。でも、彼女はそんなことをしなかった。引き際の良さに少し驚いてもいた。そして、目から不安を隠した。




「じゃあ、行こうか!」


 すぐに元気を取り戻した彼女は彼の腕にくっつく。


 ……ええい、動きづらい、可愛い、恥ずかしい……


 なんて、彼は、思っているに違いない。


「美涼……、すごく恥ずかしいのだけど……」


「気のせいじゃない?」


「え!? 恥ずかしさって、気のせいで済ませられるの!?」


「済まされないの!?」


 ……済まされると思ってたんすね……


「いいじゃん……、本物なんだし……」


 ……本物。




 その言葉に重みがあった。力があった。力のこもった本物はやっぱり本物になるのだろう。


「本物だけど……、すごく恥ずかしい……。せめて、手を繋ぐじゃダメ?」


 彼も彼女も二ヶ月もふりをしていたとは思えないくらいの初さを出していた。周りから見れば、付き合いたての初々しいカップルにしか見えない。もしかしたら、ただのバカップルかもしれないが……。ていうか、バカップルにしか見えない。




「じゃあ、手にする」


 腕組みをやめて彼女は彼の手を握った。大抵、彼女には車道と反対側を歩くようにしてもらっている。でも、これは、右側車線の時で、左車線の歩道にいるときは逆になっている。つまり、いつも、車道から一番遠いところに彼女がいた。もし、仮に車が突っ込んできても、彼女だけでも守ろうと、先に自分が死んでも、彼女だけは無事だ、と。今は、右側だから、彼女は右にいる。




 彼女はそっと彼の手を握った。どちらも緊張していた。学校に近づくにつれて心臓の鼓動がだんだん大きくなっていった。二人はそれを手伝いに感じ取っていた。


「緊張してるね」


「そっちこそ」




 恋人繋ぎを自然としている二人は、朝から熱々すぎる。くすくす笑う二人を登校中に目撃した人たちはその熱々さに当てられて目を逸らしていた。傍迷惑な奴らとも言える。これで、完膚なきまでに彼ら二人の存在が知れ渡った。それでも、ちょっかいをかけてくるような輩はまあ、彼らと同じ本物であることには間違いないだろうが、唯一の席はもう埋まっている。彼は、ズルをしている。ズルをした先に本物なるものを見つけた。ズルをしていた、と、書き換えるべきだろう。ズルの先に本物になれば、それはそれでいいのかもしれない。正規の戦い方をしてないかもしれないが、彼は勝った。それに変わりない。他の人たちはもう、戦う資格すらない。それを決定づける行動を二人は取っている。




「さあ、今日からまた行こうか」


 二人のうち、どちらかが、もしかしたらどっちもが声を合わせた。

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