ただの人間一人
ガリエルと決着をつけるため、空に消えていった空野真琴。
浅井秀介は、真琴と
「なんて言い草だ」
誰も聞き取れないような声で、そう呟いた。
「なんて……女だ」
意図的にそうしているのかどうかはわからないが……力が入っている。
秀介の筋肉が激しい熱を発していた。
真琴の血によって回復しつつはあるものの、いまだダメージは甚大である。
灼けた内臓はほとんどそのままだし、炎の矢が刺さった傷口は見るも無残な状態だった。
「……空野、真琴……」
常人ならば生死の境をさまよい歩いているはずで。
鍛え抜いた戦士でさえ、意識を保っていられまい。
浅井秀介だから立っていられるのであった。筋肉に力を込められるのであった。
――――――――――――――――――――――――――――
隣を抜けていった涼風。
風につられて揺れ踊った草原の内部――サワサワという草の音色以外の音はない。
しかしそんな静寂の中で、秀介の心臓だけが轟々と猛っていた。
身長一九〇センチ。
体重一二〇キロ。
そんなおそるべき肉体の隅々へ、沸騰寸前の血液を送り込んでいた。
圧倒的熱量と圧倒的存在感。
ようやく立ち上がれるところまで回復したセシリアが、よろめきながら言った。
「いいのか? 真琴……死ぬ気だぞ……?」
言葉にする必要もないほど、わかりきったことを口にした。
「あいつと刺し違える気だ。このままあいつを生かしておいたら、あいつに目を付けられた私たちが危ないからって――」
セシリアに背中を向けていた秀介は、「黙ってろ」と短い一言。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきたであろうセシリアをその言葉だけですくみ上がらせた。
「……ちぃ……」
ギリッと歯噛みした後、まるで己に言い聞かせるがごとく。
「……どうでもいいさ……あいつの人生だ。神様を押し付けられた難儀な女の生き方だ。俺なんかにどうにかできるわけがない」
セシリアはもうなにも言わなかった。
なにも言えなかった。
ただ、秀介の肉体から発される熱に半歩
カチャリ
気が付けば、いつの間にか剣を構えていた。
ガリエルと
秀介は言う。
「……別に……いいさ……」
セシリアは秀介に剣を向けるのが精一杯で、それ以上動けなかった。
「俺には関係ないことだ。別に――」
秀介の言葉が途切れると、世界から音が消えていた。
風は吹き止み、草々も今は無言。
秀介から吹き上がる力ずくの迫力に、この世に息づくあらゆる生物・自然現象が口を閉ざしたような――そんな瞬間だった。
………………。
………………。
………………。
沈黙がどれほど続いたのは定かではない。
しかし。
「――別に、いい」
いきなり駆け出した秀介によって、沈黙は破り捨てられた。
行く手を遮る草などまったく意にすることなく、全力疾走。
水気を含んだ地面を思いきり踏みしめながらの、全力疾走。
そして。
「別に――――」
草むらから全身が飛び出すほどの全力跳躍。
「いいわけねえだろうがぁ!!」
荒々しい咆吼とともに、緑のブラインドに隠されていた野生の営みに飛び蹴りを叩き込んだ。
鍛え抜いた足刀がめり込んだのは――マユーと呼ばれる馬に似た草食獣に襲いかかっていた深緑色の肉食獣、その首筋であった。
人間なんぞが喧嘩を売っていい相手ではなかった。
しかしそれでも。
浅井秀介の飛び蹴りには、こんな巨大肉食獣を蹴り飛ばせるだけの威力がある。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!」
「おおおおおおおおおおおおああああああああああああああ――!!」
狩りを邪魔された獣の怒声。
それと張り合うような秀介の雄叫び。
体勢を立て直した肉食獣が、牙を剥いて飛び掛かってきた。
空手家はそれを真っ向から受けて立つ。
しなやかに躍動した野生の限界速度に――
電光石火の速度で肉薄する野生の刃に――
「シィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
渾身――右の上段回し蹴り。
迫り来る肉食獣の顔面を、牙ごと粉砕した。
太い首がねじ曲がり、吹き飛んだ頭部につられて四つ足の巨体が不自然な形で宙を舞う。
背中から地面に叩き付けられた肉食獣は、もう起きあがってこなかった。
横転したまま、ピクピク痙攣しているだけだ。
ズチャリ
秀介が、倒れた肉食獣に向かって歩き出した。
歴戦の武術家らしい堂々たる足取りで。
鬼神のごとき人間離れした形相で。
自ら死地へと踏み込んでいった空野真琴に思いを馳せながら。
「ふざけるな。許せるわけがないだろう」
罪なき獣に理不尽な死を与えるべく、死神の鎌が届く距離までまっすぐ歩いていく。
「勝手によ――」
ざわつく心は一向に静まる気配を見せずに……しかし今の浅井秀介は、
憤怒に身を任せて、心が叫ぶままに猛り狂う。
「勝手に俺を巻き込んで! 勝手に俺の前からいなくなって! 勝手に神なんぞになって! 勝手に俺のトラウマに手を差し伸べやがって――!!」
瀕死の肉食獣の首筋に踵を置いたら。
「今度は、勝手に死ぬ気かよ……っ」
そのまま踏み抜いた。
ゴキリという嫌な音が響き、あっという間に惨殺は完了する。
………………。
終わってみれば、秀介の心中に残っているのはむなしさだけ。
野生の暴力を人間の暴力で蹂躙してやった爽快さなどほとんどなかった。
……大馬鹿者めが……こんな獣相手に、大人げのない野郎だ……。
冷静になりつつある頭で、ポツリとそんなことを考えた。
「空野よ」
不意に思い浮かんだのは、真琴の微笑だ。
あの――憂いを秘めた優しい微笑み。
あの――運命に押し潰されそうな悲しい微笑み。
「……あんなに優しい女が…………いいわけねえだろう……」
絞り出された言葉には、以前の秀介では考えられないような感情が込められていた。
空野真琴への深い思いやり。
悪夢におびえた自分を抱いてくれた彼女を助けたいという一心。
「……そうだな……」
気が付けば、固く拳を握りしめていた。
そして。
そして、空手家・浅井秀介は静かに悟り始めている。
「俺も
ただただ己自身を守るためだけに身に付けたおそるべき戦闘術――空手。
それを、
とうとう
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