貫徹者(ストライカー)

「がはっ――!!」

 踏み付けられる度に、痛みが走る。

「ッ……がっ――!!」

 地に押し付けられる度に、蒼い鎧に包まれた抜群のスタイルがきしみをあげる。


 灰色の岩畳と真っ青な大空に響き渡るのは。

「あっはははははははははははははははははははははははははは!! ひゃあああああははははははははははははははははははははは!!」

 下卑た笑い声だ。


 それは、正義の敗北というものを、世界中に知らしめているようであった。

 それは、光の女神が炎の悪鬼の前に力尽きた事実を、満天下に突き付けているようであった。


「……くぅ……っ」

 うつ伏せに倒れた真琴の姿は散々たるもの。

 ひたいから流れ落ちる血が、自慢の黒髪を濡らし。

「あ……ぐっ……」

 吐き出した血と思わずこぼれ落ちてしまった涙が、冷たい地面に染みをつくった。


「……ご、めん……ね」

 蒼天の嵐打ちアクトマライトは半壊状態で、ほとんど原型をとどめていない。

 天使の翼と見まごうほどに美しかった機械仕掛けの翼は粉々に砕かれており。

 翼を模した芸術的な兜が、無造作に岩の上に転がっている。


「――あうっ!」

 半分に割れてしまった胸当てからは、破れかけたインナーに包まれた左胸がこぼれ。


「あっはぁぁああ~~。すんごい鳴き声じゃんかぁ」


 手甲や脛当て――蒼天の嵐打ちアクトマライトを構成する美しき蒼鉄が、ひび割れにいていた。


 見るも無惨な敗北者の姿。

 両手両足に炎の杭を打ち込まれ――昆虫標本のような哀れな姿を晒していた。


 悦に入った表情のガリエルが、小躍りしながら炎の杭を叩いて回る。

 硬度を持った炎に骨をえぐられる度に、真琴の喉が痛みに鳴いた。


「響くなぁ、こいつの声。あっはははは! ボクってば、すっごい拾いものしちゃったかも」

 大兜グレートヘルムごしに真琴を見下ろし、彼女の綺麗な背中を思いきり踏み付けた。


「あ゛あ゛ッッ――」


 そして長い黒髪を掴むと、血の混ざったよだれで汚れた真琴の顔をむりやり持ち上げ。

「あっは♪ なにその反抗的な目? どう考えたって、もう終わりじゃん?」

 いまだに抵抗の意志を残す涙目を嘲笑った。


「光栄に思いなよ。お前は大切に飼い続けてあげるからさ。毎日新しい痛みを覚えさせてやるし。毎日ステキな屈辱を与えて、少しずつ、少しずつ心を壊していってやる」

「……こ……こ、の……外道が……」

「あはははははははははっ! 気の強い女は好物だよ。なんなら、もっと刃向かってくれてもいい。壊れた時のギャップって言うの?そういうの、めちゃくちゃ興奮する」

「……く、そ……ぅ」


 うめき声とともに真琴が視線をわずかに動かすと。

 ガリエルも笑い声を上げながら、それを追いかけた。


 二人の視線の先にいたのは、真琴から勝機を奪った子供であった。

 呆然と立ち尽くし、「……おねえちゃん……」と今にも泣き出してしまいそうな顔。


 ガリエルが子供を指差しながら、腹を抱えた。

「かっわいそうにねぇ! 母親を人質に取ったら、ボクの言うとおりにしてくれたよ!」

「……ご、ごめんなさい……おねえちゃん……」

「どうだったよ? ステキな罠だったろう? そこらへんにいたガキを引っ捕まえて、こう言ってやったんだ。ボクに召喚されたら、槍を持った装着者に体当たりしろ……じゃないとお前のママを殺してやる――ってね。あっはははははははは! 蒼天の嵐打ちアクトマライトの全速力に飛びかかるのは、度胸がっただろうに! 乳くせぇガキのくせに、とんだ勇者様だったよ!」

「ごめんなさい、おねえちゃん……!!」

「てめえの母親なんざとっくに消し炭だっつーの!! クソみたいな茶番だよ!!」

「わあああああああああああああああああああああああああん!! ごめんなさぁあああああああああああああああああああああい!!」


 許しがたきガリエルの言葉の群れ。そして暴虐。

 弱り切っていた真琴でさえも、いきなり沸点を超えた。


「――へえッ!? まだ動くんだ!?」


 半壊の蒼天の嵐打ちアクトマライトから雷光を放ちながら。

「このぉ……っ!! 外道がぁぁああああ――!!」

 むりやり立ち上がろうとする。両手両足に炎の杭を残したままだ。


「がッッ――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」


 岩の地面から炎の杭を引き抜かんとした瞬間。

「――え?」

 真琴の左肩を衝撃が襲った。


 ガリエルが戦鎚を落としたのである。


 蒼天の嵐打ちアクトマライトの物理障壁をも砕いた巨大な鉄塊によって、真琴の左肩と鎖骨は粉砕され――支えの一つを失った女神の身体は、それだけでたやすく崩れ落ちてしまった。


 左肩から全身を貫いた激痛。


 真琴が声にならない悲鳴をあげた。

 痛みに転げ回りたいのに、四肢を固定されているためにまったく動けない。

 全身の筋肉と関節を痙攣けいれんさせてやるだけで精一杯だった。


 やがて、激痛による呼吸困難にも耐えねばならなくなる。

 ショック死できなかったことを後悔してしまうほどの激痛――人生最大の痛みに、呼吸の方法さえ忘れてしまった。


「あははははははっ! かわいいかわいい! こうなると、マジで羽をむしられた蝶だよね!もう人間じゃない!」


 しかし今は痛みなどどうでもよくて、真琴は、なによりも空気を求めた。

「……か……ヒッ――」

 なんとか呼吸できないかと、むりやり喉を鳴らしてあえぐ。


「い、ぎ――」


 まるで陸に揚げられた魚のようにパクパクと口を動かし、大量の涎を地面に落とした。

 しかし……そのうちに。

「――はぁっ……あ、はっ……」

 わずかな空気が肺に入ってきてくれた。


「…………はぁ…………はぁ…………はぁ…………」


 たったそれだけで一気に楽になる身体。


「――あぐ――――ぅうっ」

 だが、地獄はいまだ終わらず、今度は、発狂してしまいそうなほどの苦痛に耐える番。

 身体の震えは一向に収まる気配を見せない。


「くぅぅう――」

 脆弱な肉体で、ひたすら耐え続けるしかなかった。

 少しでも痛みを抑えるために、唇を噛み締めるしかなかった。


 やがて。

「……ち…………ち、くしょ……う…………」

 ほんのわずかだが痛みに馴れ始めたと思うことができた――その瞬間。


「――っ!?」

 今にも崩壊してしまいそうな女神の身体を、新たな痛みが襲った。

 粉砕骨折特有の全身に響き渡る激痛とは違う、体内を切れ味の悪い刃物でむりやり切り刻まれるような激しいうずき。


 見れば――脇腹を炎の槍に刺し貫かれている。


「ほらぁ。ボクって優しいだろ? せっかくだから、サービスしておいてあげたよぉ」


 急所は外されているらしいが、真琴の生命を支えている内臓が直火焼きにされていた。


 妙にはっきりとした意識で、なにをされたのかを理解した直後。


「あっ――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――」


 真琴の喉が濁った悲鳴があげていた。

 光の女神、その断末魔。


 それが鳴り止んだ時――真琴は。

「……あはぁ……は、ぅあ……」

 大地に倒れ伏したまま、綺麗な顔から涙とよだれを垂れ流すだけの存在にまで成り下がっていた。


 はたして――

 はたして運命を司る神は、どうして空野真琴にこれほどの試練を与えるのだろう。


「あ、あ……あが……っ」


 どうして善良なる少女にこれほどの痛みを与えるのだろう。


「あ、あた――し、死……んじゃ――」


 どうしてただの女子高生などにこれほどの絶望を――


 邪悪そのものとさえ呼べるガリエルが再び真琴の髪を引っ掴み。

「なーにいつまでも震えてんのさあ?」

 大兜グレートヘルムに隠された満面の笑みを哀れな泣き顔に近づけた。


「これぐらいで心折れたりしないよね? ね? ね?」


 勝てるわけがない。

 こんなのに勝てるわけが……。


 いくら女神として成長を果たしたとはいえ……空野真琴は、つい二ヶ月前まで、ただの女子高生だったのだ。両親や友人、そして学校、様々なものに守られていた少女だったのだ。


 だというのに、あまりにも苛烈すぎる運命、屈辱、そして数々の痛み――

 これまでの戦いを気丈に耐え続けてきた真琴の精神は、すでに限界を迎えていた。


 決して許せるはずがなかった敵に向かって。

「……も……ゆる――」

 決して口にしてはならぬ懇願の言葉を漏らしかけてしまう。


 しかし、だ。


 ――――――――ズチャリ――――――――――――――――


 しかし、岩畳の上を駆け抜けた疾風。


 ――――――――ズチャリ――――――――――――――――


 その中に聞こえた裸足の足音に唇を止めた。


 まず――しゃくり泣きながら、真琴が辱められるのを見ていることしかできなかった子供の視線が動き。


 次いで――真琴の心を砕いたことで、精神的絶頂を迎えようとしていたガリエルの首が回り。


 最後に――絶望に敗北し、おの矜恃プライドさえもすべて捨て去ろうとしていた空野真琴が、その者の名を呟いた。


「………………浅井………………くん………………?」


 その男は、遠くから歩んできていた。


 その男は、荒野に乱反射する光輝こうきの中をゆっくりと歩んできていた。


 その男は、敗残兵のごとき傷ついた肉体を晒しながら、まっすぐ歩んできていた。


「………………浅井………………秀介……………………」


 その男は――――浅井秀介。


 真琴の髪を掴んでいたガリエルが、笑うのを止めて、すっくと立ち上がる。

 真琴は、秀介の出現に、「……浅井くぅ、ん…………」と、今にも泣きそうな声を漏らした。


 異様な光景であった。

 戦場の空気が変わったことは明らかなのに、それ以上誰一人動こうとしない。

 動き続けていたのは、吹き荒ぶ荒野の風。そして、その中をまっすぐに進んでくる空手家だけだ。


 空野真琴、ガリエル、名も知らぬ子供。

 三者の注目を一身に受けながらも、秀介は一切歩みを乱さなかった。


 殺気なく。


 思いなく。


 不自然なく。


 その歩き姿は、まるで、この地を通りすがっただけの旅人のようにも見えた。


 あまりにも人間らしい歩みであったためだろう。

 本来、秀介を真っ先に警戒すべきガリエルが、一番呆けた格好を晒していた。

 直立二足歩行とはかくあるべき――そんな見事な歩き方に、思わず見惚れていたのである。


 そして。

「………………………………おう………………………………」

 空手家・浅井秀介の静かなる到着。


 赤銅色のプレートアーマーと身長一九〇センチの傷だらけが、真っ向から向かい合った。

 改めて意識すれば――二人の間には、わずか一メートルの距離しか存在していない。


 間違いなく空手の距離であった。


 人間離れした眼光にジロリと見下ろされた瞬間。

「き、きさま――ッッ!!」

 我に返ったガリエルが戦鎚を振りかざすが――もう、なにをしても、なにもかもが遅すぎる。


「死ね」


 死神の死刑宣告とともに、浅井秀介の第一撃が放たれた。


 正拳中段突き。


 空手家の全身全霊が空気をぶち抜き――

 自動発現した林檎樹の守りリカンオリアの物理障壁さえもぶち抜いて――

 赤銅色に拳の跡を刻み込んだ。


 ぶ厚いプレートアーマーを拳状に凹ませる衝撃力には、鎧内部のガリエルさえも悶絶。

「おま――なんでっ――にんげ、が、アイギスを――」

 大兜グレートヘルムの隙間から胃液を飛ばしながら、そうわめこうとする。


 だが無理だ。


 浅井秀介の第二撃――左のかぎきに、「うごぉうッ!?」それ以上言葉が続かなかった。


 今度は、林檎樹の守り手リカンオリアの物理障壁が発動した気配さえない。

 プレートアーマーごしに肝臓を叩かれたガリエルは、自身のアイギスの異常に驚愕し、よろよろと退がりながら上擦った叫びをあげた。


「起きろリカンオリア!! なに気絶してんだ――ぶっ――」


 しかし、その言葉さえも、大兜グレートヘルムめがけて飛んできた上段突きに遮られてしまう。


 間髪入れず。

「げぇええッ!?」

 壮絶な中段回し蹴りで、胴体をへし折られた。


 これまでに四撃。

 その一撃一撃がどれほどのものであったかは、林檎樹の守り手リカンオリアの凹み方を見ればよくわかる。


 そんなおそるべき四撃を皮切りに、連撃が――


オオオオオオオオオオオオオオオあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」


 不死身の悪魔さえも殺しきる空手家の猛撃が始まった。


 地獄の釜が、その蓋を開けた。


 中段猿えん――――――――――――――――

上段裏拳――――――――――――――

 中段正拳逆突き――――――――――

 上段刻きざき――――――――――

 中段回し蹴り――――――――

 上段飛び膝蹴り――――――

 左足踏み砕き――――――

 左正拳鉤突き――――

 上段掌底打ち――

 中段後ろ蹴り

 上段裏拳後ろ回し打ち 中段追い突き

 右正拳鉤突き 左正拳鉤突き 上段縦肘打ち

 中段抱え込み膝蹴り 中段猿えん 上段鉄槌てっつい打ち 正拳下突き 上段裏拳回し打ち 中段回転膝蹴り 手刀顔面打ち 中段正拳逆突き 中段前蹴り 上段横蹴り 上段飛び込み突き 中段正拳逆突き 中段追い突き 中段引き寄せ肘打ち 鉄槌アバラ打ち 上段掌底回し打ち 左正拳鉤突き 上段回転膝蹴り 正拳下突き 左足踏み砕き 中段正拳逆突き 上段回し蹴り 上段後ろ回し蹴り 中段三日月蹴り 中段横蹴り 上段飛び膝蹴り 脳天肘落とし 中段肘打ち 左正拳鉤突き 上段肘打ち 下段回し蹴り 山突き 中段膝蹴り 両鉄槌アバラ打ち 中段正拳逆突き 上段踵かかとり 中段後ろ蹴り 飛び込み関節蹴り 鉄槌てっつい鎖骨割り 上段回し打ち 中段裏打ち 中段裏拳回し打ち 顔面縦手刀打ち 正拳下突き 下段回し蹴り 中段正拳突き 金的蹴上げ 上段膝蹴り 上段正拳突き 下段前蹴り 中段挟み突き 中段猿えん 上段縦肘打ち 中段回し蹴り 中段裏拳回し打ち 中段追い突き 中段回し蹴り 合わせ突き 中段前蹴り 飛び蹴上げ 飛び中段横蹴り 上段引き寄せ肘打ち 上段縦肘打ち 上段挟み突き 中段膝蹴り 正拳三連突き 下段回し蹴り 中段回し蹴り 中段正拳逆突き 鉄槌てっつい顔面打ち 手刀顔面打ち 上段内回し蹴り 右正拳鉤かぎき 左正拳鉤かぎき 中段猿えん 上段縦肘打ち 正拳金的突き 中段掌底打ち 上段回し蹴り 中段正拳逆突き かかと落とし鎖骨割り 中段追い突き 中段前蹴り 上段飛び膝蹴り――――――――――


 鳴り響く鈍い音。

 幾重にも重なり合う打撃音のオーケストラ。


 ひたすらに赤銅色の鉄板を叩き続け、一切反撃の隙を与えない。


 とにかくすべてが速すぎた。

 たいさばきも。

 運足も。

 突き手も。

 蹴り足も。

 なにもかも、すべてが、人智を超えていた。

 すべてが、あらゆる打撃格闘家ストライカーの想像を凌駕していた


 ガリエルが後ろに倒れようとするならば、背後に回り込んで、さらなる攻撃を加える。


 ガリエルが横に倒れようとするならば、側面に先回りして、さらなる攻撃を加える。


 ガリエルがその場に膝をつこうとするならば、縦肘打ちか膝蹴り、金的でむりやり身体を持ち上げる。


 結果として、ガリエルは倒れるさえできずに。

「お……お、きろ……リカン……起き、て――」

 棒立ちのまま、おびただしい数の一撃必殺に命を削られることとなった。


「た……助けて、よ。リカン……オリア……」


 鎧を貫通してくる秀介の打撃になにもできず、沈黙した神なる鎧アイギスの復活を願うしかなかった。


 だが。


 その頼みの綱リカンオリアは、たった今、秀介の拳足によって無残な鉄屑てつくずに変えられようとしている。

 たかが一人の人間の素手と素足によって――


「……起、きて……よ――」


 それは、この世界に生きる誰も想像したことのない異常事態だった。


 神炎を司る赤銅色の大鎧――林檎樹の守り手リカンオリア

 第二神性開放詠唱アルゴメディアンさえも使いこなす、正真正銘の戦神アイギス

 巨人の斧を打ち直した刃はもちろん。

 竜の牙を磨いた刃でさえ、この鎧に傷一つ付けられなかった。


 だと言うのに――秀介の拳だけが、物理障壁をたやすく粉砕し、赤銅色に一撃を叩き込んだ。


 さらには――たった一撃で、林檎樹の守り手リカンオリアの意識まで持っていった


 これが異常でなく、なにが異常か。

 能力ちからと意志を手に入れて神となった鎧……通常の武器では傷つけることさえ不可能だ。

 ましてや、破壊することなど……武器の神アイギスでなければ到底……。


 アイギスを殺せるのはアイギスだけ。

 それこそが、この世界の常識であり、真実であったはずだ。


 しかし。


 しかし、である。


 一〇余年もの狂気じみた稽古の末に辿り着いた浅井秀介の空手は、そんなくだらない常識の外に存在していた。

 異世界の真実など、鼻で笑って、すべて無視していた。


 悪夢の中に見つけた希望をここまで信じ抜いた、その強き意志。


 想像を絶する修行と苦行の毎日によってつちかわれた、その強き心。


「なんでもいいから助けろよ!! 林檎樹の守り手リカンオリアああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 林檎樹の守り手リカンオリアの神性を消し飛ばした怪物の正体は、浅井秀介の五体に刻み込まれた膨大な強き思いであった。


 アイギスを神たらしめている一個の人格が、空手家の狂気にあてられて瓦解していく。

 アイギスを神たらしめているのが一個の人格だからこそ――それを歪めてしまうほどの妄執が、唯一無二の毒となる。


 妄信的な拳――それは、神を殺す悪魔の爪。


 狂信的な足――それは、神をも喰いちぎる魔獣の牙。


 猛り荒ぶる魂――その猛毒の前では、神力なんぞ無力に過ぎなかった。


 正拳上段突き

 中段回し蹴り

 上段肘打ち

 右正拳鉤突き

 中段五寸打ち

 抱え込み上段膝蹴り

 上段下突き

 右正拳鉤突き

 三日月蹴り

 金的膝蹴り


 もはやただのプレートアーマーと化した林檎樹の守り手リカンオリアを叩き続ける浅井秀介。

 その度に林檎樹の守り手リカンオリアが大きく形を変えていった。

 秀介の拳、蹴りの形に合わせて、だ。


 もはや鎧と形容するよりも、鉄屑といった方がふさわしい姿であった。


 そして林檎樹の守り手リカンオリアが鎧としての最期を迎えようとしている現在――それと合わせて、ガリエルの命も尽きようとしていた。


「……だ……誰か……助け…………」


 打撃の衝撃力だけではない。

 ――圧死。

 秀介に殴られる度に少しずつ小さくなっていく林檎樹の守り手リカンオリアにも、ガリエルは殺されようとしていたのである。


 グシャグシャに潰れた鎧の内部がどんなことになっているのかはわからなかったが……いつの間にか、赤銅色のプレートの隙間から血が漏れ始めていた。


 ゴウ


 その時――真っ赤な炎。


 殴られすぎて逆に気が付いたのか、それとも、戦神としての最後の意地か。

 兎にも角にも、林檎樹の守り手リカンオリアの全身から炎が巻き上がった。


 空気を燃やすほどの圧倒的熱量。

 あっという間に世界が橙色に染まる。


「よくやったリガぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああン!!」


 林檎樹の守り手リカンオリアが息を吹き返したことにガリエルは大歓喜。戦鎚を思いっきり振り上げて、憎き秀介を叩き潰そうと――


ゼイっ!!」

 しかし、渾身の横蹴り。

 炎の塊と化した林檎樹の守り手リカンオリアにさえ、秀介は迷うことなく蹴りを叩き込んだ。


 狙ったのは、戦鎚を掲げた右手――その手首だ。

 天に伸びたガリエルの右手がさらに浮き上がり。

「なぁ――――ッッ!?」

 手首、右肘、右肩から嫌な音が聞こえた。


 足刀が直撃した手首は粉砕骨折。勢いよく跳ね上がった右手につられるように、右肘と右肩が完全脱臼したのである。

 戦鎚がすっぽ抜け、宙を舞ったのが見えた。


 しかし林檎樹の守り手リカンオリアはいまだに炎の塊。脅威であることには変わりない。


「なんなんだよ、お前はぁあああああああああああああああああ!!」


 炎を撒き散らしながら殴りかかってきたガリエルの左手を。

フンっ!!」

 内受けで砕くと。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!!」

 そこから先の秀介は、鬼神そのものであった。


 正拳だけのシンプルな猛連撃ラッシュ


 だが止まらない。


 轟々と燃え盛る炎に拳を撃ち込んでいるのに、一切止まらない。

 おのが両拳が炎にまみれても、まったく止まらない。 

 打撃の回転力にまかせて、縦横無尽に拳をぶち込んだ。


 ――荒野を走るほのおの拳――


 それは、炎の悪神さえも焼き尽くす、地獄の業火のようだった。


 それは、悪徳のすべてを喰い荒らす迦楼羅カルラえんを振るっているかのようだった。


 もしも――


 もしも、神なる鎧アイギスなどではなく、本物の戦神がこの世界にいるというのならば、それは浅井秀介のような戦い方をするのだろう。


 言葉にできぬほど容赦がなく――


 形容しがたいほどに壮絶で――


 そして、荒野の風すらも足を止めて見惚れるような戦いを――


「シ――ィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイッ!!」

 強烈な下段回し蹴り。

 ふらついていたガリエルの両脚を刈り取った。


 ガランガランと派手な音を立てながら倒れたガリエルに対して、すかさずかかとを落とす。


「――――――――――――――――――――――――――――!!」


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 何度も。 


 何度も何度も、燃え盛る林檎樹の守り手リカンオリアを踏み付けた。

 狂ったようなかかとりの嵐に……やがて、林檎樹の守り手リカンオリアの炎が小さくなっていく。

 重なったプレートの隙間からこぼれる血の量が増していた。


 戦闘不能は明らかであったが……しかしまだ、橙色の炎が完全に鎮火したわけではない。


「………………」

 秀介はガリエルの指先がプルプルと震えているのを確認し。

「ふん……こっちの方がお好みか……」

 原型を留めぬほどに凹んだ鉄屑を、ゆっくりとまたいだ。


 両足の中央にガリエルを置いたまま腰を落とすと。

「……っ」

 拳を引き絞る。


 そして――凄まじき下段突き。


 まるでかわらでも割るかのように、ガリエルの胸骨を砕き割った。

 林檎樹の守り手リカンオリアとガリエルを貫通した衝撃力は、下の地面まで伝わり、岩畳に彼らを埋め込んだ。


 さらにもう一撃。


 もう一撃。


 もう一撃。


 もう一撃。


 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃。

 もう一撃――――――――――――――


 下段突きの数が増えていく度に、ガリエルと林檎樹の守り手リカンオリアの身体が、少しずつ地面に沈み込んでいく。


 広い青空に、幾度となく激音が響き渡り。

 やがて……ガリエルたちの身体が、厚さ半分ほど地面にめり込んだ時――


「…………………………………………………………………………っ」


 秀介がようやく下段突きの姿勢を解いた。


 拳を下ろし、腰を持ち上げる。


 ズチャリ


 炎を失い、完全に動かなくなった悪鬼の顔面を踏み付けながら歩き出した。


 三歩ほど進んだところで、静かに振り返り。

「…………おう…………これで、終わりか………………」

 完璧な鉄屑と化した林檎樹の守り手リカンオリア、そして地面に広がった赤黒い水溜まりに、薄い苦笑を向けた。


 次いで、神殺しの鉄拳に視線を落とせば……一時炎を纏った拳は、骨の髄まで焼けただれており、目も当てられない状態。


「……やれやれ……」


 秀介はこれにも苦笑をつくり、地に伏せたまま呆然とこっちを見ている真琴を見やった。疲れ切った穏やかな瞳で、だ。


 林檎樹の守り手リカンオリアが死んだことで、真琴を突き刺していた炎の杭と槍は、すでに消え失せている。


 そして、吹き抜けた荒野の風。


 冷たい突風に顔を持ち上げると……秀介は、上空を流れていく白雲の行方を眺めながら、ぼんやりと言葉を紡いだ。


「……やれやれ……少し、疲れたよ……」


 戦いの終局を告げる静寂。

 そんな中を、空手家は立ち続けた。

 闘争の余韻を全身で噛み締めるように、ただただ、その場に立ち続けた。


 ――風は、いつまでも吹き止まない。

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