2-7 僕は、今、何を見た?
そんなこんなで疲れた一日が終わった。
けれど、大事なことがある。
校内全部を見た訳じゃないけれど、僕が見た限りで、他人の発言が書き換えられた様子はなかった様子はなかった。
僕は謀られたんじゃないのか。あの和良差さん(この名前を呼ぶのも忌ま忌ましい)達もどんな証拠をつかんでいたのだろう。子どものケンカに大人が出てくるがごとくに、子どもの噂に本物のオカルト筋の人たちが出てきただけなんじゃないのか。どうして僕はそんな話に巻き込まれたんだ……
次の日は、時間に余裕がある限り校内を回ることにした。なぜかって? わざと見ないようにして事件から遠い場所にいたくせに「何もありませんでした」と堂々と言うのは後ろめたかったからだ。
昼休みも瀧君と有沢さんに断って、まあ、二人の痴話げんかに今の僕が巻き込まれるのは気が重かったせいもあるけど、お弁当を急いでお腹に押し込むと、廊下を回り、上級生の教室の横を通り、体育館に出向き校庭にまで出てみた。
けれども、他人の発言が書き換えられた様子はなかった。
これも義務だ、と、放課後も学校に残っていろんな部活の練習を見て回って、結局証拠を見つけられなかった。
日も暮れて疲れた足を引きずりながら家へと帰る、その途中でコンビニの看板が見えた。
僕は子どもだからお酒を飲んだことはない。大人は「一杯やることの意味は、実際に飲まないと分からないよ」と言う。経験者がそう言うのをそんなものかと聞いていたけれど、今の僕も似た気分なのだろうか。
ただし買うのは缶コーヒーだけど。
なるべく苦いのがいい。ストレートコーヒーの缶をレジに持っていって、店員を睨みかけて心の中で謝って、コンビニから外に出たところでプルタブを開けてコーヒーをぐいっと飲みこむ。
苦い。何もかもが苦い。
僕はどうしてこんなことをしているんだ。どうして僕だったんだ。
つらさを分かち合おうにも「僕は他人に好きなことを言わせられるんです」なんて他人に言える訳がない。
苦い思いを苦いコーヒーと一緒に飲みこむ。
コンビニに女性が五歳ぐらいの女の子の手を引いて入っていく。
《ママ、ジュース買って!》
《ダメ!》
「ママ、ジュース買って!」
「ダメ!」
おねだりする子どもと叱る親の一幕が二倍になって見せつけ、いや、聞かせつけられた。
どうしてそういうところまで自分に降りかかってくるのか。
飲みこもうとしたら、もう缶は空だった。
三日目の水曜日がやってきた。
もう、やる気ゼロ。
このまま自分の殻に閉じこもって、何も見ない、何も聞かない。そして「何もありませんでしたよ。単なる噂じゃないんですか?」と言ってやるんだ。
机に肘をつき、あごを手に乗せ、ボケッと教室の中を見ている。
一限目が終わって休み時間に入った教室は平和だ。教室の隅では三人の女子が学校の男子だったら誰がタイプか会話している。他愛ない話が二倍になって聞こえてくるけど、世の中が平和なことが実感できるのはいいことだよ、多分。
そうそう、頭の上のトラックが赤く塗り替えられてね。
ハ?
僕は、今、何を見た?
「やっぱり今利君が良いかな。学校でカッコいい男子っていったら今利君しかいないよね」
女子の一人がそう言った。言い終えた瞬間、戸惑った表情を見せた。
さっきの発言、トラックでは最初は「分かんないって言われるかもしれないけど、大江君って男らしいと思うんだ」だった。大江君は柔道部の重量級。たしかに一般的に女子受けがいいわけではないが、男らしいのはたしかだ。
「ええ? あなたも今利君狙い? ありきたりだねえ」
「競争率高いよ。割って入る覚悟ある?」
二人が突っ込む。当人が困惑の表情を浮かべているのも、恋する少女の恥じらいと見られているだろう。
しかし十秒後の未来は違う。
《いや、そうじゃなくて、今利君はイケメンだけど、恋愛とかでは見てないんだって。というか、今利君と言おうとしたんじゃなくて》
そう言おうとした彼女のトラックが書き換えられる。
「今利君だったら、見てるだけでいいかな、とか、彼女になろうとかは思わないんだけど、やっぱり目がいっちゃうよね」
口はそう動いた。
彼女が手で口を押させる。
そこで口を押さえたことが、重大な秘密を口にした驚き、と受け取られた。
「そんなに好きなんだ。すごいね」
「好きなら止めないよ。好きなら」
向かい合う二人ははやし立てるモードに入ってしまった。
《そんなことないの。口が勝手に……》
その願いは、踏みにじられた。
《うん。好きなの》
トラックが赤く塗り替えられて、少女は嘘の恋の告白をさせられてようとしている。
僕に何ができる?
普通、そんなこと考えない。でも、僕には「何か」ができることを分かっていた。
彼女のトラックに想像の中で手を伸ばし、発言を再度上書きする。
《ちょっとたんま。そういうつもりじゃないの》
僕が書き換えた言葉が
「ちょっとたんま。そういうつもりじゃないの」
彼女の口から出た。
その瞬間、僕のみぞおちがずんと重くなった。周囲の空気が重くなり、肩に重荷が乗り、顔を上げているだけでもつらくなる。
この秘術、絶対なにかある。むやみに使うと自分に跳ね返る、なにかが。
二人がのぞき込むうちに、当人のトラックが再び書き換えられる。
《見てればいいって訳じゃなくて、本当は仲良くなりたいんだけどね》
僕がさっき言わせた発言と組み合わせれば、実はもっと恋に貪欲だという発言になる。
これを言わせないためにはどうしたらいいか、僕は考えることができなかった。ただ、彼女のトラックを無言で塗りつぶす。
僕の上にのしかかっているものがさらに重くなった。息も苦しくなる。空気を求めて肩で息をするけれど、その肩が動かない。
彼女は声が出なくなり、突然のことに怯えて、手をバタバタ上下させ、首を左右に振る。向かい合う二人がからかう。
《やっぱり好きなものは好きでしょ》
《今利君だったらいいなぁって思うんだ》
《恋ってこんな気持ちなのかな》
そのあとも次々とトラックは書き換えられる。僕はそれを全て無言で塗りつぶした。もう僕にはまわりに空気があるのかどうかも分からない。
そのときチャイムが鳴った。
ダウン寸前のボクサーがゴングに救われるように、僕は秘術を解いて天を仰いだ。教室だから天井しかなかったけれど。
助かった。ただし僕だけ。彼女はもう今利君のことが好きだと見なされて周囲にはやし立てられるのだろう。
でも、どうして今利君なんだ?
今利君なら何もしなくてもファンになる女の子が大勢いる。好きだという発言をねつ造しなくてもいいはずだ。
分からない。何もかも分からない。
「岸凪、どうした?」
屋村君が席から僕を見ていた。苦しげな様子が分かったのだろう。何が起きたのか打ち明ける訳にいかない。
「なんでもないから」
「屋村、岸凪、授業中だぞ」
屋村君と僕の会話は先生の注意でかき消された。
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