手負いの獣の牙
「見事なもんだ」
秀介とセシリアは、尋常ならざる速度で南へ向かっていた。
時速五〇キロ強。
無論、人間の走力で叩き出せる数字ではない。傷だらけの二人は、図らずも秀介が救うことになった馬似の草食動物――マユーの背中にまたがっていた。
俊足の野生動物を駆るのは、セシリアである。
さすがはマユーの放牧を
生来からマユーに慣れ親しんできたセシリアはまったく問題ないが。
素人の秀介は、セシリアの腰に抱き付くことで、背中から滑り落ちるのをなんとか堪えていた。気を抜けば落馬してしまうだろう。
「人馬一体か……やるもんだ。さっきまで野に生きていたこいつを、ここまで人に馴れさせるとはよ。さすがは騎馬民族の生き残りというところか」
「それだけじゃない。マユーは頭のいい動物だし、変に義理堅いところがあるからな。きっとわかっているんだ。お前に助けられたということが」
「別になにもしちゃおらんさ。ただ、苛立ちに我を忘れただけだ」
「……しかし、思い出すな」
「おう?」
「こうしてマユーに乗っていると子供の時分を思い出す。私の弟はマユーに乗るが下手くそでな、マユーたちがわざとゆっくり走ってくれてるのに、それでも落っこちるんだ。お父とお母は、弟の将来を心配していたようだけど、私にはそれが面白くて」
「………………」
「そうだ。ちょうどこんな青空だった。あの頃は、毎日がすごく優しくて……私は、どこかから聞こえてくる笛の音を聞きながらいつも笑っていた。いつか草原に生きる誰かと結婚して、我が子を背中に風と走る。そんな幸福に思いを馳せていたんだけど――」
「………………」
「まさか、剣を手に、お前みたいな男と一緒に神を追いかけることになるなんてな」
「……そうか……そりゃあ災難だったな……」
「どうした? お前、声が――」
「いや。血がな……まだ血が止まらん。それにこの揺れだ。いい加減、内臓の方もよ」
不自然な震え方をする秀介の言葉に、ようやくセシリアは気付いたようだ。
――秀介の身体と触れ合っている背中が、ぐっしょり濡れていることに。
木綿の布地に染み込んだこれは、汗ではない。
血だ。
「やれやれ……しんどいな」
今の今まで秀介の体内を巡っていた燃えるような命の水だ。
尋常ではない量の出血に驚愕し、セシリアはマユーを走らせたまま振り向いた。
「――やっ、休むか!? 私よりもお前の方がよほど重傷なんだぞ!?」
見れば、秀介はセシリアの背中で無惨な格好を晒していた。
ダメージが大きすぎるだろう。巨体をこれでもかと縮こまらせて、痛みに歯を喰い張っていたのだ。
どう考えても肉体的な限界を迎えている。
しかしそれでも、迷うことなく言った。
「かまわん。もっと飛ばしてくれ」
固い
二人の武術家は、すでに神々の戦場に足を踏み入れているのだった。
「本当にいいのか? 落ちちゃダメだからな」
「心配するな。まだ意識はあるんだ。ここからが本領発揮よ。それよりも、お前こそ大丈夫なんだろうな? ちゃんと空野のところへ向かってるよな?」
「安心しろ。間違いなく炎の雨が見えた方へ向かっているから。
「そうか。だったら、もっと飛ばしてやってくれ」
「………………」
「………………」
「…………本当に……やる気なんだな……」
「ああ」
「勝ち目があるとは言っていたけど……素手でやるつもりなのか?しかも、そんな身体」
「ああ」
「無理だ。竜の牙から造り上げた剣でも太刀打ちできなかった。いくらお前が強いといっても、ただの拳なんかが私の剣を超える威力を持っているとは、とても――」
「セシリアよ」
「え? ど、どうした? 止めようか?」
「セシリアよ。俺はこの世界の人間じゃないから、あんなものを崇め奉る気にはなれん……だがそれでもよ、アイギスとは、まったくもってすごいものだよな。それは認めざるを得ない事実だ。現実でこんなに痛めつけられたのは初めてだし。しかもたった一撃で。しっかり鍛えといたはずなんだがな」
深いため息とともに力なく苦笑する秀介の頬を、風がなでる。
………………。
不意に生まれた、痛々しい沈黙の中。
「……本当に、すまなかった……」
セシリアが今にも泣きそうなか細い声をあげた。
「私が横槍を入れたからだろう? 私がお前とガリエルの勝負の邪魔をして――あげく、私なんかを守ってくれたから、そんなに傷ついてしまったんだろう?」
「……結果として、だがな」
そしてセシリアは、秀介が続けた「謝らなくていい。むしろ俺の方が礼を言いたいぐらいだ」という言葉にとまどうことになる。
秀介は言った。
「今から本当のことを言うが、笑ってくれるなよ?」
「え? なんのこと?」
「いいから、笑わないと誓え」
「あ、ああ……絶対に笑うものか」
「よし。実はな……ガリエルの奴に一撃入れてみろと言われたあの時……俺は本気でビビってたんだ。とうとう悪夢が正夢になる日がやって来たかと、震えていたんだよ」
「……悪夢……?」
「今まで、何万、何十万回と突いてきた正拳。普段なら呼吸するように出せるはずの技。それなのに、どうしても身体が動かなかった。恐怖で、な」
「――そんなの」
「お前の剣が弾かれるのは何度も見てたし。俺の拳もお前みたく、あの変な
セシリアはいまいち意味がわからなかったが、「そうか」と反応しておいた。
「……だがよ……」
「――?」
セシリアの薄い背中にひたいを合わせた後、薄く笑い始めた秀介。
「だがよ、もういい。もうわかった……間違ってなかったんだ。俺のこれまでの人生は、なに一つ間違えてなかった」
もはやセシリアに話しかけているわけではない。
「……誰一人……あの鎧さえ気付いちゃいないだろうが……確かに届いたんだ、俺の拳が」
ただの独り言。
「……五つの頃だったか……あの頃は毎晩のごとく殺される夢を見ててなぁ。どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだって、一人泣き腫らしたもんだ」
固く拳を握り締めながらの独り言。
「眠りたくないとあがいて、夢の中でも必死にあがいて……そんなことを半年も続けていたら、たったの一度、夢の中で相手の身体に拳が触れた。今考えれば、パンチとも突きとも言えないひどい一発だったが、俺なんかの拳に敵がひるんだんだ」
気を抜けば消えてしまいそうになる意識をつなぎ止めるための独り言であった。
「それにすがって空手を始めて……悪夢に眠れない夜は、庭で
セシリアはなにも言わない。
「……たった一度だけ……たかが夢で見た、たった一度のヒットを信じ続けたんだ」
よくわからないまま秀介の言葉に耳をすまし。
「そして、な……ようやく、ここまで辿り着いた」
ただ一つ、浅井秀介の執念というものを肌で感じていた。
そして、ひどく落ち着いた声色で、傷兵のように疲れ切った空手家に話しかける。
「だからといって、どうして真琴を……?」
「不思議か? 俺が、あいつの為に動くのが」
「だって、お前は――」
「そりゃあ自分が一番さ。武術家だからな。そもそも、
「なら、お前がこれからしようとしていることの意味も知っているんだろう?」
「無論」
「理解できない。護身のために手に入れたという無手の戦闘術。それだけを頼りに、他人のためにアイギスと戦おうだなんて。お前は、そんな男だったのか?」
「……一夜の恩……」
「え?」
「
「馬鹿な。それだけで……?」
「十分だ。生まれて一七年、恐怖と苦痛ばかりのつまらない人生だったが……あの瞬間、初めて救われたような気がした。生まれて初めて、心から幸せな夜を迎えられた気がした……だから、それだけで十分だ。
「きっかけ?」
意味深な言葉に、思わず首を回したセシリア。
そして猛獣の瞳と化した秀介と目が合い、「ひ――ッ!?」息を呑んだ。
思わずマユーを止めてしまう。
「証明が欲しい。俺のつまらない人生が間違いでなかったという、その証明が」
そしてその隙に、岩の地面に降り立った傷だらけの空手家。
ふらつき――
よろめき――
しかし絶対に膝を付くようなことはない。
「おっ、おい。寝ぼけてるのか!? まだ着いちゃ――」
馬上から肩を掴んできたセシリアの左手を乱暴に払いのけて、秀介は言う。
「ここでいい。ここからは歩いていく」
力なく歩き出した浅井秀介の後ろ姿。
あまりにも痛々しくて、セシリアは思わず叫んでしまっていた。
「そんなっ――お前の身体はもう――」
耳障りな女の叫び声に、秀介が苦笑いとともに振り向いた。
「とっくに限界だろうな。打撲、火傷、出血……傷が多すぎて、もはやどこが痛いのかさえ、よくわからん」
そして、苦笑はやがて、はっきりとした笑みへと変わっていく。
「
「……できる、こと……?」
セシリアの眉をひそめた呟きに。
「おう」
秀介は、正拳の空突き一発で応えた。
セシリアの動体視力でさえ捉えることのできなかった拳先で、小さく空気が弾ける音がした。
「勝ちの目さ」
歩き出す。今度は、武術家らしいしっかりとした足取りで、だ。
「空手家だ、俺は。朝も夜もなく、夏も冬もなく、一〇年以上もひたすら技を練り続けてきただけのつまらん空手家だ。しかも、悪夢の恐怖から逃れようとして、な。そんな臆病な俺の人生に、意味を与えてやりたい」
もう振り返らない。
「負けてばかりの人生だったが……俺が選んだ道は間違いじゃなかったと、そう信じたいんだ」
心配そうに見つめるセシリアに向かって、軽く手を持ち上げてやった。
そして、その手を固く握り込んで――拳。
「見てろ。神を、ぶん殴ってくるから」
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