語らう兄妹神
薄暗い木造の部屋。
照明器具らしきものはなく、明かりは窓から入ってくる淡い陽光だけだ。
部屋の四方を本棚に囲まれており、書庫のようにも見えなくもなかった。
おどろくべきはその蔵書数で、たいした広さでもないのに、一万冊近い本が詰め込まれていたのである。本の一部は床にも散乱し、しかしホコリが溜まっているわけではなかった。
常に誰かが掃除し、常に誰かが本をばらまいている……そんな感じがする部屋であった。
室内にいるのは――二人。
男と女が一人ずつ、である。
安楽椅子に座っていた男が、不意に、足下に転がっていたアヌビエス=ダヌ=カンナ著『虚ろなる者』という本を拾い上げ、飾り気のない黒表紙を何気なく開いた。
『虚ろなる者』
それは、今を遡ること五三〇年前、ある女性の前に現れた怪物の正体を幻視実体化障害の観点から研究・解明した名著である。ただ、著者の意向から活版化されず、写本も少ないため、その知名度のわりに大図書館ぐらいにしか収蔵されていない。
「見てもいいけど、盗んじゃダメよお?」
頭上から声をかけられて、男は、「盗むかよ。こんな気持ち悪いもの」パタンと本を閉じた。
「ったく。
そう苦笑しながら、視線を上げると。
「それはねぇ。あんなあやふやな存在なのに、しっかりこの世界を汚してる。そこがステキなの」
キスできそうな距離に女の顔があった。
というよりも、その女は……男の目の前の空中に横たわっていたのだ。
豊かな銀髪が床に落ち、銀色の水溜まりをつくっている。
大きく胸の空いた黒ドレスは
男は、そんな女の恥態から目を逸らすことなく、色白の頬に指を伸ばした。
「エオスよ。お前、痩せたか? 少し顔色が悪いぞ?」
男にしては華奢な指。
エオスは、頬を撫でてくる男の指に、白魚のような自身の指を重ねた。どこか愛おしそうに、だ。
「珍しい。心配してくれてるのね」
「そりゃあ双子だからな。たった一人の妹を心配しない兄がどこにいるって言うんだよ」
「……ふぅん。そう言う割りには、あんまり帰ってきてくれないわよねえ?」
「風が僕を呼ぶんだ。仕方がないだろう?」
「言うと思った……まあ、お兄ちゃんは旅してるほうがお似合いよ。私もこの家を自由に使えて、好都合だしね。子供の時みたく、死霊を呼び込んでもギャーギャー言われないってのは、楽でいいわ」
「……僕が家に帰らない理由の一つに、妹が変人だからってのもあるんだぜ?」
「あら。全然知らなかったわあ。ごめんなさいね」
「まあいい。で、身体の方は大丈夫なのか?」
そこでエオスは上体を起こし、「ありがとう
安楽椅子に座る兄に寄りかかると、いつもどおりの甘い声。
「お兄ちゃんは、大丈夫だと思う? 重傷の三人組に大量の血を持っていかれて」
「血? お前……まだそんなことしてたのか。いい加減やめろよ」
「お人好しはとっくに卒業してるわよ。でも、今回はしょうがなかったの。空野真琴に泣いて頼まれたんだもの。助けてくださいって」
「ん? ソラノ=マコトって言ったら――」
「
「お前のお気に入りだろ? 覚えてるよ」
「すっごい美人さんなの。あんな綺麗な泣き顔に頼み事されたら、ねぇ。好きなだけ持っていきなさいって、調子に乗っちゃったわ」
「それで貧血になってるんだから、救いようがないよな。我が妹ながら」
「哀れに思うなら、お兄ちゃんの血を分けてくれないかしら。私たちって、同じ血が通ってる双子でしょう? だから、お兄ちゃんから血をもらったら、絶対に元気になると思うの」
「気持ち悪いことを言うな」
男が、エオスを押しのけながら立ち上がった。
「あらん? もう行っちゃうの?」
「お前がお茶の一杯も出してくれないからな。まあ、元々長居するつもりじゃなかった。近くを通りがかったから、顔見せに立ち寄ってみただけだよ」
「一晩ぐらい泊まっていったらいいのに」
「嫌だね。この家、夜になったら変な声が聞こえるんだよ」
「なによその怖がり。空野真琴は一日で慣れたわよ?」
散らかった本を踏まぬように出入り口まで歩いた男。
開きっぱなしの扉から差し込む陽光の中、「そのマコトって女のことだけどな――」口端を持ち上げて言った。
「
安楽椅子に腰掛けたエオスは。
「ふぅん。お兄ちゃんも案外テキトーなのね。言っておくけど、大間違いよ、それ」
肘掛けに頬杖をのせて、子供っぽくにんまり笑っていた。
まるで女帝のような貫禄のある座り姿。
エオスの後ろでは、立ち上がった
飛び出した一枚が大きくはためいているところを見るに……どうやら、男の旅立ちに手を振っているらしい。
「どういうことだ?」
「あんな
「……余計に意味がわからなくなったな」
「そりゃあそうでしょうよ。アレを見た装着者は私だけだもの。私だっていまだに信じられないし、これから先も信じたくないもの、
「鉄屑……だと?」
「ガリエルに息が有ったのも、ただ運がよかっただけ……いえ。きっと逆ねぇ……あんな姿になるぐらいなら、いっそのこと、一思いに殺してもらった方がよかったんじゃないかしら」
「なんだそれは……
「そう。
「どこのアイギスと装着者だ?」
「アイギスじゃない」
「え?」
「だからぁ、
「だったら、誰が……?」
「――人間」
そしてエオスは、芸術品のような細指で拳をつくり、それを我が兄へと向けた。
「
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