最果てから来た獣

 目にしみるほどの秋晴れ。

 本日の青空に浮かぶ白雲には、手が届きそうにない。流れていくほどに高度を上げていく軽い雲、やがて空を抜けて宇宙にまで飛んで行ってしまいそうだ。


 四限目のチャイムが鳴った今、校舎屋上にいるのは浅井秀介と空野真琴の二人だけ。

 五十分後の昼休みまで邪魔が入ることはない。


 唐突。

「………………なにが目的だ…………?」

 秀介が不機嫌そうに言った。

 いつも以上に鋭くなった視線は、出入り口を背にして立っている真琴に向けられている。


 空野真琴にしてやられた二人っきりのこの状況――実のところ、圧倒的優位に立っているのは秀介であった。


 素手における戦闘能力の差は、比べるべくもないほどに、秀介の方が上だ。

 出し抜かれた苛立ちが消えるまで真琴を殴り続けるのも、捕まえて裸にひん剥くのも、男の欲情をぶつけてみるのも……すべて秀介の思い一つ。


 そのことがわかっているのか、屋上に上がった瞬間から、真琴は、秀介と一度も目を合わせていなかった。


 目を伏せたまま、「知ってる? あたしのあだ名」と問う。


「知らん。興味もない」

「……全方位系天才……強欲女……ふふふ、誰が言い出したかわからないけど、悪趣味でしょう?」

「なにが言いたい?」

「あたしね、本当は帰宅部なんだ。でも、ほとんど毎日、色んな部活に助っ人を頼まれてるの。バスケ、テニス、卓球、バレー、剣道、演劇。最近はバスケ部と演劇部が多いけど、中学の頃は女子ボクシングの助っ人もやってたわ。さっきのパンチはその時にとった杵柄。けっこう鋭くなかった?」

「……まあ、運動神経がいいのは認めるさ。実戦で使おうってんならひどいもんだが、グローブをつけて遊ぶ分にゃあ、あれで十分だろうよ」


 秀介のその言葉に初めて真琴は顔を上げ。

「やっぱり、厳しいねぇ」

 そう、やわらかく表情を崩した。


「……さあ、な――」

 美少女らしい魅力に図らずも見惚れそうになったのか。照れ隠しに、秀介がいきなりシャドーボクシングを始めた。

 あくまでも軽めにではあるが、流れるような動きで空気を打つ。


 まるで――


 目まぐるしく動く肩はハチドリの翼。

 しなやかに伸びる腕はイルカの大群。

 視認することすら困難な拳はマシンガンの一斉掃射。


 どう見ても、一発一発が真琴のパンチよりも遙かに速い。


 真琴は舌を巻いた様子だった。まさか空手家の拳がここまで軽やかなものだとは思っていなかったのだろう。


「尊敬するわ浅井くん。それのために、一体どれだけの才能を――」

 と、さらに速くなった拳に言葉をつまらせた。


「……才能?」


 秀介の声色はいつもどおり。鋭い音で風を追い抜きながらも、普段の余裕を見せている。


「そうだな。凡人だったとは言わんよ。運はよかった。吐くほど食って。毎日六時間、血尿に悩む程度の稽古をするだけでここまで来れた。道場破りなんて馬鹿なことも、いくらかやったがね」

 息もあげずに、さらっとそんなことを言った。


 すると真琴は少しだけ怒ったような苦笑い。


「女の子の前で血尿とか……ちょっとひどい表現よね。あなたが言うとリアルすぎるわ。想像しちゃったじゃない」

「む? そうか。すまない。デリカシーとか、よくわからんでな」

「ま。別にいいけど、ねっ――」


 そして、いきなりだ。

 いきなり、真琴もシャドーボクシングに加わってきた。


 上体を大きく振り、短いスカートがめくれるのも気にしない激しいステップワークで、色白の拳を繰り出す。


 先ほどの言葉通り、一流の運動神経なのだろう。隣に秀介がいなければ、さぞかし鋭い動きに見えたに違いない。

 だがそれも三十秒ほど。

 真琴は呼吸が乱れ始めたところでピタリと止まり、自身の小さな拳に視線を落とした。


「……なりたいな。あたしも、あなたみたく……」

「はあ?」


 一方、秀介の方はスタイルがボクシングからキックボクシングに変わっていた。

 パンチの合間に、蹴りが混ざり始めたのである。


「浅井くん、さっき言ったわよね? なにが目的だ、って」

「言ったな」

「あなたを屋上に連れ込んだ目的はたった一つよ。たった一つ……今ここで、強くなる方法を教えて欲しいの」

「……意味がわからん。あんたは女だろう? 腕っぷしになんの意味がある?」

「……強くないと生きていけないじゃない。最近なんか色々と物騒だし。あたしは美少女だし」

「だから格闘技を? お前さん、強姦願望でもあるのか?」

「はっ、はぁあああっ!? なによそれ。ないわよっ、そんなもの!」

「そうか。だったら、どうして強くなるのに無手を鍛えようとする?素直に防犯スプレーでも買ってろ。雛田って後輩にも言ったことあるがな、女に生まれた時点で素手は向かん」

「浅井くんは、女は強くなれないっていうの?」

「実戦に限ればな。まあ……どうしてもってんなら、武器術でもやればいいさ」

「ぶ、き術?」

「棒だの、短刀だの、トンファーだの。そういうのを使えってことだよ。マシンガンを持てるんなら、それが一番お手軽でいい。つまるところ、殴りっこしかできない俺に強くしてくれってのは、とんだお門違いってことだな」


 そして秀介のシャドーは、キックボクシングから空手へと。


 手刀・鉄槌・貫手・鶴頭――リングの上では見ることのできない手先を使った攻撃が拳に花を添え。

 更には腕や脚を駆使した受け技までもが現れる。


 どうやら秀介が意識している想像上の敵は、武器を持った多人数らしい。


「だいたい、スポーツウーマンでいいじゃないか。今の日本で強さとか阿呆らしいだろ」

「……………………」


 真琴はすでに秀介を見ておらず、視線を下に向けて、なぜか身体を抱いていた。


「……朝から……」

「おう?」

「朝から震えが止まらないのよね。なんか知らないけど、気持ちがはやるの。気持ち悪いの。焦燥感って言うのかな……今すぐに強くならなくちゃって……」


 突如として意味のわからないことを言い出した真琴に。

「なかなか面白いことを言うんだな」

 秀介の拳が止まった。


 スッと背筋を伸ばした巨体と視線があって。


「じっ、自分でも変なこと言ってるのはわかってるわよ? でも嘘じゃないし、あなたをからかってるわけでもないの」


 真琴は、身振り手振りも交えながら、「意味わかってもらえないだろうけどっ、でも、でもあたしは――」必死に自らの思いを伝えようとした。


 しかし。

「な――っ?」 

 突然ブレザーを脱ぎ捨てるという秀介の行動に言葉を無くす。


「空野真琴。お前、予知能力って信じるか?」

 静かにそう言った秀介の上半身が、先ほどよりも二回りは大きく見えた。


 着痩せしていただけではない。

 カッターシャツが、はち切れんばかりに膨れあがっている。意図的に筋肉に力を込めているのだろう。


 そしてそれから発される熱が、五メートル以上離れた真琴にまで届いて来そうであった。秀介の肉体に備わった筋肉は、それほどまでに暴力的な熱量を有していた。


 真琴は緊張に唾を飲みこみながら、「どういう……意味……?」と。


「言葉の通りだ。千里眼であれ、予知夢であれ、虫の知らせであれ。人という生き物は、まだ到来せぬ未来を知り得ると思うか?」

「……それって真面目に答えるべき?」

「俺は真面目に聞いてるがね」

「そっか……そうね。もしも――もしも、あたしの感じているこれがそうだというなら…………あたしは信じるわ。人間はきっと未来を知ることができるって」

「………………」

「ただ、こんなはっきりとした嫌な予感、初めてだけどね」

「……そうか――ッ!!」


 そして、空間そのものを削ぎ取るような秀介の正拳突き。


 馬鹿げた速度。

 馬鹿げた破壊力。

 馬鹿げた殺気。


 さっきまでのお遊びシャドーとはまるで別次元の、本気の空突き。


 そのまま――空手家・浅井秀介は、鬼神のごとき表情で頭上を睨み付けた。


 見開かれた両眼。

 食い縛られた歯。

 血管の浮き出た首筋。

 引き絞られた右腕。


 秀介が鬼神の如き視線をぶつけた先に、真琴も遅れて目を向ける。

「ええ――っ!?」

 しかしそれ以上の言葉が出なかった。


 晴れ渡った青空に突如現れたのは、大口の化け物だ。

 目もなく、鼻もなく、耳もなく――ただ巨大すぎる口から小さな腕が二本伸びているだけのモンスター。乱杭歯が五列も並んだ口というのが、ことさら異質であった。


 どこから現れたのかはまったくわからないが。


 ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――


 とにかく、遙か天空から、秀介たちを目指して急降下してきていた正体不明。


 真琴はなに一つ反応できなかった。


 しかし秀介だ。

 臨戦態勢になっていた空手家は、この場面で。

「ちぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」

 渾身の右拳を撃ち放ってみせた。


 まっすぐ天空に伸びる拳。

 タイミングはこの上なく、破壊力とて常人相手ならば即死レベル。


 だが。

 握りしめた拳はそのモンスターに比べ、あまりに小さすぎた。


 届くわけがない。


 なにせ、モンスターの口の直径――十五メートル。

 真琴と二人して丸呑みされてしまった。


 そして正体不明の超巨大モンスターは、校舎に突っ込んだ途端、その姿をかき消してしまう。たった今呑み込んだばかりの秀介と真琴、彼らを引き連れて、である。


 ………………。


 ………………。


 ………………。


 誰もいなくなった四限目途中の屋上。

 モンスターが激突したはずのコンクリートに残されていたのは、秀介と真琴が身に付けていた衣類だけ。


 おだやかな空に白雲が泳ぎ。

 風が吹き抜ければ、真琴のショーツがハラリと一舞いする

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