彼を追い立てた悪夢
「……ん……?」
その異変に気付いたのは、
うっすらとまぶたを持ち上げ、世界の明るさを確認する。
暗い。
月明かりぐらいしかない。
時刻は定かではないが、まだ夜が終わっていないということだけは確かだった。
あぁ、そっか……セシリアとしゃべってたらいつの間にか寝ちゃってたのね……。
そんなことをぼんやり考えながら、
鉄製の鎧とはいえ、さすがは神と称されるほどの生きた武具。
驚くべきことに
胸当てに頬をすり寄せ、再び眠りに落ちようとしたその時。
「――浅井くん?」
突然、真琴がゴソゴソと上体を起こす。
偶然視界に入った部屋の隅で、なにかが光った気がしたからだ。
「……浅井くん……どうしたの……?」
それは、浅井秀介の瞳に反射した月光である。
窓から入り込んだ月明かりが、部屋の隅まで届き、絨毯の上で三角座りをしている秀介を薄く照らしていた。
「……浅井く――」
真琴が言葉を失ったのも、無理はない。
あの無敵の空手家が……あの
あきらかになにかに恐怖しているようであった
拳ダコの目立つ大きな手が、まるでおびえた子供のように毛布にしがみついている。
「浅井くん……」
秀介の身に一体なにが起こったのか、真琴には少しも見当が付かなかった。
彼は三人の中で最も早く就寝し、真琴とセシリアが
てっきりそのまま朝まで眠り続けるものだと思っていたが……こんな誰もが寝静まった真夜中、声も上げずに一人で震えているとは、ただごとではあるまい。
……浅井くん……一体なにをこわがって…………。
わけもわからぬまま、ふぅっと小さくため息をついた真琴。
「浅井くん」
まるで母親が幼子に語りかけるような柔らかさで、彼の名前を呼んだ。
真琴に向いた秀介は、まるで別人のような表情。
いつもの――ぶっきらぼうで、気が利かず、自分のこと以外はなに一つ関心を示さない、しかし不動明王のような荒々しさを心中に秘めた
普通の一七歳。一人ではなにもできず、周囲の反応ばかりをうかがい、そのうえで精一杯強がっているような、幼い思春期の顔であった。
「………………空野………………」
迫り来る恐怖と不安。どうしようもなくて、途方に暮れる。
強大な不安にさいなまれる浅井秀介に、真琴の心が反応しないわけがなかった。
しばらく思案した後。
柔らかいため息と共にベッドを下りる。
ボディラインがうすら透けるネグリジェ姿を月光にさらしながら、秀介のそばに立ち。
「ほら」
白磁のごとき手を差し出した。
対する秀介は、まるで傷ついた野生動物のような反応だ。過度に警戒した眼差しで真琴を見上げ。
「……………………」
美しい手を取るかどうか決めあぐねている。
ひゅる――
その瞬間、薄青のネグリジェのすそが舞い上がり、真琴の右足が
――鞭を振るようなミドルキック。
人を蹴ったことのない綺麗な足が、秀介の顔面を急襲する。
しかし。
「――――」
当然のごとくスカを喰らった。
だが、真琴の素人蹴りを
あの程度の蹴り――普段の秀介ならば、鼻先三ミリで避けて、すぐさま反撃の寸止めを繰り出していたことだろう。
間違っても三メートル
「捕まえた♪」
蹴りが当たらないことなど百も承知だった真琴に捉えられることはなかったはずだ。
抜群の運動神経から繰り出された本命タックル。
秀介の両脇に腕を差し込み、がっちりとホールドする。
「くっ――」
これに慌てふためいたのが、秀介だった。
まさか格闘技の素人にここまで綺麗なタックルを決められるとは思っていなかったのだろう。
ほとんど反射的に、真琴の細い首に肘鉄を落とそうとして。
「――こわい夢でも見たの?」
という穏やかな声色に、ビクリッ――と動きを止める。
「………………」
「………………」
真琴のそれは、タックルではなかった。
それは、ただの――ただの、愛情を込めた抱き付きだった。
そのことに気付いた瞬間。
「……やれやれ…………とんだ大馬鹿者だな……俺は…………」
だらりと秀介の両腕が落ちた。
理性を失っていたとはいえ、心優しい女の子を本気で殺そうとしてしまった愚行。
秀介は信じられないという表情で己が拳を見つめ、自身の未熟さを嘆こうとしたが。
「さてと――すっごい月夜だし、お月見でもしようか?」
真琴が秀介の手を強引に引いて歩き出した。
途中で先ほどまで秀介がくるまっていた毛布を拾い上げ、テラスへと続く大窓を開ける。
「さむっ」
冷たい夜風に肩を振るわせながら。
「や~~。ほんと、こわいくらいに綺麗なお月様ね。地球とは、色も大きさも段違いだわ」
真琴は、広いテラスに置いてあった三人掛けの木製ベンチに腰を下ろした。
無論、ただのベンチではない。
背もたれや肘置きに
「ほら。浅井くんも座ってよ。寒いじゃん」
「いや、俺は…………」
「いいから座れ。筋肉の無駄遣いしてんじゃないっての。浅井くんの方があたしよりも体温高いんだから、さっさと熱をよこしてよ」
「あ……ああ……すまん」
とまどう秀介をむりやり隣に座らせた真琴。
「うッ――ちょっ、ちょっと狭すぎるかなぁ。とりあえず、浅井くんがデカすぎるよね?」
明るく苦笑しながら毛布を広げ、己と秀介の身体にそれを巻き付けた。
「ん。暖かいね」
「……そうだな……」
二人仲良く肩を寄せ合いながら満天の星空と明るい蒼月を仰ぎ。
「………………」
「………………」
それからは、しばしの沈黙。
「………………」
「………………」
不意に。
「浅井くんの身体は、熱いねぇ……火傷しそう……」
真琴がそんなことを呟いた。
応える秀介はどこか遠慮がちだった。夜風にまぎれてしまいそうなかすれ声で謝罪する。
「悪かったな。こんな真夜中に起こしちまって……デカイ図体して、悪夢にうなされるなんざ、ザマぁなかった。好きなだけ笑ってくれ」
「バカ。そんなことしないわよ」
「そうか」
立派な蒼月は天高く、おそらく夜半を過ぎた辺りだろう。
「………………」
「………………」
テラスから望むことのできる街並みに灯りはなく、生活音とてどこからも聞こえない、
「………………」
「………………」
薄闇をともなった月明かりと冬の気配を引き連れた夜風だけが、静寂なる夜更けを謳歌していた。
「………………」
「………………」
山麓に築かれた都市の全景――それは、周囲を高い壁で囲った要塞都市だ。
壁の外に広がっているのは、豊かな耕作地と穏やかな大自然。
この平和な町が、いつからその戦闘機能を失ったかは定かではない。
だが、過去に大きな戦いがあったことだけは確かだろう。
大きくえぐれたまま放置されている西方の壁――それは、大量の火薬を用いた砲撃による傷跡だと推測できた。
「………………」
「………………」
「ねえ。浅井くん……?」
「……おう……」
「一体さ……どんな夢を?」
「別に。ただの――子供の頃からのつまらないトラウマだよ」
「トラウマ、ね。言いたくなければ、それでもいいわ」
「なら言わん」
「浅井くん? あたしは今、あなたの同級生・空野真琴じゃなくて、神様・空野真琴としてここにいるつもり。だからね――」
「辛いことは神様に吐き出してみろ、か?」
「ま、ね。つまりはそういうこと」
「やれやれ……ずいぶんと強引な神様だ。俺の同級生と同じ顔で、俺に信心を求めるとはよ」
「この顔じゃあ、納得できない?」
「誰にだって人に言えない秘密はあるだろう? 俺もそうだ。そう易々とは、な」
「ふぅん……ずいぶんと根が深そうね」
「かもしれんな」
「誰にも言えなくて、辛い思いもした?」
「かもしれんな」
「もしも吐き出せれば、少しは楽になれそう?」
「……かも、しれんな」
「そう…………じゃあ……本気、出すしかないなぁ……」
「おう? 本気だと――?」
その時、ひときわ強い夜風が吹き抜け――次の瞬間、空野真琴は、秀介の知っている少女ではなくなっていた。
秀介の第六感が違和感を覚え、同じ毛布にくるまっているはずの同級生に視線を回すが。
「――な――ッ?」
月を仰ぎ続けるその横顔――その冷たい表情は、地球生まれの女子高生のものではなかった。
いつの間にか、まごうことなき美の女神が降臨していたのである。
「……空野…………お、前…………」
冷え込んだ夜の空気に時折現れる白い吐息。
ゾッとするほどに底知れない深緑光をたたえた切れ長の双眸。
少女のようなあどけなさと淫婦のような妖しさを兼ね備えた、艶やかな口元。
その、人間という種を超越したあらざる美貌は、絶対的美しさと神的カリスマを謳い――それこそ、どこぞの猿から進化した生き物とは思えないほどに永遠普遍的であった。
一体なにが空野真琴を女神たらしめているか……それは定かではない。
だが、しかし。
今の空野真琴と浅井秀介では、明らかに生命体としての存在次元が違っていた。
とはいっても――である。
「あー。もう無理」
空野真琴、渾身のキメ顔は一〇秒足らずで終了してしまう。
「はふぅ……すごく神経使うのよね、神様モードって」
それでも。
「…………空野…………お前…………」
たっぷりと一〇秒間、真なる女神を目の当たりにした秀介は、しばし表情を失っていた。
すぐさまあきれたような苦笑をつくって言った。
「やれやれ。そんなに俺なんかを救いたいのかよ?」
「多分ね。あんな弱った姿を見せられて、なにもしないほど薄情な女じゃないわ」
「そうか、物好きだな」
「神様なんて、大体そんなものよ。特に、あたしみたいな――なんだかよくわからないうちに世界の運命を押しつけられた成り上がりは。特にね」
「……神、か……」
「そう。地球にいるどんな神様よりも、心配性な、ね」
「……そうか」
「うん」
「………………」
「………………」
「……なら……せっかく、本物の女神様が顔を出してくれたことだしな……」
すると、秀介がおずおずと肩をすぼめた。
最強の空手王者らしくない仕草であった。まるで臆病な少年のような、である。
元々ふれあっていた肩と肩。
しかし。
「今夜だけは、好きなだけ甘えてくれていいから」
毛布の中でモゾモゾと動いた真琴が、ふわふわの乳房を押しつけるようにくっついてきた。
「……おう……?」
「……ん……」
己が半身と彼の半身が重なり合う抱擁。
互いの体温を感じ合いながら、秀介と真琴は二人仲良く苦笑する。
「やれやれ。俺もヤキが回ったもんだ。異世界に飛ばされて、神なんぞにトラウマを語るかよ」
「こんな月夜だもの。どんな男だって、気を
浅井秀介。
空野真琴。
地球にいた頃、二人はまったくの他人だった。
それぞれ超有名人だったから、お互いの名前ぐらいは知っていたが、その程度だ。言葉を交わしたことさえなかった。
初めての邂逅が、空野真琴のあの右ストレートである。
運命的な出会いとは言いがたく、恋や愛なんぞ生まれようがなかった。
それがなんの因果か、二人して異世界に連行され――その内一人は神様になって、一人はただの空手家のまま。
神様になってしまった優しい少女は、離ればなれになっている間、ずっとずっと若き空手家のことが気になっていたのだ。
一刻も早く彼の元に帰ってやらねばと、あたしこそが彼の救い主になってやらねばと思っていたのだ。
それなのに
秀介の生存を確認した時は、心底ホッとした。
どんな感情であれ、一四四〇時間余りもの想いを募らせた相手である。
もはや他人とは言い難く……ちょっとした顔見知り、ただの友人とも少し違っていた。
「それで? 一体なににおびえて?」
「……おう……」
そして、しばしのためらいの後。
「殺される夢を、な…………見も知らぬ誰かに嬲り殺される夢を見たんだ」
浅井秀介の落ち着き払ったハスキーボイスが、夜闇の中にゆっくりと溶け込み始めた。
「必死で抵抗して、必死で逃げようとして――それでも身体をグチャグチャにされてよ」
月はさらに明るさを増したようだ。
「この俺が、助けてくださいって、命だけは勘弁してくださいって、ギャアギャア泣きわめくんだ。デカイ図体のまま、小便を漏らしながらな」
蒼色に染まったちぎれ雲が天空を泳いでいる。
「恐怖だぞ? 丹念に身体を壊されていくっていうのは。地面に転がった腕や脚には未練があるし。むりやり眼球を掴み出される時なんて、神経と
「………………」
「まったく、命を削られていく恐怖というのは――背筋が凍るよな」
山麓の都市は、相変わらず無言を貫いていた。
「五つの頃だったか、こんな夢をよく見るようになったのは。それから数えきれぬ数遭遇してきた悪夢……俺が空手なんぞに手を出したのも、強くなりたかったからだ。強くなって、俺を殺す誰かに一矢報いたいと思ったからだ」
「……そっか……」
「結局、今夜も無力に終わったがな……」
こんな静かすぎる夜更け――もしかしたら、この瞬間、蒼月を見上げているのは秀介と真琴だけかもしれない。
「どれだけ身体を鍛えても、どれだけ技を磨いても……どれだけ、人を倒しても……夢の中ではなにもできないまま殺される。笑われながら、逃げることもできずに、無様に殺される」
遠慮がちな告白を黙って聞いていた真琴だが、ふと耐えきれなくなったように一言呟いた。
「……壮絶ね…………でも――」
「たかが夢。それぐらいわかっているさ」
「割り切れないの……? どうしても」
「本能どもが騒ぎ立てるからな。それに、多分……近いうちに現実になるだろうし」
「バカ。どんな悪夢だって、しょせんは夢じゃない」
「違う。俺が見てきたのは、ただの夢じゃない。正夢だ。それぐらいわかってるんだよ。俺を殺す野郎の顔は見えないが……夢の場所は、地球じゃないんだから」
「――え?」
「剣と魔法のファンタジー……だろうな。ドラゴンが飛び交い、広い大地には見たこともない生物の群れ。それが、俺の最期の場所だ」
「――――ッ」
途端、真琴の呼吸がわずかに乱れた。
「……そうだったのね。それであなた……あたしたちがこの世界に来ることを知って――」
小さくうなずいた秀介に、真琴は思う。
浅井君の強さは、未知なる死への不安と恐怖、その裏返しだったのね――と。
あたしたち二人がこの世界に連れてこられたあの日……あたしが無性に強くなりたいと思ったのと同じで、浅井君は幼い頃からそれを感じていたのか。あたしよりも、ずっとずっとはっきりとした、確信として。
「おそらくは俺の生存本能が見せた予知夢。おそろしく現実味のある悪夢。いつか俺を殺すであろう未来への恐怖――それでも救ってくれるかい? 神様」
自嘲気味に笑った秀介。
そんな彼の首に腕を回した真琴は、そのたくましすぎる大男を全身で抱きしめながら言った。
「当たり前よ」
浅井秀介が自らの人生を削って身に付けた力と。
空野真琴が手に入れることを運命付けられた力。
もしも両者の運命に価値を付けるとするならば、その差は、天と地ほどもかけ離れたものになるに違いない。
途端、秀介の巨躯が儚いものに思えてきて、真琴は彼を抱く腕に力をこめた。
「守ってあげるわ。こわい夢からも、こわい現実からも」
そして、素の浅井秀介へ向けた、女神らしい一言。
「臆病なあなたは、誰かに守ってもらいたくて。でもそんな人いなくて――だから、必死にあがくしかなかったんでしょう?」
心の奥底に隠してきた弱音のすべてを言い当てられた今、秀介は強がる理由をなくし。
「…………かもしれん、な…………」
少しだけ――ほんの少しだけ、泣いてしまいそうだった。
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