1-2 図書館は彼との場所

 瀧君のところに寄って遅れたのは、二十分ほどだったろうか。僕は図書館に着いた。

 図書館、というのは、高校の図書室ではない。

 市立図書館本館だ。それには事情がある。

 今日借りる本を選んで、窓際にある閲覧用机に足をのばす。学校の図書室のような大机はなく、二人で向かい合う机に、床から大きな背丈を超える高さまである大きな窓からの外光が射している。館内に西日が入らないように窓は北向き。冬にはすぐ光が入らなくなるが、五月の今はまだ明るい。

 その机の一つに屋村君は座っていた。机に肘をつきながらハードカバーの本の頁をめくる。

 どう声をかけよう? 用事があると言ったから、そのことに触れようか。

 考えてもいい案が出ず、ただ一言。

「どうも」

 屋村君は僕に気づくと一言。

「来たか」

 そう答えた。

 屋村君を認識したのはちょうど去年の五月頃だった。僕とは違う中学校から上がってきた生徒で、本好きで、友達がいなくて、たまに言葉を言うときは厳しい。そんな子がいることは聞いていた。僕が放課後の市立図書館に行くと、今日と同じように、屋村君は閲覧用机に座って文庫本を読んでいた。

 近づいた僕が

「やあ」

 と声をかけると、屋村君は一言。

「名乗らないのか?」

 僕はまごついてその場に立ち尽くした。数秒間を置いて、助け船を出したのは屋村君だった。

「お互い影が薄い人間なんだ。学校で見かけても、名前を言わなければ分からないだろう?」

「岸凪節と言います。き……」

 君は、と言いかけたところで屋村君が名乗った。

「僕は屋村喜一という。これからは知った者同士だ。よろしくな」

 そして屋村君は文庫本の本文に目を落とした。

 もういいのかと思ったから、僕は

「それじゃあ」

 と立ち去ろうとすると、屋村君は本に目を落としたまま言った。

「時間があるなら、しばらくここにいないか?」

 僕は「え?」と声が漏れたと思う。その声に気づいたのか、屋村君は何事もなさげに言ったのだった。

「図書館に来るぐらいだから、本が好きなのだろう? 本好きなら趣味が合うだろう。似た人間が側にいるのは嫌いじゃない」

 似ている、というのが意外だったけれども、そうだったのかと思うと悪い気はせず、向かい側の椅子に座った。それが僕たちが友達になったと言える瞬間だった。

 そのときも五月だったから窓から差し込む光がよく似ている。今日の窓からの光を見て、僕は出会った日のことを思い出したのだ。

 そして今日、プレイバックを見るかのように屋村君が一言。

「時間があるなら、しばらくここにいないか?」

 僕も過去を演じるかのように向かい側の椅子に座った。

 屋村君が読むのは文庫本。といっても健在な作家の新作や、ましてやラノベなどではない。もう亡くなっているような文豪の著作を集めた「あの」シリーズの文庫本だ。「あの」シリーズは高校の図書室にはそう揃っていない。借りて読もうとすると必然的に市立図書館に来ることになる。

 前に屋村君に聞いたことがある。

「古いのが好きなの?」

 屋村君は平らな感情のままで言った。

「ダメなものが嫌いなだけだ。物語の基本、文章の基本は、古典に出尽くしている。作家になりたいというか呼ばれたいという欲望は分かるが、その目的で薄めた劣化コピーを作られても、読まされる側はたまったものじゃない。オリジナルを読んだ方がよほどいい」

 この言葉は、僕に、とっても、痛かった。

 だから思わず聞いた。

「屋村君は書かないの?」

 やっぱり屋村君の感情は平らだった。

「劣化コピーを作る人間の一人になりたくない。読むだけで十分だ」

 その一言は、僕には飲みこみ難かったけれども、読者の都合を考えれば屋村君の意見はもっともで、僕は黙ったのだった。

 そんな風に僕たちの会話は短く沈黙が長い。だから、今日、次の言葉を聞いたときには耳を疑った。

「たまには岸凪が作った短歌を教えてくれよ。ちょっと興味が出た」

 え? いいの?

 屋村君が、今作られたものに興味があるの?

 僕が作っているものの趣味は普通の人には理解してもらえないけれど、本好きの屋村君なら分かってくれるかもしれない。ここは、打ち明けていいんじゃないか。

 僕は短歌を作るのを趣味にしている。

 高校入学時の自己紹介でうっかり口にして、みんなに散々に笑われたけれども。

 しかも僕の趣味は、昔の和歌ではなく、ここ数十年の現代短歌。

 僕が市立図書館に来るのは、市立図書館でないと現代短歌の歌集がないからだ。

 思春期に短歌を作ることを趣味にする子はそういない。だから周囲に話をできる子がいない。高校に短歌を作る専門の部活はなく、文芸部は小説好きのサークルだったから一ヶ月で退部して、個人で年上の人の同好会にお邪魔している身だ。そこでの評価は「それなり」。なかなかいいと言ってもらえず、どうやったらうまくなるのかまだ分かっていないけれども。

 でも自分で作ったものなら覚えている。頭の中で諳んじる。


  コンビニで塩せんべいを手に取ってみるのが僕の個性なんだな


 よし。打ち明けてみよう。

「じゃあ、最近作ったのを一つ言うよ。

 コンビニで新製品を手に取ってみるのが僕の個性なんだな」

 あれ? あれれ?

 なぜ僕はそこで間違えたのだろう。そこを間違えると凡作になるのに。

 僕の意に反して、聞いた屋村君は納得している。

「メーカーが盛んに宣伝している新製品を手に取って個性と言ってるようじゃあ、高が知れてるな。それを打ち明けて自分の卑小さをさらす。いいじゃないか、一種の自虐として」

「ごめん。間違えたんだ。そこは『新製品』じゃなくて『塩せんべい』なんだ」

 この違いは、短歌を作る人間にとっては大きい。弁解しないではいられない。

「たしかに『新製品』にすると大きな物語ができる。でも短歌は大きな物語を書かないんだよ。大きな物語にしてはいけないんだよ。昔の和歌と現代短歌は違うんだ。昔の和歌は美しいものを書いたけど、現代短歌はなんでもないものを書く。ある人は「しょうもないものを書く」と言っていた。ありふれたものどころか、しょうもないものほど面白い。そう思っている人たちが書くのが現代短歌なんだ」

 目の前で屋村君が、ハァ、とため息をついた。僕はまくし立てていたことに気づいた。居所がない気がする。

「岸凪、偉い人の言葉を信じるのはいい。しかし、その先生とやらは、お前の短歌を見て元の方が良いというのか? 偉い先生を演じた気になっているだけじゃないのか? 現実に他人が良いと認めたものを良いと認める方が独りよがりにならなくてすむ」

 屋村君の言う通りだった。僕の作風を高く評価する人はいない。反論する立場がない。

 屋村君は黙って文庫本に目を落とした。僕も下を向いた、情けなくなって。

 僕の短歌はただつまらないだけなのか。そう思うと英語の宿題をしているときも気が重かった。

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