2-4 人にはトラックがある
《ある程度落ち着いたら事情を説明するから、それまでは静かにしててくれるかな?》
和良差さんのこの言葉も後から「ある程度落ち着いたら……」とエコーで聞こえた。
周囲に聞き耳を立てると、他の客の言葉も全てエコーで二回聞こえている。
というより、一回目の言葉の時は口の動きが言葉に合っていない。
実際に口でしゃべっているのは二回目に聞こえている言葉の方だ。
そして、どの人の上にも横長の長方形が浮いていて、言葉を口にしているときだけ長方形が赤く染まり、また右側から灰色に戻っていく。あの長方形、発言と関係があるのか?
これ、どうしよう。ここで何かを言えば、ある程度落ち着いたことを二人に示すことになる。今はそのタイミングだろうか。
数秒だけど考えていたのがすごく長い時間に思えた。結局、黙っていては事態が変わらないことを認めざるを得なかった。
「いったい何が起きてるんですか? 僕に何をしたんですか?」
《君には、他人が語る言葉が十秒早く聞こえている。他の人が聞いているのは実際に口から発せられた二回目の言葉だけだ。》
和良差さんのその言葉は僕の質問にほぼ被るように聞こえてきた。そして僕が話し終えた後、和良差さんの口が動き「君には、他人が……」と声が届いた。
「それって……」
和良差さんは再び口の前に人さし指を立てた。僕は黙らざるを得なかった。
《まずは状況を説明するから、黙って聞いている方がいい。君が他の人-僕も含めて-の上に見ているのは、その人の言葉の「トラック」だ。
岸凪君は、アイドルやロックバンドが楽曲を作成するときに使う編集ソフトの画面を見たことがあるかい? 各メンバの声や楽器の音が一つ一つ別に管理されていて、自由に切り貼り、つまりカットしたり差し替えたりできる。
今、岸凪君には他の人の発言のトラックが見えているんだ。
そして、それは自由に切り貼りできる。
後ろのカップルを見ていてご覧》
和良差さんはそう言うと、人を指差ししないよう五本指を揃えて、ファストフード店内で僕の後ろに座っているカップルを指し示した。
《で、この後どうするの?》
《明日早いからなあ。ルミの部屋に行くのはやめだな》
《何それ? いっつも仕事を理由にして切り上げるじゃない》
そこではカップルが他愛ない会話をしていた。
男性が
《俺にどうしろっていうの? 仕事しなかったら生活できないし》
としゃべった。いや、まだ口は動いておらず、トラックがだけが赤く染まっている。
そのトラックがより明るい赤に塗り替えられた。
《ごめんね。今度埋め合わせするからさぁ》
すると、さっきの「俺にどうしろって……」が口から発せられるべきタイミングで
「ごめんね。今度埋め合わせするからさぁ」
男性の口から塗り替えられた後の言葉が出た。
いったい何が起きたんだ?
一番驚いていたのは言葉を発した張本人だった。「いや、そうじゃなくて、もうちょっと分かってくれと」と弁明するが、いったん出た言葉は取り消せない。女性が「いったいどっちなの?」と詰め寄っている。
《今、僕はあの男性の発言を書き換えた。岸凪君にはトラックが見えていたし書き換えられる前後の発言も聞こえていたと思う。「自分が決めた言葉を他人に言わせる魔術」なるものが噂されているだろう? それは現にあるんだ》
その発言は長かったから、言葉の途中から和良差さんの口が動いて「今、僕は……」と言葉が出てきた。その発言に、感慨や悔悟はなかった。
この人は何を言っている? 何を考えている? 何をしている?
《君には許しがたいだろうね。いい目をしている。ぼんやりした子かと思ったけれど、どうしてどうして、厳しい目をするじゃないか》
和良差さんはそう言った。僕は思わず睨んでいたらしい。それに気づいて目を逸らす。
《君の目には僕が極悪人に写っているだろう。だけど、君は同じ穴の狢だ。僕はね、その秘技を君に授けたんだよ。今の君なら、できるはずだ》
僕は和良差さんを睨んだ。意図的に。和良差さんはおどける。
《ああ、こわいこわい。でも、できるようになったからには練習しないとね。あの二人、ちょっと険悪になってるね。君ならどう収める?》
「壊したのは和良差さんじゃないですか」
本当は強く言いたかったけれど、他の人に気づかれるのが怖くて、小声で言った。小声でも伝わるように身を乗り出して、和良差さんの顔の前でその顔をねめつけて。でも和良差さんは僕を子どものように扱う。
《そうは言うけど、事情は切羽詰まってるよ》
後ろの二人は険悪な会話を続けている。その中で男性が言った。
《女ってちょっとしたことでヒス起こすのな》
それはまずい。相手の人格を否定したら話がこじれるだけだ。
そのとき、どうしたら男性の発言のトラックを書き換えられるのか、今の僕には分かった。パソコンでマウスをドラッグさせるように、頭の中で手を伸ばして流れる棒を巻き戻して、キーボードで入力するように文字を書き込む。
《ごめんなさい。感情的になりすぎた。あなたもいったん落ち着いて》
その瞬間、自分の胃のあたりにドスンと重い物が入った気がした。まるでダンベルを飲みこんだような。そして両肩に米袋を載せたような圧迫感が加わった。
これ、絶対に「ヤバイ」何かだ。人間が扱ってはいけない代物だ。
男性の口からは予定通り
「ごめんなさい。感情的になりすぎた。あなたもいったん落ち着いて。」
女性はきょとんと
「あなた?」
と応えた。普段、男性は相手の女性を「あなた」と呼ばないらしい。ファストフード店で隣り合って数分の僕に、そこまでの背景事情は分からなかった。
《それが君の答えか。まぁ無難な線だね。うまい一言で解決しようとするとこじれるしね》
その言葉に気づいて正面を向くと和良差さんが満足げに僕を見ていた。
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