嵐打つ者
喰うには困らなかった。
無人の家々には保存食の類が腐るほどあったし、飲み水は集落の中心に設けられた井戸から手に入れられたからだ。
「シッ」
太陽の下、汗が飛び散る。
空野真琴が謎の失踪を遂げてから、すでに二ヶ月。
「ふんッ」
浅井秀介はいまだ最初の集落から動いていなかった。
この二ヶ月の間にゴブリンの出現が九度ほどあり、クマに似た中型哺乳類にも七度襲われた。空手の達人でなければおそらくは死んでいたはずの戦いを繰り広げてきた。
だというのに。
集落が無人になった理由。どうしてこんな世界にいるのか。空野真琴はどこへ行ったのか。
判明したことは、なに一つとしてない。
わからないから、ただひたすら空手の稽古ばかり繰り返してきた。
すでにゴブリンを二十九匹、クマもどきを七頭殴り殺した拳である。破壊力はヒトとしての限界に近いはずだが、それでも秀介は技と力を練ることをやめなかった。
ここ一週間は、石造りの壁を叩いて、拳足を鍛えている。壁に穴が空くまで突き続け、蹴り続けるのだ。壁を一枚粉砕するまで決して休まない。例え出血しても。
「ガぁッ!」
横蹴り。
血まみれの足刀がとうとう石壁を蹴り砕き――秀介はその場にドカッと腰を落とした。
その辺の家から拝借した水筒で喉を潤すと、すぐさま干し肉をかじり始める。
無精ヒゲだらけのその顔は、野人か熟達の山伏、俗世を捨てた修行僧のようであった。
「……やれやれ……」
集落の壁すべてを破壊したらここを出ていくつもりだが……実のところ、秀介は、空野真琴が帰ってくるのを待っているのだった。
秀介が眠っている間に失踪したあの美少女、あの同級生。彼女は、『有翼の鎧』を着ていた。
「……俺の予想が正しいなら、あいつの方が本命だろうになあ……」
そうぼやいて、のそりと立ち上がる。
己の血で赤く染まった手足のまま、誰もいない道ばたでアーナンクーという型を演じ始めた。
特に、第一挙動に当たる、自然体から左斜め前方への手刀受けを幾度となく繰り返す。
手刀受けと言っても相手の突き・蹴りを受けているわけではない。
これは手刀受けという構えなのだ。
襲いかかってくる相手に対する鉄壁の威嚇なのだ。受けの形を取っていながら、いつでもベストパンチ・ベストキックが放てる重心を維持する。
「うん……こんなものだな……」
第一挙動にひとまず納得したところで、型を通してやってみる。
手刀受け。
中段内受け。
二連突き。
山受け。
鉄槌アバラ打ち。
追い突き。
逆突き
前蹴り。
肘打ち。
九種類の技を組み合わせたアーナンクー。
意外にも秀介の空手は、型稽古に重きを置いていた。
動きの本質を模索しながらの型稽古は、組手よりも雄弁に強さを語る――若き天才空手家は、そう固く信じているのだった。
事実、浅井秀介のアーナンクーは空手ダンスと揶揄するには無骨すぎ、決まったリズムがなく、どこまでも実戦的であった。
「む?」
と、アーナンクーを演じ終えたところで、風の唸りに顔をあげた。
同時に秀介の身体が大きな影に覆われる。
「やれやれ。いつか来ると思ってはいたが……とうとう本領発揮か」
苦笑したのは、突如として集落の上空に現れたのがとんでもない怪物だったからだ。
ドラゴンとしか言いようのない巨大ハ虫類だったからだ。
「だから嫌いなんだ。異世界ってのはよ」
全長三十メートル超の空飛ぶヘビ。
赤い鱗に、長い二本角が飛び出した頭。三対の巨翼。
どう考えても人間が太刀打ちできる存在ではない。秀介が今まで相手にしてきたゴブリンやクマもどきとは生物としての次元が違う。
だから。
「ちぃ――」
秀介は迷うことなく、物陰に隠れて息を潜めた。
ドラゴンはかなり低空を飛んでいたが、まさかこんなチンケなこの集落が目的地ではないだろう。しばらくすれば吹き荒れる風とともに通り過ぎてくれるはずだ。
しかし、秀介の思いとは裏腹に、ドラゴンはなかなか上空を離れなかった。
舞い上がる砂ぼこりに顔をしかめながら、秀介はドラゴンから視線を離さず。
「……まいったな……いつまで居座るつもり――ッ!?」
やがて、東の空から飛んできた青き閃光を目撃する。
唐突にドラゴンを貫いたそれは、まるで神の剣。もしくは竜殺しの霊槍。
絶大なる破壊力をもって、巨大な命を一撃で葬り去った。
そして当然のごとく――ドラゴンの死体が集落めがけて落下してくる事態となる。
下敷きになれば即死は確定だ。
そう判断するや否や、秀介は物陰を飛び出していた。
「おおおおっ! な、なんだぁあああああああああああ――!?」
百キロ超の身体を全力疾走させ、たったの五秒で集落の端の方まで移動。轟音とともに集落を粉砕した巨大質量の落下から、間一髪逃げおおせた。
手頃な巨木の影に隠れて、なにが起こったのか様子をうかがう。
両手はすでに拳をつくっており、おそらく秀介は、この世界に飛ばされて来て初めて狼狽していた。
「ふざけるな。ふざけるなよ……どこのどいつだか知らんが、ふざけた真似しやがって」
それから、深い呼吸を二つ。
それで平静を取り戻す。
まずは拳を開いて、前腕と肩から力を抜いた。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううううううううううううううううううう――」
もう一度肺の中を空っぽにして、神経を戦闘モードへ持っていく。
秀介が見つめたのは、落ちてきたドラゴンの死体ではない。
破壊の閃光に切り裂かれた青空だ。
じきにドラゴン殺しが現れるはずのその空間を、秀介はわずかな緊張と共に睨み付けていた。
「……拳が通用する相手とは思えんが……」
つぶやいた弱音。しかし、それはすぐに苦笑に変わった。
「いかんな……いかん。なに闘う気になっているんだ俺は。どうにかしてこの場を切り抜ければいいだけの話だろうが」
――――――
――――――
――――――
そして、逆光の中に現れたドラゴン殺しは、天使のようなシルエットをしていた。
スマートな人型に大きな光翼。高い空から、壊滅した集落を見下ろしている。
キィィィィィィイイイイイイイイ――という謎の高音が降りそそいで、ひどく耳障りだった。
ドラゴン殺しが、ゆっくりゆっくり地上に降りてくる。
「――うん?」
その時、秀介は重大すぎる事実に気付いたようだ。無防備に巨木の陰から身体を出した。
そして。
「やってくれるじゃないか!! この考えなしが!!」
空飛ぶドラゴン殺しにそう叫びかける。
彼女はすぐさまその声に気付き、「浅井くんっ!!」と空手家の名前を呼び返した。
うまい具合に風に乗って、華麗なライドを決めながら秀介の眼前に降下してくる。
完全には着地せず、地上五十センチで空中停止した。
――空野真琴。
空の彼方から現れたドラゴン殺しは、空の向こうから破邪の光を放った天使は……あの『有翼の鎧』に身を包んだ空野真琴であった。
二ヶ月ぶりに見る同級生の姿。だというのに、秀介は半分激怒していた。再開を喜ぶようなことはまったくしなかった。
腕を伸ばし真琴のマフラーを引っ掴むと、強引に引き寄せて、鬼のような形相を突き付けたのである。
「あんなものを落としやがって。どういう了見だ?」
しかし、今日の真琴は一切ひるまない。秀介に睨まれようとも、毅然としていた。
「どういう了見って……あたしは、あなたを助けてあげたのよ? あの竜はね、この村を狙ってたの。すべてを灰にしようとしていたのよ」
「なんだと? どうしてそう言い切れる?」
「あなたは知らないかもしれないけどね。ここは、“アイギス”が生まれた地。だから、どうしても不浄なる者を呼び寄せてしまうの」
「不浄なる、だと?」
「あなたが倒した小人とか、あたしが倒した竜とか。彼らは、神の座を汚そうとする存在なのよ。言ってみれば、神様の座っていた椅子を踏みにじっていい気になるような、意地汚い奴ら」
「だから殺したと?」
「ええ。だって、今にも炎を吐き出しそうだったもの。ほんとよ」
「……俺が、お前を待っているとは考えなかったのか?」
「ええと……そういうこともちょっとは考えたけど、あなたなら大丈夫だと思ったのよ。灼熱地獄以外なら生きていけると思ったから」
その言葉に表情を崩した秀介。
呆れたようにマフラーを離してやり、腰に手をやった。
「どういう理屈だよ。俺だって人間だ。空からドラゴンが落っこちてくりゃあ、押し潰されておしまいだ」
そして、二ヶ月ぶりの空野真琴をまじまじと見つめ。
「やれやれ。ずいぶん着こなしてるじゃないか。ホントに女神様になっちまったな」
一方、真琴は、上半身裸のひげ面に軽く引いていた。
「そういうあなたは、ますます原始人に近づいたみたいね。腰巻きだってそのままだし」
「どれだけ探しても、俺に合う服がなくてな。ちとスースーするが。まあ、慣れたさ」
「蹴り……」
「ん?」
「あなた、空手家なんだからキックとかもするわよね。その格好じゃあ、その度に見えちゃうんじゃないの? その……見えちゃいけないものとかが、さ――」
と、真琴からなにかが秀介へと投げ付けられた。布――服である。
「これは?」
「あなたでも着れる服よ。わざわざ縫ってもらったんだから、早く着て。見るに堪えないわ」
「ハハハ。こりゃあ、ありがたい。ふた月、ただ行方不明になってたわけじゃないんだな」
「それは――そのことは、またあとで話すわ。それよりもあなたは?」
そこで、真琴の足が地面に触れた。
鉄翼がたたまれると、羽根の間から噴出していた光がゆっくりと消え去り。
「あなたはこの二ヶ月間、なにをしてたの? あたしがいなくなって心配した?」
秀介の隣で、巨大ドラゴンの死体に押し潰された集落を眺め見る。
「いや、稽古をな。壁を叩いて拳を鍛えていた。お前のことは、頭の片隅には、な」
「ふぅん、思ったとおりの薄情者ね。その稽古って朝から晩まででしょう?」
「朝から晩までだ」
「陰湿ねえ。こんな世界に来ちゃったんだから、少しぐらい冒険すればいいのに」
「……こんな、世界か……」
「どうしたの?」
「いや。お前はこの世界を見てきたんだなって、そう思ってな。その空飛ぶ鎧でさ」
「“アクトマライト”」
「あく――なんのことだ?」
「あたしが着てる鎧の名前。この子がそう名乗ってくれたの。アクトマライト。こっちの世界の言葉だと、蒼天の嵐打ちって意味らしいけど」
「名乗ってくれたって……まるでその鎧自体に意思があるように言うのな」
「あるわよ」
「おう?」
「アクトマライトは人格を持った鎧なの。この世界にはそういう不思議なものが幾つもあって、神様として扱われているわ。人が造りし、人を超えし戦神――“アイギス”」
「神様、か。しかし、人間に使われてこその武器だろうに。それを神様扱いとはご大層なことだ。つくも神みたいなものか」
「あたしを地球から呼び出したのもこの子なんだってさ。アイギスに選ばれた人間を装者って呼ぶんだけど、気に入った相手がいなかったら、この世界だけじゃなくて他の世界からも引っぱって来るみたいね」
「ほう。そりゃあ確かに神様だな……お前とその鎧がお似合いなのもそういうわけか」
「そゆこと。まるで運命の出会い。赤い糸のカップル。ロミジュリみたいでしょう?」
「ふん……しかしよ、だったら俺は?」
「え?」
「もしかして俺は巻き込まれただけか? 鎧が必要としたのは、お前だけなんだろう?」
「あ……えと…………もしかしたら……そう、かもね……」
そこで。
「やはりな」
「や、やはり?」
秀介が潰れた集落に向かって歩き出した。
歩きながら、真琴の持ってきてくれた服に頭を通し、たっぷりとしたズボンに脚を入れた。
最後に腰巻きを外して、その場に放り投げる。
「やはり俺は、不運な脇役だったわけだ」
真琴は、三歩ほど遅れて彼を追いかける。
「ちょっと待ってよ。それ誤解だって! あたしだって望んで来たわけじゃないわ!」
「結果そうなったってんだろ? 知ってるさ。別に責めてるわけじゃない」
秀介が目指したのはドラゴンの死体だ。
瓦礫を乗り越え、塵とほこりをくぐり抜け、すでに動かなくなった超巨大ハ虫類に指を伸ばした。
硬く冷たい赤鱗に触れた瞬間。
「すごいな」
思わずそう漏らしてしまう。
ドラゴンの死体から感じ取ったのは、生前の存在感。
他の生物の追随を許さない圧倒的ポテンシャルに、秀介の本能が震えたのである。
こりゃあティー・レックスも形無しだなと、そう苦笑する。
そして――正拳突きを一発、本気の本気で撃ち込んでみた。
鈍い音が響く。
しかしながら「駄目だな。まったく拳が立たん」空手家の拳など、生前のドラゴンはものともしなかっただろう。
つまるところ、それほどの身体的性能差が、ホモ・サピエンスとドラゴンの間には横たわっているのであった。
「だのに、この女はよ……」
ボソリと呟き、空野真琴とアクトマライトの攻撃が当たった箇所をのぞいてみる。
「……ふざけてるな」
戦女神の一撃は、ものの見事にドラゴンの胴体を貫通していた。
穴の直径は一メートル。
鱗を溶かし、肉と内臓を蒸発させ、骨を粉砕し――あちら側の景色を確認することができた。
振り返り、真琴に苦笑を向ける。
「一瞬、空に青い光が見えたが。お前さん、なにをやった?」
「槍を投げたの」
「槍か……どう見てもレーザー光線だったけどな、あれは」
「そう? でも、見た目は、おしゃれな槍なのよ」
すると、真琴が右手を挙げ――青色の手甲から光があふれ出した。
「……おう……?」
光は徐々に形を為し、やがて、翼を持った投槍を形成する。
真琴が青空を狙ってそれを投げ付ければ――神の槍は一直線に空を昇り、雲を突破し、あっという間に見えなくなった。きっと、成層圏を貫いて、宇宙に飛び出したのだろう。
「……なるほど。天を突く稲妻か。まるでどこぞの最高神様だな」
「……最高神って、もしかしてギリシャ神話のゼウスのこと?」
「ああ。ケラウノスみたいだなって思ってな」
「なにそれ?」
「ゼウスが使う稲妻のことだよ。クロノス、テュポーンをしとめた実体なき破壊の槍」
「ふぅん。浅井くん、変なことに詳しいのね。もしかしてオタク?」
「まあ、知識の仕入れ先は主にラノベだけどな」
「あははっ♪ 浅井くん、実はそういう本読んでる人だったんだ。なんだか可愛いわね」
「そりゃあどうも」
可愛いなどと今まで言われたことのなかった秀介、似合わない言葉に戸惑ったのだろう。
照れ隠しに、ドラゴンの死体に前蹴りを入れてみる。
足指の付け根――上足底を当てる貫通力のある蹴りが、ようやくドラゴンの鱗を一枚叩き割った。
「それじゃあ行く?」
真琴にうながされ、「行くって、どこへだ?」彼女に振り向けば。
「町」
アクトマライトという名の美鎧が翼を広げ、翼の間から青く光る粒子があふれていた。
すでに飛行体勢だ。
「近くに大きな町があるのよ。ここグチャグチャになっちゃったし、そろそろあなたもゆっくり休みたい頃でしょう? 宿とってあげてるからさ」
「おう。そりゃあ気前のいいことだ。しかし、いいのか?」
「なにが?」
「俺は、なんでここが無人になったのか、そこんとこが気になってるんだがな。まるで村人全員が神隠しに遭ったみたいな、な」
「あー、うん。それはさ――」
「なんだ。知っているのか」
「それは、浅井くんの言葉どおり。『神隠し』で正解なんだけどね」
そして真琴は秀介の次なる発言を許さず、彼の太い手首を取った。
「おう――?」
どこかから取り出した布切れを使って自分の手首と秀介の手首をキツく結ぶと。
「ごめん。舌噛まないでね」
そのまま二人して一気に飛び上がる。
上空千メートルまで垂直に舞い上がり、白雲の真下で直角移動。南の方角へと進路を取った。
まるで矢のように青空を切り裂いていく。
このうえなく乱暴な空中疾走。速度は亜音速程度。
「う――――――――――――おおッ!?」
慣れない空中と慣れない速度に秀介はまるで動けず。同級生の少女にエスコートされるがまま、彫像のように硬直していた。
生身での亜音速飛行に付き合わされるなんて話、聞いていない。
アクトマライトを装着した真琴が何らかの力場を用いて空気抵抗と遠心力を制御していなければ、秀介の五体はバラバラになってしまっていただろう。
同じようにこの世界に飛ばされてきた二人の男女。
しかし大いなる運命が選んだのは、そのうち少女ただ一人。
長いようで短い二ヶ月間――浅井秀介がたった一人、必死に生き延びている間――空野真琴は本当の神様になっていた。
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