第15話

15




 夏休みに入れば学校に行かなくていいなんて甘っちょろい考えをしていた彼は、白川先生から講座の存在を聞かされた時、彼は、思わず先生に、


「出なくてはいけませんか?」


 と、半分本気で聞いた。


 思いっきり睨まれた。そして、呆れ顔で、


「別に出なくてもいいけど、その分、君だけに特別課題を出してあげる」




 今年二十八になった女教師による職権乱用が飴なのか鞭なのかよくわからないなにかを与えられそうになった。


「出ます……」


 としか言いようが無かった。恐ろしい。


 彼女は彼女で講座に出ないようなことを言うと、


「いいのかなー? 私が誰かのものになっても?」


「ならないクセに」


 彼は意地悪く答えてやる。




「むむ……、確かに私は君にベタ惚れだけど……。ほら! 誰かと食べに行くとか嫌じゃない!?」


「宮上としかないだろ?」


「何? 私を君と同じぼっちだって言いたいの?」


「まーさーかー。そんなことないですよー」


「なんで、棒なのよ!」


 彼の言葉には一切の感情がのっていなかった。




「てっきり、あなたと僕は同じだと思ってたから。あなたが言ったことを忘れてないからね」


 彼女は顔を赤らめた。何を指して言ったのかを理解したからだ。二ヶ月前のあの日。全てが始まった日。彼女が彼に言った言葉。それを覚えていたからだ。


 そんなやりとりを行なったのが金曜日。時系列的には惚れた、腫れたのお話を形ばかりの解決を見た火曜日から実に三日後、彼がまた、自分の家と向き合わなくてはいけないことになった日の二日後である。その日が夏休み前最後の学校で、校長から特にありがたくもないお言葉と、担任である、白川先生からのこれまた、なんかありがたみも感じないお言葉を頂いてから、クラス内では、友達(笑)たちが、その後の予定なんかを立てていた。




 彼女は彼女で宮上と遊ぶ約束をしていたが、どちらかといえば、彼とデートの約束の方が多かった。彼としては、彼氏冥利につきるというかなんというか、という、気持ちの良いものだった。独り占めできているなんていう実感が湧いたからだ。


「明日だね」


「明日だな」


「楽しみだね」


「そうだな」


「なんか塩っぽいね」


「いつも通りじゃないか?」


 そう、いつも通り。




「確かに……」


「そういう君こそ、なんか、いつもよりあっさりと引くよね」


「どういうことよ?」


「いや……、いつもなら、もっとグイグイくるのにな……、と思って」


「じゃあ、行こか?」


 彼女はファイティングポーズをとった。




「何と戦うつもりなんだよ」


「この世の不条理と」


「厨二病!?」


「いえ、カフカ」


「その不条理か!」


「そう、カフカ的不条理。この世の不条理はすべて根絶してやる!」


「夢が大きいな……」


「夢はでっかくね。それとも何かな? 鈴解くんのお嫁さん、の方がかわいげある?」


「それは夢なのか?」


「夢じゃない。命令」


「女帝か」




 ……なんて不条理!


「いやなの?」


「いやー、いやって言うか何というか。ほら、そういう話はまだ学生の身分としては早いかなーと、思いまして」


「早くないよ。ほら、将来を誓い合ったもの同士、最後の戦いで、幸せに死ぬの」


「僕たち死ぬの!?」


「そうよ。最後は殺し合うの。そして、私が君の胸に一発ずきゅん」


 ……効果音かわいいな。




「そして、その死を嘆いた私が、自分の胸に君の顔を引き寄せて、こう言うの。『これでようやく二人きりだね』」


「おい、なんか、別のアニメが入ってきてるぞー」


「え? そんなスクール聞いたことないよ」


「めっちゃ意識してんじゃん」


 そして、腕を組んだ。胸の少し下で組む腕のせいで、その、豊満な胸が強調されてしまって、彼は目の送り場に困ってしまった。




「美涼……、お願いだから、そのポーズやめてくれない?」


 彼は少し苦々しい顔で頼んだ。


 彼女はよくわからなかったのか、今、自分がとっているポーズのまま、自分を見回した。下を向いた瞬間に彼女の目に飛び込んだ二つの山はその下に腕が入ることによって強調されていることがわかった。


 彼女は顔を真っ赤にして、すぐにポーズをやめた。次に、その手を後ろで組んでモジモジしていたが、それでもやはり強調されてしまう。




「わざと?」


「な!? な訳! ないよ! 何も考えずに……! そんなに見てたの? 変態!」


 彼女は顔を茹で蛸のように真っ赤にしながら、彼の顔を覗き込んだ。その距離数センチ。彼の目をまじまじと見る。彼は、最初は彼女の目を見返していたが、だんだん気恥ずかしくなったのか、二人ほぼ同時に目をそらした。




「見てたわけじゃないよ。見えるんだよ……」


「ふーん。そんなに胸が好きなの?」


 彼は、答えに困窮した。ここで、嫌いといえば、嘘になるし、好きだといえば、胸目当ての男に見えなくもない。


「……」


「ねえ? どうなの? 好きなの? 嫌いなの? 触りたいの?」


「なんかおかしな選択肢がある!」


「で?どうなの?」


「うぐ……、好きです……」


「巨乳派? 貧乳派?」


「そこまで食い込むんすか?」


「答えて」


……こんなところでは無駄にグイグイ来るんだよなー……


「巨乳派です……」


 ……なんか疲れてきた……


「変態」




 そして冷ややかな目を向けてくる。その割には、ガッツポーズを決める。


「なんで、可愛くガッツポーズしてるんですか」


「え? かわいい? 誰が? 誰が? ねぇねぇ、誰が?」


「さあ? 誰でしょう」


「答えて、答えて、答えて、答えて×8」


 彼女は彼の肩を揺さぶった。後々になって断りを入れるのが大変申し訳ないのだが、これは、夏休みが始まるために長ったらしい校長のくだらない話を書き終えた後、教室での白川先生のお話を聞いて、みんなが教室を出て行った後の教室での話だ。まだ、数人残っている。その中で、このバカップルぶりは本当に傍迷惑もいいところだ。




「さあ、帰ろう」


 彼は、カバンを持って立ち上がった。


「え? ああ、待ってよー」


 彼女も急いでカバンを持ち上げて彼の跡を追った。


 彼は、いじらしく、誰を? という質問に対して答えなかった。


 だから、何も言わず、たわいもない会話をして家に向かった。彼女の家にまで行くことはないが、その近くまで送ることが日課になっていた。




「美涼」


 彼女は、名前を呼ばれたことに疑問を持った。


「何?」


「可愛いよ」


 この後のことは言う必要がないだろうし、今までの書き方から、彼女がどんな顔をしたのかは容易に想像がつくだろう。


「も、もう、バカ。じゃあ、明日! 九時半、駅前ね!」


「了解。じゃあ、また明日。と言いながら、どうせ、電話で話すんだろうな」


「何? 嫌なの?」


「まさか。こんなに好きな人と毎日一緒に帰って、毎日電話で話せるなんて、幸せ以外のなんでもないよ」




 彼は嘘をついているわけではない。確かに幸せを感じている。でも、彼の周りが幸せだけではないことも真実である。


 彼は、彼女を送った後、家に急いで帰った。急いで身支度をして、父の病院へと向かった。


 そこでの出来事は話さないでおく。いつもと変わらない、と言うこともあるが、彼の唯一のプライベートを侵犯するつもりは毛頭ない。だから、あえてさらなる第三者の目から彼の姿を軽く見せる。




 看護師から見た彼は哀れと言いたくなるような背中だった。


 毎日健気に父のもとに足を運んでは返事のない会話を続けていた。今日あったこと、彼女と思しき人が言ったこと。これからあること。彼は悲痛な顔をしていた。家の事情。人を疲弊させるには十分すぎる理由。彼には重すぎる。たった十五、六が背負うには重すぎる。その彼女さんもまた、彼の重さに耐えられるのだろうか? 看護師は、無理だと思った。いや、確信した。彼の立場だろうが、彼女としての立場だろうが、無理、だと。愛は全てを解決できるなんていうが、それすら怪しく思えてきた。超えられない壁は愛の前では小さな壁と同じになる……、そんなことはあり得ない。愛があろうとも、それが、巨大な壁の前では役に立たなくなってしまう。それでも愛なら、愛ならなんとかなる、と、無条件に受け入れてしまう。愛が矛盾に満ちたものということを彼から受け取れてしまう。けど、認めたくないものだ。




 看護師は哲学を一人でにやっている気分になった。看護学を大学で納めたのはいいものの、昔から物事を難しく考えるきらいがあった。その癖が彼を見ていて、また、難しく考えてしまった。


 このくらいでいいだろうか? 彼は独り者寂しそうに家路に着いた。明後日には関わりたくもない、聞きたくもない連中との、不毛なお話し合いが始まる。




 彼は歩きながらスマホに耳を当てた。彼女の声を無性に聴きたくなったからだ。


 彼は、彼女と明日の打ち合わせを確認しながら、他愛もない会話を繰り広げた。彼女とのお話し合いの方がよっぽど建設的で健康的だ。


『ねえ、鈴解くん。何かあったの?』


 笑い話をしていたと思ったら、急に真面目な声で聞き出したから彼は焦った。


 あたかも思い出したかのように設定を書くが、彼は、大体のことは想像がつく。彼女のことを除いてだが。




「……何もないよ」


『嘘。舐めないでよ。私だって、君のそばで伊達に三ヶ月もいないからね! 君の声、態度、目のやり方。そんなんで君が嘘をついてるかぐらいわかるよ。うんうん。違う。君は私が見てないと思ってる時、何か深刻なことを考えてる。ねえ、話して、と、強要しても君は話さないかもしれない。だから、話して、とは言わない。君が話したいと思った時に話してくれたらいい。でも、ずっと嘘をついて、隠してると、私は、そんな君を嫌いになる。そんなの嫌だ。ねえ、私は、君が好きよ。大好き。どんなことになっても、私は、君が好き。だから、どんなことになっても、私を信じて。私を思い出して。そして……、私のもとに帰ってきて』




 彼は、胸に湧き上がる何か、言葉にできない、何かが湧き上がった。


「美涼……。今はまだ話せない。でも……、約束する。明後日から、僕は君に会えなくなる。いつまでかはわからない。でも、帰ってきたら、全部話す。それまで、待っていてくれるかい?」


 彼女は間髪入れずに答えた。


「……分かった。待ってあげる。約束して、何があっても私の元に返ってくるって」


 と。そして彼は、小さくうなずいた。


「分かった。約束だ。必ず帰るよ」


「ふふ、まるで、某有名ロボットアニメみたい」


「僕の知っている作品が多すぎてどれかは分からないけど、でも、そうだね。これから戦ってくるよ」




 その後のことはまた、話さない。だから、時間はもう土曜日になる。


 朝の九時半丁度に行くのは面白くないと思った彼は、余裕を持って十五分前に行くことにした。これなら、彼女を待たせることはないだろうと踏んだからだ。そう踏んだ上で、気持ち早めに行くと、あらまあ、なんということでしょう。彼女はもう来ていた。




 彼は、おもむろにスマホの時計を見た。約束の二十分前を刺していた


 彼は、頭をボリボリと掻きながら、やってしまった気がしてならなかった。しかし、同時に、自分は悪くないとも思えた。側から見たら、どうなのかはわからない。


 駅前で待っている彼女の背後を取るように少し大回りして背後に回った。彼女の服は白のワンピース。そして、白のハットをかぶっていた。髪がたんぽぽ色をしていたら、未来からの少女だと勘違いしてしまいそうだった。




「一昨日は兎を見たわ。昨日は鹿。今日はあなた。とかいったら、驚くかな? ああ、髪の毛をたんぽぽ色に染めたらよかった! でも、うん。絶対驚く」


 彼は、少し後ろめたそうに後ろから声をかけた。


「うん、驚いた」


「え!?」


 驚きを隠すことなく、ていうか、遠慮なく驚いて見せてくれた。彼女は驚きながらこっちを振り返ったから、彼女の服が、遠心力になびいた。白色のワンピースは華麗に舞った。




「え、え、え!? 早くない!? 半って言ったのに! え!?」


「いやー、人を待たせるのは得意じゃなくて」


「驚かしてやろうと思ったのに! もう!」


「なんで、怒るのさ」


「怒ってない!」


 彼は、少しホッとした。電話越しとはいえ、自分のやっていることに後ろめたさを感じていた。彼女も感じている。こんなタイミングでデートなんて組むべきではないだろうが、それでも、一時的にも忘れられたらそれでいい。




「いやー、なんでこう早く来るかなー」


 彼と一緒に駅のホームで談笑している。彼らがいる駅から四駅行くと街一番のデパートが見える。


「人を待たせるのが苦手で」


「ふふ、私も。人を待たせるくらいなら、自分が待った方がいい」


「僕もそうだ」


「でも、早くない? まあ、私より後に来たから、今日のお昼は奢りね!」


「んな理不尽な。そんなこと言わなくても出すつもりでした。ていうか、どんなことになろうとも僕が奢ることは確定してるんだね?」


「もち!」


「わかったよ」




 彼女はウンウンと首をうならしていた。


 彼女の後をついていく彼は、笑っていた。眩く笑っていた。嫌なことを全て忘れて笑っているのだろう。心の底から楽しんでいた。彼女の方もそうだった。制服以外で会うのはこれで二度目だが、それが逆に新鮮なのだろう。


「それで? 買い物に来たつもりなのにどうしてボーリングなんだ!?」


 彼はついつい空気に流されてしまった。




「え? 動きたくない?」


「え? どうしてしないの? みたいな顔で言わない!」


「さあ、私からね。早くボール持ってきて」


 彼は諦めモード全開で自分にあったボールを取ってきた。


「よっしゃ!」


 帰って来る前にすでに一投目を投げていた。ボールはまっすぐ、力強くピンをとらえた。


「あー、惜しい! 一ピン残った!」


 彼女はつかさず二投目を投げた。結果はスペア。




「よっしゃ! つぎ。早く!」


 ……あ、熱い。熱心すぎやしません!? ……


 彼は、促されるままに投げた。ピンの真ん中を捉えたボールは全てをなぎ倒した。


「え???????? なんで!????? 鈴解くんが!? マジで!?」


「なんでそんなに驚くのさ」


「いえ、まだまだ、これから」


 この後全てを書くのは面倒だから、結果だけ書く。三百対二百六十八。




「嘘……。なんで!? パーフェクト!? 君!? プロ!?」


「いや……。幼い頃、家族でよくやってて……。まあ、八年ぶりだけど……」


「そんなに!? それで、そのうまさ!?」


「でも、君もなかなかすごいよ。二百点を優に超えてる。すごいね」


「何嫌み? いいよいいよーだ、私は鈴解君には勝てないもーんだ」


 ぷくーっと風船のごとく頬を膨らますが、愛らしく見える。




 彼は、照れ臭くなったが、同時にセンチメンタルになった。揃うことのない二人が彼の心に痛みを与える。


「さ、さあ、昼を食べようや」


 彼は、ぱちっと切り替えて彼女を昼に誘った。


「そ、そうだね。私のお勧めのところでいい?」


「どうぞ。僕はこのあたりは知らないから」


「じゃあ、行こう!」


 ボーリング場を後にした二人は少しばかり腕に痛みを感じていた。それでも、彼女は彼の腕に腕を回しいた。




 イタリアン。無難なイタリアン。と、思ってしまった彼は、自分が無意識に頭を使って考えてしまったことにまた、悔いた。


 ここも、カットしよう。イタリアンだから、食べるものもなんとなく決まって来る。しかし、唯一書くべきなのは、彼の想像の斜め上を行く値段だったことだけだ。


「さあ、それでは、本日のメインイベント! 私の水着選びの時間がやってきたー!」


 彼は、これのためだけに頭を使った。昨日寝る前の少しの時間。どういう対応が最もなのかを考えた。まあ、答えは出なかった。




「メインだったんだ……」


「もちろん! これのためだけにきたと言っても過言ではない!」


「ボーリングしたじゃん!」


「あれは、ついでよ。私は、君に水着姿をこれ見逃しに見せたいの! 海では一つしか見せれないけど、ここなら、選択という名目で君にいろんなものを見せれるじゃん!」


 彼女の目はキラキラと光っていた。


「それが本音か……」


 彼は軽く頭を抱えた。


 彼女は明らかにウキウキしながら水着展に足を踏み入れて、水着を一気に数着選んだ。




「じゃあ、まず一着目!」


 気がついたら、すでに試着室に入っていた。


「さあ、どうだ!?」


 彼女は勢いよくカーテンを開けた。


 ここの試着室は外側からは見にくくなっている。Eマンガならなんだかんだありそうなシチュエーションではあるが、彼は、まだ、お縄につくつもりはない。


 ……黒、ビキニ。色っぽい! ……


 彼は、できる限り見とれないようにしていたが、ダメだった。




「鈴解くん……。そんなにまじまじと見ないで……。これでも、恥ずかしいんだから……」


 ……じゃあ、なんでそんなことしてんだ!? とは、言えないな。くそ! 可愛じゃねぇか! ……


 彼女の胸は黒で際立った。そこに彼の目は行ってしまう。


「感想」


「え?」


「感想!」


「……エロすぎ……」


「最低」


 ……ですよね! ……


「次!」


 ……早いな……


 勢いよく開けたカーテンから、猫耳メイドが立っていた。……猫耳メイド!?


 彼は絶句した。水着イベントのはずがコスプレになっている。




「ご主人しゃま、にゃんにゃん」


 ……だから、可愛んだろうが!僕をキュン死にさせるつもりか!? ……


「水着関係ないじゃん!」


「感想!」


「僕を殺す気か!?」


「意味分からん! 次!」


 ……こっちのセリフだ! ……


 すぐに開く。


 ……早くね? ……


 そして、スク水。自分の性癖がバレている気がしたが、誰にも話したことがないから、さしずめ持ってきたのだろうと思ったが、目が離せなかった。


「美涼……。男は獣だよ……」


 彼の理性はよく保っている。褒めてあげて欲しいくらいだ。


「……? どう?」


「その姿は僕だけに見せてくれよ。誰にも見せたくない。そして、僕の理性を保っているうちに早く着替えておくれ」




 彼は、意識が飛びそうだった。まるで、衝動をどういう原理かで押さえつけている獣のように。


 彼にとっては、ある種の拷問の時間だった。彼とて男だ。女性の水着、ましてや、スタイル抜群の彼女の水着姿など、大抵の男はテクニカルノックアウトでゴングが鳴る。彼は、理性という味方と本能という敵と、リングの上で激しい攻防戦を繰り広げていた。




「もう、ネタ切れ……」


 どうやら、十ラウンド、ドローの判定に持ち込んだ。


「で? どれを買うの?」


「うーん、もっとじっくり考える」


 彼の理性は泣き出した。


「そっか。じゃあ、帰ろうか」


「うん。あ! その前に夜ご飯食べない!?」


「いいね。じゃあ、行こう」




 理性対本能の夢のマッチは理性のギリギリ勝利となった。終わる頃には、彼の頃は、ヘビーパンチャーとのインファイトを終えたアウトボクサー並みにげっそりとしてた。


 夜は仲良く割り勘にした。結果的に水着は買わなかった。宮上と決めてくるらしい。彼は、自分の努力が徒労に終わったことに一番の疲れを感じた。しかし、その疲れは、ポジティブな疲れだった。好きな人と同じ時間を過ごした疲れはいい疲れだ、と思った。




 いつものところまで彼女を送り届けた時、彼は、軽く本能を優先した。


 彼は、別れ際に彼女の腰に手を回して、抱き寄せた。


「必ず帰ってくる。だから、待ってて……」


 彼は、彼女の耳元で囁いた。


「もちろんだよ」


 彼女はわかっていたのか、即答した。


 その答えを聞いた彼は、次に何かを発しようとした彼女の口を塞いだ。




「言葉は、これ以上紡ぐ必要はないよ。それじゃあ、行ってくる。美涼、好きだよ」


 彼は、彼女の顔を見て、笑顔を見せてから、百八十度体を回転させて家路に着いた。


 彼女は彼の背中を見つめていた。自分の好きな人の背中が、小さく見えたのは初めてだった。彼女はまだ何も知らない。少なくとも、彼が普通の状況ではないのは確かだ。でも、彼をそこまで追い込む状況が全く想像がつかなかった。




 彼は、空を見上げていた。


「今日も少しだけ星がある……。もう、あの頃には戻れないのか……」


 彼は、自分を嘲笑した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る