3-3 できもしないことを言わないでください
市立図書館に向かう道で、僕と秡川さんは一言もしゃべらなかった。秡川さんは僕の左斜め後ろ一メートルのところを歩いていて、僕は秡川さんが逃げ出さないように何度も後ろを振り返った。
図書館に入り、いつも僕が座っている場所に行ってみると、向かい合わせで座る椅子がちょうど一つ空いていた。僕は無言で右手を椅子の方に伸ばし、秡川さんに座るよう促す。秡川さんは僕を睨みながら椅子に座り、通学鞄を胸元で抱え込んだ。
抱え込んだ鞄が僕との間に引いた一線。そう主張していた。
僕は対照的に通学鞄を床に置き椅子に座り、自分と秡川さんの間に何も置かなかった。
四十センチほどの小さな読書用机が大きな崖と峡谷に見える。僕たちには溝がある。
それでも話を切り出さなければいけない。
「秡川さんは、僕に向かって『あなたも』と言ったよね? 今日、僕が秡川さんにしたことと似たようなことをした人を、他に知っているんでしょ? その話、聞かせてくれませんか」
秡川さんはややうつむき上目で僕を睨んだ。
《言わないと、ダメですか?》
「言わないと、ダメですか?」
ようやく秡川さんの言葉を聞けた。壁を作る発言だったけれど。
ここで僕は秡川さんの心臓を言葉で押す。
「言わないと、どうなると思う?」
思う? と言っただけで、僕は何をするとも言っていない。脅しの常套手段だ。
秡川さんは大きな目をさらに見開いた。僕はあくまで営業スマイル。
《私が、言ってもいないことを言ったことにされたのは、中学三年生の時でした……》
脅しに負けた秡川さんが昔のことを語り始めた。通学鞄をぎゅっと抱きしめながら。
「私が、言ってもいないことを言ったことにされたのは、中学三年生の時でした。同じ中学校の神谷さんと桐川さんと鞠園さんが、私についてあることないこと、まるで事実のように周囲に話し始めたんです。
最初は、私が同級生のことを悪く言っていた、という内容でした。私は、話に上がった同級生に否定してまわりましたが、三人が揃って同じ事を言っているんです。一人で否定しても信じてもらえません。
それが次第にエスカレートして、あの……言いづらいんですけど……いやらしい内容を含むようになったんです。私が男子に色目を使ったというのは序の口で、『私が下着姿で迫れば男子は落ちる』と自慢げに言った、などの噂をまるで現場を見たかのように流したんです。
中学校で私は孤立しました。
他の地域の学校に移りたかったのですが、私の両親が許してくれず、噂を流した三人と同じ高校に入ることになりました。私の中学生時代を知っている人も大勢います。今から違うと言っても信じてもらえないでしょう。
人が言っていないことを言ったことにするのは、ひどい話です。
岸凪君もひどい人です」
秡川さんが抱えた通学鞄がかたかた震えていた。つかむ指に力が入っているのが見えた。
秡川さんの話は聞いている側もつらい。事もあろうに性的な噂とは。今の秡川さんのルックスはグラビアアイドルにも勝てる。中学生時代も発育途上とはいえ相当なものだったろう。自分の魅力を過信して周囲を見下す鼻持ちならない女という偽の設定を周囲に信じさせた訳か。ひどい陥れ方をしたものだ。
って、あれ? 中学生時代?
僕たち高校二年生だから、もう一年以上前だし、そもそも高校の話じゃないよね?
「秡川さんが噂を流されたのって、中学校での話?」
《そうです》
後から秡川さんの口が発した「そうです」が続いた。
「中学校じゃなくて、僕たちが通ってる高校で似た話はなかった?」
《高校に入ってから私が全く言葉を発していませんから、最初から何も言っていないはずだということになって、悪い噂を流せなかったようです》
これも秡川さんの口からの「高校に入ってから……」が続く。
もしかして、秡川さんが黙ってたのって、変なことを言ったと噂を流されないための無言キャラ設定? それ、どんだけ学校生活を犠牲にしたの! 友達を一人も作れないよね? 噂は流れないけど、味方もいないよね?
秡川さん、やることが大胆だ……
……話が脱線した。
僕に今必要なのは、高校に入ってから他人の発言を書き換える秘技を使う人を見つけることだ。せっかく話をできる立場にあるのだ。この特権をなんとか使わないと。
「僕が今日したようなことを、この高校でやっている人を、他に知ってる?」
《いいえ》
「じゃあ、お昼に、どうして僕を睨んだの?」
《先週の終わりに、教室で他の女子が、他人に勝手にしゃべらせる魔法があるという話をしていたんです。そのときは馬鹿馬鹿しいと思っていましたが、実際に私の口が勝手に動いたので事実だったと分かりました。そのとき、教室で一番様子がおかしかったのが岸凪君だったので、多分あなただろう、と》
「他の人のことを知ってた訳じゃないんだ……」
僕は思わず両手で顔を覆ってしまった。ああ、僕は何を期待していたんだろう。早く犯人を見つけようとして、女の子の過去の痛い話を暴露させてしまうなんて。
僕がうろたえている様子に秡川さんが気づいた。
《もしかして、岸凪君の勘違いのために、私は秘密をばらしたと言うことですか?》
これ、また来る。
「もしかして、岸凪君の勘違いのために、私は秘密をばらしたと言うことですか?」
そんなつもりじゃなかったんだ! ただ最近の噂を聞きたかっただけなんだ。
「ごめん。この埋め合わせはきっとするから!」
僕は顔の前で両手を合わせていた。
この瞬間、僕は魂を悪魔に売ったんだと思う。
埋め合わせの道筋は、今この瞬間に見えた。それを実行するには、魂を捨てなければいけない。
《埋め合わせって、できもしないことを言わないでください》
「なんとかするから」
《他人に思ってないことを言わせたり、脅したりする人間の言うことを、誰が信じるんですか?》
「そうだよね。でも待っていて欲しいんだ」
《岸凪君の言うことはもう聞けません》
「聞かなくていいから、冷ややかな目でいいから、そんなに悪く言うのは止めて」
そして秡川さんはしゃべらなくなった。いつもの無言キャラに戻ってしまった。
気まずい。女の子が怒るのはいつだって怖いけど、美少女に怒られるのは輪をかけて怖い。
無言で時が流れる。三十秒、一分。
これは僕の方から今日はおしまいだと話を切り出そうか。
「あの……」
そう言おうとしたとき、秡川さんの姿の後ろに屋村君が見えた。
そりゃそうだ。屋村君にとっては市立図書館は二つ目の自分の部屋のようなものだ。居て当然だよ。
もしかして、さっきの話、聞かれてた?
確認しないと。
僕は立ち上がって視線を秡川さんから先に居る屋村君に移した。
「屋村君、居たの? もしかして、僕たちの話を聞いてた?」
秡川さんが驚いて振り返った。同じ学級だ。屋村君の顔は覚えているだろう。自分の過去を聞かれたのは大変な困惑のはず。
しかし、だった。屋村君はきょとんとした様子だ。
《岸凪、秡川さんと話なんかしてたか?》
その後に「岸凪、秡川さんと話なんかしてたか?」と続いて、聞いてないよと念押しで言われているようでうれしかった。秡川さんも一定の安堵をしたようだった。
これは話を打ち消しておこう、僕から。
「いや、なんでもないんだ。」
《そうか。もしかしてデートだったか? 悪いところに割り込んだな》
「いや、そんな艶っぽい話じゃないから」
屋村君は「じゃあな」と手を振って僕たちに背を向けた。
ふうっ。助かった。
屋村君が居なくなって、この場には話ができなくなった僕と秡川さんが残された。
今日は、ここでおしまいだ。
「秡川さん、ごめんね。聞きたいことは聞けたから、本当に助かりました。今日は、終わりにしようか」
秡川さんは何も言わなかった。ただ、立ち上がり、出口に向かって歩き始める。僕は後ろ姿を見送るだけ。
そうだね。無言キャラを続けるんだね。
それはそれでつらいものだ。本当に勝手だけれど、僕は秡川さんの未来が気になった。
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