幼き神

「きゃああああああああああああああああああああああああああ!!」

 響き渡ったのは真琴の悲鳴。


 視界が闇に包まれんとするその瞬間、彼女は秀介の巨体に思いっきりしがみついたのだ。こわいので目は閉じている。

 ただただ、秀介の筋肉の熱に、薄い痛みを感じていた。


「……離れてくれ。二人とも生きてる」

 冷静なハスキーボイスにそう促され。


「ま、マジ? 嘘だったら叩くよ?」

 真琴はゆっくりゆっくりと目蓋を持ち上げた。


 最初に見えたのは、日焼けした肌――大きく膨らんだ大胸筋。

 そして。

「――え――?」

 全裸の秀介。拳を天にかかげたままの姿勢で、眉をひそめていた。


 つまり。

「ひゃっ、ひゃああああああああああああああああああああああ!?」

 真琴は、裸の偉丈夫に抱き付いていたのである。自らも一糸まとわぬ生まれたままの姿で、だ。


「こっ、こっち見ちゃダメ! 絶対にダメだかんね!?」

「……そうは言われてもな……」

「見たら殺す!!」


 兎にも角にも座り込んで、女子として見せられない部分を秀介から隠そうとした。


 逆に――秀介は陰部を露出させたまま。

「……やれやれ……」

 どこまでも自然に、どこまでも油断なく、直立していた。


 羞恥心を感じていないわけではない。ただ、真琴のように座り込んでしまったら、隙だらけになってしまう。立ち上がっていなければ、不測の事態に対応できない。それだけの話だった。空手家としての判断が、思春期の心理を上回っているのだった。


「なになに!? なんなのよこれ!? なんであたしこんな格好っ。それにあの化け物……!!」

「………………」

「あっ、浅井くん!? どうしてあなたそんな冷静でいられ――」


 と――秀介に食ってかかろうとした真琴があわてて視線を落とす。見慣れない男の象徴に、ぷるぷると背筋をふるわせた。


「そ、それっ! 早くそれをしまってくれない!?」


 意外なほどウブだった彼女、男の性器があんな形だとは思っていなかったのだろう。秀介の股間を指差して、これ以上ないぐらいに狼狽していた。


 秀介の方は、ただただ苦笑い。

「無茶を言うな。俺はトカゲじゃないんだ」

 学校のアイドルのくせして男の裸を見たことがないとは、思いのほかお堅い女だったか……そう思って真琴を見直すのだった。


「安心しろ。今はお前さんの裸に欲情するような暇はない。空野真琴を前にして、もったいないことかもしれんが……まあ、非常事態だからな」

「ひ、非常事態……?」

「どうやら俺たちは、化け物に喰われるより、もっと厄介なことに巻き込まれたらしいぜ?」


 その言葉に、ようやく真琴が顔を持ち上げた。


「ここのどこが、化け物の腹の中だ?」


 そしてキョロキョロと辺りを見回して。

「どっ、どこよここ――!?」

 今さらになって気付く。


 秀介と真琴……学校の屋上で巨大モンスターに呑み込まれた二人は、今、薄暗い室内にいた。


 全面石造りで、どうにも日本の建物らしくない。

 明かり取り用の小窓から陽光が落ち――部屋中に散らかった工具が、なんらかの工房を二人に連想させた。


「か、かまどがあるわね。火は入っていないけど。あとは……たくさんの水がめ……」

「鉄か。規模は小さいが精錬をやってたっぽいな」

「なによこれ……これじゃあ、ゲームの中に出てくる鍛冶屋だわ」

「まあ、学校じゃないってことだけは確かだな。天国や地獄じゃないってことも――」


 足下に転がっていた金づちを拾い上げ、それをしげしげと眺めた秀介。

 ずっしりとした鉄の感触に妙な安心を覚えたことに、「……ふ」小さく苦笑した。


「ずいぶん安いラノベだな」

「え?」

「平凡な学生がふとしたきっかけでファンタジー世界に迷い込む。それで、運命とやらに導かれながら、その世界の滅亡を救うんだ。魔法とか伝説の聖剣とか神様とか出てきてさ。よくありそうな話じゃないか」

「バッ、バカ言わないでよ。あなたのどこが平凡だっていうの?」

「はははっ。魔法と比べりゃあ、空手なんぞ、まったく常識の範疇だとは思わんか?」

「そんなものが存在していればね」

「ああ――そうだ。それとな、安易なエロ展開があるかもしれないから、一応気を付けておいた方がいいぞ? 女好きな触手に襲われて、酷い目にあったりよ」

「やめて。そういうのホントやめて。裸の女子高生を前にして、よくもそんなことが言えたものね」

「裸なのはお互い様だけどな」


 悪びれた様子もない秀介に、がっくりとうなだれた真琴。きれいな肩と背中から力が抜ける。


「……はあ……なんか悲しくなってきた。なんであなたみたいなデリカシーのない男にあたしの初めての裸を……」

「なんだ? もっと反応した方がよかったか?」


 そして、秀介の適当な態度に、「うるさいわね! バカにしないでよ!」突如として大爆発を起こした乙女心。


「こっちはこっちで色々予定してたのよ! 初めては大好きになった彼の部屋で、明かりを消してっ、月明かりだけで、それで、それで『きれいだね』って言ってもらってって! なのにどうしてこんなホコリっぽい場所で、あなたみたいなゴリラに肌を晒さなきゃいけないのよ!?」


 つり上がった涙目に睨まれた秀介は、薄い苦笑をつくったものの、それを真琴に向けることはしなかった。

 不気味な造形の背中を向け、室内を物色し始めたのである。


「お前の予定はよく知らんが……今回のはノーカンでいいんじゃないか? 俺もお前も、『異世界の被害者』だしな」


 そして作業机の引き出しから膝掛けを見つけ出し、それを、後方へと放り投げた。


 受け取った真琴はそれをパレオみたく腰に巻き、すっくと立ち上がる。両手で自身の乳房を抱き締めたまま、だ。


「なによあなた……あなた、なにか色々と知ってそうね……」

「知らんさ。俺たちを襲ったアレがなにか、なにが起こっているのか、ここがどこか、これからどうすればいいか……確かなことはなに一つ知らん。ただな――」


「……ただ?」


「ただ、こんなことが起きるんじゃないかとは、予想はしていた。お前が今朝感じたという焦燥感……俺は、それをずいぶん前から感じていた。知識があるから落ち着いているわけじゃない。腹だけはくくっていたからな。それだけだ」


 秀介は引き出しの探索を終え、扉のすぐそばに意味ありげに置かれていた巨大人形に歩み寄った。


 ぶくぶくに膨らんだ天使像。

 見た目そのものは、西洋の拷問具“鉄の処女――アイアンメイデン”にかなり近い。

 胴体部に取っ手が設けられているところをみると、“鉄の処女”と同じく前面を左右に開くことができる構造のようだ。


「それによ――」

 秀介はいつでも前蹴りを繰り出せる姿勢と緊張感で扉を開き。


 ――蒼き鎧――


 天使の体内で眠っていた美鎧に、かすかに眉を持ち上げた。


「それによ、あわてふためいたからといって事態が好転するか?」


 それは……あまりに美しい鉄の造形物。


 翼をかたどったスマートな兜に、真っ青な長マフラー。

 胸当ては胸の周囲だけを隠し、胴体はむき出しという頼りない意匠。肩当ては存在せず、二の腕から腕当て・肘当て・手甲と続く。

 もっとも特徴的なのは腰回りだ。ビキニラインを強調するセクシーなデザインなのに、腰部からは巨大な翼が伸びていた。幾枚もの鉄板で構成された機械仕掛けの翼である。


 装飾の多さから、とても実戦用とは思えなかった。

 儀礼用、もしくはただの美術品に見えた。


 とりあえず……女性用というのだけは間違いないだろう。


「なってしまったものはなってしまったものだ。今さらどうしようもない。だからこそ、目の前にある現実に対して、己の実力を正確に行使する。それこそが、今の俺たちにできる精一杯だとは思わないか?」


 次いで、秀介は、部屋の出入り口の前に仁王立ちだ。

「俺は、俺のできることだけをする。だからお前も――」

 そしてその大きな右手には先ほど拾ったままの金づちが。


 小さく後ずさった真琴は、秀介の意味ありげな言葉に思いきりたじろいでいた。

「あ、浅井くん? あたしにできることって……? あ、あたし、なにもできないわよ? ただの女子高生だもの」


 そんな彼女に首を回した秀介。クールな表情で天使像の中の鎧を指差しながら。

「これ、お前なら着れるだろ? ちょっとばかし時間をかせぐからその間に着といてくれ」

「――はい?」

「なんとなくだが……俺たちがここにいることと、この鎧がここにあることには、なにかしらの意味がある気がするんだ」

「ちょっ、ちょっと! 着方なんてわかんないわよ!?」

「大丈夫だ。俺も知らん――っ!!」


 そしていきなり、ドアに前蹴りをかました。

 足指の付け根である上足底を使わない乱暴な喧嘩キック。

 秀介の体重と脚力を足の裏全体に乗せた『押し込む蹴り』によって、蝶つがいが破壊され、ドアが吹き飛ぶ。


 瞬間――秀介がドアを追いかけるように前に出た。


 地を這うかのような踏み込み。たった一歩で三メートル潰しておきながら、あまりにもきれいな前屈立ち。

 空手を知らぬ者には大げさなアキレス腱伸ばしにしか見えなかったろうが、踏み込みの速さと崩れない上半身は、異常というべき熟練度であった。


 迫力満点の下段払いで空間を切り裂いてから。

「ぜっ!!」

 右斜め前方へ金づちを振り下ろす。


 軽い破裂音が鳴り、鮮血が飛び散った。

 秀介が打ち殺したのは子供ほどの身長を持つ人型生物だ。


 しかし、断じて人ではなく――

 そいつは、顔の半分ほどもある大きな眼球を有し、こめかみには小さなツノ。

 肌は土色で、衣類といった文化的なものは一切有していない。

 ただただ、黄ばんだ牙と伸びた黒い爪、握りしめられた石のナイフが、その生物のすべてを表しているようだった。


 無論、地球製の生き物ではない。

 ファンタジー小説に出てくるゴブリンとでも呼べば、しっくりくるだろうか。


 次いで。

「あっ浅井くん!?」

 飛び散った赤色に動揺した真琴から悲鳴が上がり。


 それに耳を貸さなかった秀介は、下から斜め上に向けて、右手を振り抜いた。手にしていた金づちをぶん投げたのである。


 十分な速度を持った鉄の塊が空中を走り――鈍い音。

 遠間から石ナイフを投げ付けようとしていたゴブリンを一撃でしとめた。


「浅井くん!!」


 あっという間に二つもの命を奪っておきながら、秀介は、少しも止まらない。

 視界に入っていた最後の一匹を標的に定め、一気に距離を詰めたのである。


 ――速すぎる。


 戦うか逃げ出すか、それすらも選択させない超絶フットワーク。

 百二十キロの巨体が、軽量級ボクサーのトップスピードと同じか、それよりも速く、ゴブリンに飛びかかった。


「シィッ」

 硬直している子鬼ゴブリンの眼前で呼吸を一つ。

 左の追い突きをその顔面に叩き込んだ。


 ミリッ。


 細い首がそんな悲鳴をあげ、ゴブリンはそれで絶命する。


 いくら左ジャブ一発とはいえ、体重差がありすぎたのだ。

 超重量級の格闘家すら一撃で沈める秀介の拳に、三〇キロそこそこの生物が耐えられるわけがなかった。


「………………」

 秀介は、崩れ落ちた敵を無言で見下ろしながら、いまだに真っ裸。


「浅井くん! なにやってるのよ!?」との叫び声に、ようやく拳を開いた。


「やれやれ。ひとまずは、しのいだな」

 そう薄く笑った空手家は、三つもの命を奪ったばかりとは思えぬほど、平常であった。

 真琴が引いてしまうほど、いつもどおりの顔をしていた。


「あ、あなた…………なに、普通の顔してるのよ……?」

「ん? ああ、なるほど。お前も気付いたか。こいつら地球のサルじゃない。ということは、ここは地球じゃないってことだ。また、厄介度が増したよな」


 そして真琴に向かって歩き出し、なんのためらいもなく血溜まりを踏んだ。粘り気のある赤色がパチャンと跳ねた。


 近づいてくる真っ赤な足跡、鮮血のスタンプに、真琴はおびえ顔で後ずさる。


「そうじゃない……そうじゃないわ。なんでそこまでやっちゃったのよ……? 殺しちゃうなんて、やりすぎだとは思わなかったの?」

「おう?」


 一般的とも思える意見に、秀介は一瞬足を止め……しかし、なにごともなかったかのように真琴に歩み寄った。


「このサルどものことか?」

「そうよ! 決まってるじゃない!」

「武器を持ってた。敵意があった。人間じゃなかった。殺す理由は、十分だったろう?」

「短絡的だって言ってるの! あなたなら、気絶で済ますことだって――」

「買いかぶりすぎだ。俺は、そんな余裕のある人間じゃない」

「余裕がなかったって言うの? あんな圧倒的だったくせに」

「圧倒的……そりゃあ、殺し合いだから一撃でケリは付くがな……手加減なんかできるものかよ。特に最後の一匹、素手でしとめたあいつ……俺が少しでも後手に回っていれば、あいつが俺の予想以上にタフだったなら、今ごろ死んでたのは俺だったかもしれん。そういう戦いだった。ただの女子高生には、そうは見えなかっただろうがね」

「だ……だからって……」

「『空手に先手なし』とか言うこともあるがな、俺の流儀は違う」

「……だからって殺すことは……」

「『先の先』を取って、なにもさせないまま殺す。徹底的に無力化する。それが、一番効率的で、一番安全だと思ってんだよ。俺は」

「…………鬼、ね……」

「鬼、か。本当にそうだったなら、どれだけ幸せだったものか……」


 真琴の目の前で、秀介は肩をすくめた。

 肩の動きに連動するように、ぶ厚い大胸筋がピクンと動いた。


「それよりもよ、さっさと鎧を着てくれ。なんで手も付けてないんだよ?」

「あっ――あなたがいきなりやらかしたからでしょう!? 着るわよ! 着りゃあいいんでしょう!? 今すぐに!」


 そう言いながら、天使像の影に隠れた真琴。


「あー、もう! どうやって着ければいいのよ!?」

「…………さあな…………」


 イラだった声を後ろに、まるで門番のように奥の部屋の入り口に仁王立ちした秀介。

 血まみれの部屋を視界に入れながら、次なる敵にそなえて「…………」構えを取った。


 敵は現れない。

 ゴブリンの死体が再び動き出すようなこともない。


「………………」


 それでも秀介は構えを崩さなかった。

 まるで宿敵を前にした空手家がごとく、どっしりと腰を落とした右構えの後屈立ち。

 前方に伸ばした右手が誰もいない空間を威嚇している。


 やがて。

「……き……着たけど……?」

 ためらいがちな真琴の声に、秀介が軽く首を動かすと。


「ほう。よく似合ってるじゃないか」

「やめてよ。めちゃくちゃ恥ずかしいんだからね」


 この世のものとは思えぬほどに、艶やかなる戦乙女がそこにいた。


 翼をかたどった兜から流れ落ちる日本的な黒の長髪。

 きれいな肩を優しく包む青マフラー。

 部分的に鉄に覆われた胸と腕、そしてむき出しになった腹筋が、神秘的ともいえるエロスを醸し出していた。


 しかし、なんと言っても下半身であろう。

 機械仕掛けの翼から伸びたカモシカのような魅力的な美脚。

 初見では、奇妙とも思えた有翼の鎧であったが、装着者を得た今では、戦いの女神のような神々しさに満ちあふれていた。


「サイズは?」

「それが、不思議なぐらいピッタリで――って、まじまじとこっち見ないでよ! コスプレみたいで恥ずかしいんだからね!」

「とんでもない。正真正銘、女神様だぜ。しかし、お前を前にして、俺の格好は失礼かな?」

「ええ。確かに、ちょっとひどすぎるわね。ムキムキの上半身は我慢するとしてもよ、下の方ぐらいは……あなたも高校生なんだしさ」

「わかった。それじゃあ、なんとかしてみよう」


 そして秀介は血まみれとなった部屋に再び踏み出した。


 居間として使われていたであろうその部屋には、一人用の丸テーブルと一脚の椅子が無造作に倒れている。壁際には小さな食器棚と小さな衣装ダンスが並んでいた。


 秀介のお目当ては衣装ダンスの中身だ。

 まるで部屋を荒らす泥棒がごとく、乱暴に引出しを引き抜き、衣類を散らかし上げた。


「……むぅ」

 大きな身体である。

 例えば日本の衣料品店であろうと、秀介が着られるものは限られてくる。


 鍛冶工房付きの民家、こんな所に秀介が着られるビッグサイズがあるわけなかった。

 結局、麻色の肌着を引き裂いて腰巻きとする。


「これでいいか?」

「あははは! あはっ! 原始人みたいね」


 真琴には笑われたが、ないものはないのだから、しょうがない。


「別にいいだろうが。二人ともコスプレってことでさ」

「にっ、似合いすぎ……っ! いいわ浅井くん。すっごく笑える。あなた、原始時代に行っても全然やっていけるわよ。めちゃくちゃ、マンモスとか狩ってそうだもの」

「笑いすぎだ。失礼な奴め」

「あは、はははは、あははっ。ごめんごめん……ちょっ、ごめっ。あはっ、あはははははっ。マジでツボった――」


 真っ白な腹を抱えて、膝をついた真琴。


「……ふん……」

 笑い続ける彼女を横目に、秀介は工房の奥へ進む。そのまま、石の壁を背もたれにする形で座り込んだ。


「寝るぞ」


 そう言い放ったら、真琴が涙目をぬぐいながら「え?」と。


「俺は、寝る」

「はあ? ちょっと待ってよ。今何時だと思ってるの?」

「さあ? 何時だろうな? 教えてくれよ」

「え? あっ。ご、ごめんなさい。そういえば、あたしもわかんないや。でも、まだ空は明るいし……」

「だが、かげり始めてる。窓をよく見ろ。光の色がかなりキツイ。あと何分かはしらんが、あっという間に夜になるだろうよ」

「そ、それでもっ。ちょっとぐらい、外も調べてみた方がいいんじゃない?」

「残念だが。俺はここで、明日の朝まで身体を慣らしてるよ」

「慣らす? どこか調子悪いの?」

「そうじゃない。そうじゃないんだが……さっきフルで動いた時、少しばかり身体が重かった。もしかしたらここは、俺の知る地球とは重力が違うのかも、そう思ってな」

「そんな。気のせいでしょう?」

「かもしれん。だが俺は、俺の武器を完璧にしておきたい。静かにしているさ。一晩あれば十分調整できる。時々寝て、時々チントウしながら、な」

「チントウ?」

「型だよ、空手の。反転技が多いからな。クルクル回ってりゃ、そのうち重力にも慣れるだろうよ」

「なんだかよくわからないわね」

「そうか。なら、いいさ」


 そして秀介は腕組みして、まぶたを下ろした。


「ちょっ、ちょっと! ほんとに寝ちゃうの!?」

「………………」

「浅井くんっ!? 浅井秀介っ!?」

「………………」

「あさい――――」


 そこで、ようやく真琴もあきらめたのだろう。

 おそるおそる秀介の左隣に体育座りし、半分呆けた顔で、空手家の吐息に耳を澄ました。


 やがて、「……この男、マジで寝やがったわ……どういう神経してんのかしら……?」と秀介の就寝を確認する。


 突然のファンタジーに巻き込まれた女子高生に、彼の真似ができるわけがない。気が立って仕方がないのだ。やはり、屋外がどうなっているか確認したかった。


 ゆっくりと立ち上がり、「ほんとだ。なんか少し暗くなってる気が――」壁づたいに工房を退出。


 ゴブリンの死体が転がるリビングルームを最善の注意をもって進み、玄関まで辿り着いた。


 ノブのないドアを押して、大空の真下まで歩み出る。


 美しい夕暮れであった。

 東の空から流れてきたあかね雲が、紫に色付きながら西の大空に流れていく。


「――わあ」


 天空のフォークダンスに真琴は声を漏らした。

 その美しさに思わず手を伸ばせば、甲冑の腰部から伸びた鉄翼がカチャリと歌う。


 そして、一つ理解した。


 ここは――秀介と真琴が飛ばされたここは――見知らぬ山間につくられた小さな集落だ。石造りの家が二十戸ほど密集し、その周りを段々畑が囲んでいる。農耕と同時に狩猟も営んでいるのだろう。どの家の壁にも、なにがしかの獣皮が吊してあった。


 生活の気配は色濃く残っている。

 しかし、こんな人工物だらけの空間なのに、人間の気配はまったく残っていなかった。ゴーストタウンがごとく、人っ子一人いないのだ。ゾクリとするほどに不気味であった。


 それでも――


 それでも吹き抜けた風は、さわやかだったけれど。


 ――き、れ、い――


「え? 誰――?」


 不意に声が聞こえた気がして、真琴は辺りを見渡した。


 いない。


 かなり至近距離から話しかけられたように思えたが、目の届く範囲には誰にもいなかった。家々の隙間にできた小道に立っているのは、空野真琴たった一人だけだった。


 ――きれぇえなのぉ――


 ひときわ強い声色に真琴がふり返った瞬間だ。彼女の全身・全神経が、風に包まれる。

 気付けば――橙色の真っ只中にいた


「――――――!?」


 空だ。

 ここは、ついさっきまで地上から見上げていたはずの夕焼けの大空だ。


 なにが起こったのかわからず、なにをどうすればいいかわからず……ただただ真琴は目を見開いていた。悲鳴を上げる暇などなかった。


 すぐさま重力という名の狂獣が襲いかかってくる。


 だが、しかし。

 大地に向かって真っ逆さまというところで、謎の浮力が重力に刃向かった。


 地上二千メートル余り――そんな天国への一本道で、真琴の身体が静止したのだ。


 墜落死から救ってくれたのは、真琴が着ていた“有翼の鎧”であった。


「な、なによこれ……」


 機械仕掛けの翼が大きく広がり、羽根の間から青白い光が吹き出している。

 ジェット推進か。反重力か。念動力か。オカルトか。

 どんな物理が働いているかは不明だったが、これだけはわかった。


 ――ただの飾りだと思っていた鉄の塊が、今は、天使の翼として完全に機能している。


「やあやあ。無事に起きたようねえ」


 突然の甘い声に首を回せば、右後方に銀髪碧眼の女が立っていた。


「どんなアイギスが生まれたのかと思って見に来たんだけど、初飛行でこんなところまで飛んじゃうなんてたいしたものだわ」


 幾百もの布に包まれた女だった。色とりどりの長布が風に舞っている。


「しかも、“装者”が若くてかわいいときた」

 ほがらかに笑い出した女。


 真琴は息を呑み、おそるおそる問うた。

「な、何者……?」

「エオス。エオス・カーラカーラ・ドナクラナ。この子は“紡ぎ神の松明”。クアトリエって呼んであげてちょうだい」

「どうしてこんなところにいるの? どうしてあたし、飛んでるの?」

「どうしてって……そりゃあ、クアトリエも、あなたの着てるその子も、そういうふうに創られたからに決まってるじゃないの」

「つ、創られた?」

「ああ。もしかしてあなたって、この世界の人間じゃないの? 名前は?」

「……空野真琴……」

「あっちゃー。あきらかにこっちの名前じゃないわねえ。装者としてこの世界に連れてこられた口か。最果ての獣なんて、基本的に“アイギス”の言いなりだものね」


 エオスがそう苦笑した瞬間、「きゃ――っ」真琴の姿勢が崩れた。

 いつの間にか、開いた鉄翼から光が消えている。


 重力に従おうとした真琴を空につなぎ止めたのは、エオス――いや、エオスを包んでいたクアトリエという名の衣服であった。

 数え切れない布の中から赤い一枚が飛び出し、真琴の腰を掴まえてくれたのだ。


「なら、仕方がないわね。そんなに暇じゃないけれど、色々と教えてあげましょう。生まれたてのアイギスにさらわれたての異世界人、放っておくには頼りなさすぎるものねえ」


 黄昏に変わりつつある風の通り道。


 それは……突然で、運命的で、劇的な出会いであった。


 布まみれの女・エオスとの出会いが、“幼き神”の装着者に選ばれた少女――空野真琴の存在に重大な意味を与えていく。

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