熊と女狐
三限目が終了したあとの休み時間――三十二名分のノートを持った浅井秀介が、二年生教室沿いの廊下を歩いていた。
本日の日直である彼、集めた英語の課題を職員室にまで届けている最中なのである。
ブレザーに身を包んだ巨漢に生徒たちが振り向く。
野武士のような鋭い目付き、刈り上げた短い髪、大きな顎。
着痩せしてもなお圧倒的な存在感を放つ筋肉は、どう考えても高校生には見えなかった。
まるで野生のグリズリーが学校に迷い込んだかのような異質感だ。廊下のあちこちで小声が立つのも仕方がないことだろう。
「おい見ろよ、浅井くんだ」
「聞いたか? すげえデカイ空手の大会、優勝したんだってよ」
「やっぱりあの身体はおかしいって。一体どんな筋トレしてんだよ? 百キロ超えてて、体脂肪率七パーセントって……病気だろ」
「ねえねえ。彼って不良なのかしら?」
「んー、どうかしらねぇ。わたし、一年の頃あの人と同じクラスだったけど、先生に逆らったり、ケンカとか、そういうのは全然なかったわよ? 基本的にそんなしゃべんないし、けっこう空気っていうか……オタク……?」
雑音の中を大熊がノソノソ進む。
両手で抱えた三十二冊のノートはクラスメイトからの大切な預かりものだ。万が一にもなくすことは許されない。
職員室は一階にある。二年生の教室は同じ校舎の二階。
ひそひそ話の廊下を通り抜けた秀介は、人のいない階段を一段ずつ下っていった。
踊り場にて、ちょうど一階から上ってきた美少女とすれ違おうとして――
「シっ――!!」
いきなり少女の手が霞んだ。
長い黒髪が窓から差し込む陽光にキラキラ舞い散った。
それは――腰の入った本気の右ストレート――真っ白な拳が、秀介の顎先を急襲したのである。
だが届かない。
――――
反射的に繰り出された秀介の横蹴りが、少女の腹に突き付けられたからだ。
秀介は蹴り抜かなかったが――大きな足が、身長差を埋めるために思いきり飛び込んだ少女の腹筋に突き刺さった。
「ぐうっ」
膝をつく少女。
そして。
「不意打ちとは物騒だな。今のパンチ、けっこう本気だったろ?」
悠然とそれを見下ろす秀介。
手にしたノートの角を整えながら、「しかし、俺がなにか殴られるようなことを? ええと……空野、真琴……だっけか?」少女の名前を口にした。
「へ……へえ。あなた、あたしの名前知ってたのね。てっきり、空手以外は興味のない朴念仁だと思ってたわ」
口に薄笑み、ひたいに脂汗を浮かべながら、ゆっくり立ち上がる空野真琴。
「そりゃあ、クラスは違っても、学校一の美人の名前ぐらいはな」
右手を腹に添えたその少女は、確かに秀介の言葉通り、驚くほど美しかった。
磨き抜かれた黒ダイヤを連想させる漆黒の長髪。
名工が全身全霊をかけて彫り上げた女神像にも負けず劣らずの目鼻立ち。
キスを誘うような透き通った桃色の唇。
白磁器の名品にも決して劣ることのない色艶を誇る、若々しい肌。
身長はおそらく身長百六十センチを少し超えるぐらいだろう。短めのスカートから伸びる脚は長く、それでいて色欲をそそるほどに健康的な肉付きをしていた。
少しだけ着崩したブレザー制服が愛らしい。
大きく息を吐いて、姿勢を伸ばした真琴。どうやらダメージが抜けてきたらしかった。
「ねえねえ、今のなんて技? すっごい痛かったんだけど」
「別に。ただの寸止めの横蹴りだ。痛かったんなら、それだけの勢いでお前が突っ込んできたってことだろう。自業自得ってやつだよ」
「はぁっ!? あれで当ててないの? 全然見えなかったわよ!?」
「知らんな。あの蹴りが見えるかどうか、それは俺じゃなくてお前さん個人の問題だ」
「……ふ、ふぅん……なるほどね。やっぱ、桁外れに強いんだ」
「おう?」
「いきなり殴りかかった理由よ。今朝ね、男子たちが、あなたが空手の大会で優勝したって話してるのを聞いたの。しかも全日本っていうし。だから、噂の空手家がどれだけ強いのか確かめたくなっちゃって」
「それでさっきみたいな真似を?」
「ええ。せっかく日本一の空手家がいるんだもの。そんな才能、体験してみない手はないでしょう? なんとなくだけど、手加減してくれるって気がしてたし」
「……やれやれ。むちゃくちゃだな」
「知らなかったの? あたしのコレって、けっこう有名だと思ってたんだけどな。あたしさ、すごい才能を見るのが好きなの。退屈な学校生活の、大切なアクセントって奴」
「……そうかよ」
そこで秀介が歩き出した。
階段を下りながら、「そうか。なら、もうやめてくれ。迷惑だ」広い背中だけを向けて真琴の好奇心を否定する。
四歩ほど出遅れて、真琴も踊り場を飛び降りた。
すぐさま秀介に追いつき、最高かつ最強の営業スマイルとともに秀介のブレザーの袖に指を伸ばしたのである。
「あっ、あのさっ。これからちょっと話せないかな?」
「もうすぐ休み時間終わるぞ。それに、職員室に行かなくちゃいけなくてな。日直当番なんだ」
「じゃあ、それ終わらせたあとでもいいから」
「阿呆が。四限目はどうするんだよ? 俺にサボれと?」
二人して階段を下りきった後――秀介は真琴を引きずりながら職員室を目指し、真琴はどれだけつれなくされようが秀介のブレザーを離さなかった。
「ねえ、ちょっとでいいのよ。ほんと、本当にほんのちょっと話すだけだからっ」
「悪いが、俺に四限目をサボってまでお前さんと話すことはないな」
「このあたしが頼んでるのよ? ちょっとぐらい乗ってくれたっていいじゃない。いいことがあるかもしれないし。ねっ? そう言われれば、ワクワクしてこない?」
「……いいこと、ね……具体的には?」
「ぐっ具体的? そ……そりゃあ……君に抱き付いてあげたり、とか……?」
「ははははっ――すまん。悪いが、今はそういうのに興味なくてな。お前さんの顔と身体が通用する男に話し相手になってもらうことをオススメするよ」
「あっ、浅井秀介ッ!! あなたじゃないと駄目なのよ」
「俺はお前よりも四限目の日本史の方がいい」
「……どうしてもダメなの?」
「どうしても駄目だな。なにが目論んでいるのかは知らんが、いいかげん諦めろ」
「嫌よ。諦められないわ」
「諦めろ」
「…………そう……残念ね…………」
そして、単なる懇願では埒があかないことを悟った真琴が最終手段に打って出た。
いきなり
「きゃあああああああああああああああああ――――!! 誰かぁッ、誰か来てぇえっ!!」
廊下に反響するほどの悲鳴を上げたのだ。
「なっ!? おっ、おい!」
秀介はほとんど反射的に右手を突き出して真琴の口を塞いだ。廊下の壁に彼女を押し付けて、「んんーーーっ。んーーっ!」その動きを封じる。
そして気付く――しまった、と。
学校一の美少女と学校一強い男がなにやらトラブルの模様。
それは注目されない方がおかしい光景で、周りを見回せば何人かの生徒がこちらに目を向けているではないか。
もう何をやっても駄目だ。真琴が『今のやり取りは戯れだった』と周囲にアピールしない限りあっという間に噂が広まるだろう。
浅井秀介が空野真琴を襲っていたという根も葉もない噂が。
だから。
震える右手、震える背中、震える表情でただただ真琴を見下ろした。
「こ、この……女狐か、お前……」
真琴は、秀介の左手からこぼれ落ちそうになった英語のノートを支えてくれており。
「あは♪ ごめんね。これ提出したら、屋上行こ」
その顔には女らしい媚笑が浮かんでいた。
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