優しき黄昏
風呂からあがった秀介は、ヒゲのなくなった顎をさすりながら、「ちょっと外歩いてくる」と町に繰り出した。
どうやら、散策を通じて異世界の有り様を探ろうとしたようだが……宿に戻ってきたのは黄昏前。
紫の空を背負いながらの帰還ではあったものの、愛らしいベルボーイ以外は誰も出迎えてくれなかった。仕方がない。真琴とセシリア、共にバタバタしていたのだから。
「待ちなさいってば! いくらなんでも汗くさい女子なんてありえないわよぅ!」
右手の治療を終えたセシリアを風呂に入れたい空野真琴と。
「装着者に
真琴と一緒の入浴を遠慮しているセシリアの追いかけっこが繰り広げられていたのだった。
「バカ言わないでっ! 片手使えないのに、どうやって身体洗うつもりよ!? あたしたちみたいなティーンエイジャーは、匂いだって武器なんだからね!?」
どこの王宮かと見まごうばかりの巨大な宿泊施設。その石床を縦横無尽に全力疾走していた乙女二人。
四階建ての最上階――真琴が用意したスイートルームに戻ろうと階段を登っていた秀介の目の前でも、黒の長髪と金のミドルヘアーが舞い踊り、すぐさまどこかへ消えてしまった。
「……なにやってんだ……?」
あくびを噛み殺してから、女の騒ぎ声に顔をしかめた秀介。
部屋に戻るとぶ厚い絨毯に拳を立てて、いつもの拳立て伏せだ。
三五〇回を超えた辺りで、セシリアを捕まえた真琴が戻ってきた。
「あら浅井くん。おかえりなさい。なにやってんの?」
「ご覧の通り、筋トレ……つまらない日課だよ」
「ふうん。あんまり汗散らさないでね」
「わかってる」
「町見てきたんでしょ? どうだった? ちょっとは異世界ってのものが掴めたかしら?」
「いや。人間がいるところはどこも似たようなものだな。地球もこの世界も、よ」
「じゃあ、成果なし?」
「おう」
「まあ。そのうち嫌でも思い知ることになると思うわ。いつまでもこの町にいるわけにもいかないしね。
「…………なあ空野よ。そういやお前……俺が風呂から出たとき、なんかキャーキャー騒いでたろ? あの時は無視して散歩に出ちまったが……なにかあったのか?」
「――はあ? なにかあったのか? じゃないわよ。そうだったわ。忘れるところだった。あなたってば、本っ当に自分のことばっかりよね。こっちはめちゃくちゃ大変だったんだからね。あなたとケンカした後、
「知らんな」
「やっぱりあたしのビンタがいけなかったのかな?
「知らん」
そして、乙女二人は風呂に入り、秀介の拳立て伏せはすでに四〇〇回を超えている。
やがて「そういえばこのお湯って浅井くんが入ったあとじゃん!に……妊娠しないかなぁ」とか「――っ、そんなところ! 自分で洗うから!」などと黄色い声が聞こえ始め。
不意に。
「……そうか……」
拳立て伏せの体勢のまま、秀介が顔を持ち上げた。
厳しい顔付きで見つめた先は、ベッドの上に安置されていた
バラバラに崩されていてもなお美しい、蒼鉄の造形物。
かすかに熱を帯びてきた低い声が、物言わぬ鎧に一言言い放った。
「そうか。俺をこわがってくれるかよ……」
空は黒紫よりさらに深く深く色を落とし、漆黒へと姿を変えようとしていた。
暗い室内に入り込んでくる風は冷たさを増し、そろそろ窓を閉めた方がいいだろう。
………………。
………………。
………………。
「ちょっと長湯しすぎちゃったかなぁ。なんかフラフラしてる……セシリアぁ肩貸してよ」
「風呂の中で大暴れするからだ。足もと気を付けて。酔っぱらいみたいになってる」
「なによう。あなたが大人しくしてれば、のぼせることなんかなかったんだからね」
「そ、それは、あれだ。真琴の手付き……なんかいやらしかったんだよ……」
湯気を立ちのぼらせた真琴とセシリアが現れた頃には、秀介は部屋の隅に移って柔軟体操の真っ最中。
思わず真琴の唇から「――きゃ」と悲鳴がもれた。
眼前の暗闇の中――股割りをしている大男が潜んでいれば、そりゃあ驚くだろう。茹で上がった頭も一気に凍り付いたらしい。
「ばっ、バッカ!! なにがいるかと思ったわよ!?」
電気文明というものがいまだに生まれていない――地球でいえば中世のようなこの世界、明かりといえば炎が生み出す優しい橙色だけであった。
壁に設けられた燭台に火を付けた真琴は、二つあるベッドの内、窓に近い方に腰かけてから言った。
「あたしはこのベッドで
あからさまな待遇の違いに、静かな抗議があがる。
「俺だって久しぶりに身体をいたわってやりたいんだが」
「え? あ、あたしはごめんだからね。あなたと一緒のベッドで寝るなんて」
真琴が、どうする? といった表情でセシリアの方を向くが、水気の残る金髪を弄っていた彼女も「無理」とあっさり首を振った。
そこですっくと立ち上がった秀介。
真琴のベッドから毛布だけを抜き取り。
「お前ら二人が、同じベッドで寝りゃあいい話だけだろうが。女子同士、いつの間にか仲良くなってんならよ」
先ほどまで柔軟体操をしていた部屋の隅に放り投げた。
「ちょっと。布団取らないでよ。ここ、夜は結構冷え込むのよ?」
「上等な羽布団が残ってるだろ? これぐらい分けてくれても、
「はあ? ったく、しょうがないわねえ。あとで毛布を追加してもらうよう、頼んどくわ。それよりも夕飯どうする? ルームサービスでいいかしら? 風呂上がりだし……えーと……セシリアもいるし……」
するとセシリアが気まずそうに軽くうつむき、秀介が薄く笑い始めた。
「まあ、昼間にあんな騒動を起こしたばかりだ。外を歩くのはまだまだ危険だな。俺は構わんぞ? たらふく肉が食えるんなら、それ以上は望まない」
思ったとおりの秀介の言葉に、真琴は苦笑である。
「相変わらずの肉食ねえ。ちゃんと野菜も食べるのよ? じゃあ、セシリアは?」
「わ、私か?」
「そっ。食べたいものがあるなら言ってちょうだい。単品からフルコース、魚介、獣肉、山菜、ゲテモノまで、なんでも有りよ」
「わ、私は……真琴と同じなら……なんでも、いい……」
「遠慮しないでよ。ここは浅井くんの図太さを見習いなって。彼、私の同級生ってだけの男なのに、めちゃくちゃがめついんだよ?」
「いいんだ。やっぱり私は、真琴と同じものを食べたい、と思う」
「そう。なら、そうしましょう」
秀介に向き直った真琴は、秀介が引いてしまうほどのほころび顔だった。
「浅井くん、今の聞いた? この子かわいい。すごくいい」
「俺に意見を求めるな。よくわからん」
――――――
それから三人で、料理の並んだテーブルを囲み。
「あたしたち地球っていう世界から連れて来られたの。それでさ、セシリアは聞いたことないかな? あたしたちみたいに、別の世界から来た人間のこと」
「別の世界……? そうだな……そういう装着者がいるって噂だけなら」
「うー。そっか、ありがと。異世界に飛ばされてきたのはいいものの、いまいちなにをすればいいかよくわからないのよねぇ。エオスも、そこんところは自分で考えなさいって、冷たいし」
「おいおい。しっかりしてくれよ。俺なんてお前の巻き添えを喰っただけで、立場や目的は、お前以上に宙ぶらりんなんだぞ?」
「わかってるわ。でも、
「最果ての獣? それが、俺があの時しとめられなかった怪物の名かよ?」
「エオスの話じゃあ、アイギスの産声に反応する生き物みたいだけどね。今はまだ、それ以上のことは……」
「ふむ……結局わからんことだらけか。やれやれ。厄介なことだ」
「……あの……エオスって、もしかして、灯火の誓約者・エオス=カーラカーラ=ドナクラナ?
「虚神に墓長? ああ。そういえば彼女、死霊退治が専門だって言ってたわね」
「知り合い?」
「んー。一応、師匠って言えるのかなあ? なにも知らなかったあたしにこの世界の有り様と装着者ってものを叩き込んでくれた人」
「……死人が打った剣を持ってるって聞いたことがある……」
「はあ? セシリアったらそんなのが欲しいの? でも多分、あなたが持ってる竜の剣の方が強いと思うわよ? あたしもチラッと見たけど、臭いし、変な形だし、切れ味悪そうだし、病気になりそうなぐらい臭いし。アイギスに通用するようなものじゃないわ」
そんなことを話しながら、食事を進めていく。
かなりの量を注文したはずだが、そのほとんどを腹に収めたのは、やはり秀介であった。
あれよあれよという間に、大皿に載った料理の八割方を平らげた。たった一人で、だ。あきらかに食い過ぎである。
「――ふぅうー。喰ったなあ」
「バカ。食べ過ぎよ。セシリア、大丈夫? ちゃんと食べられた? お腹減ってない?」
心配そうな顔をした真琴。
セシリアは彼女の方を向くことなく、水を一飲みする。コクンッと小さくうなずいた。
「私は……あまり、食べられないから……」
「そう。なら、いいけど」
そして秀介が立ち上がり、「ごっそさん。じゃあ俺は寝るから」と毛布にくるまり始めた。
「は? もう?」とは食器を片付けようとしていた真琴の言である。
「食事から寝るまでのスピードが、動物レベルだ……」
セシリアも、興味深そうに秀介の行動を観察し始める。
セシリアの知らない戦闘技術を用いるこの巨漢……生き方そのものが、人間よりも山野に生きる獣に近しい気がした。
「相変わらずつっまんない男ね。少しはおしゃべりに参加しなさいよ」
「お断りだ。女子二人でやってろ。俺みたいなのが混ざっても面白くないだろ」
「またそんなこと言って。親睦を深めようって気はないわけ?」
「親睦か。またいらないことを言って、空野を怒らせてしまいそうだしな……それに俺はもう――」
生まれたての子猫のように丸まって、ゆっくりと目蓋を下ろした秀介。
「……それに、なによ?」
真琴が秀介の次なる言葉を待ったのは、わずか数瞬。
不意に、秀介の呼吸が変化したことに気が付いた。「浅井くん?」と毛布の小山に歩み寄って、深いため息をつく。
「あきれた人。本気で寝ちゃってるわ」
しゃがみ込んで、「…………でも……そうね――」秀介の短い髪に指を伸ばした。
浅井秀介と空野真琴はただの同級生である。
親友でも、恋人でもなければ、当然家族でもない。
それなのに真琴は秀介の頭を撫で回す。異常と呼べるまでの愛情と優しさを込めながら――くしゃくしゃと。
「疲れてたのよね……そうよ。たった一人で生きてきたんだものね。この二ヶ月、ただの人間が、必死になって」
その姿は、慈悲深き女神か慈愛の聖母そのものだった。
断じて思春期の女子などという自分本位な生き物ではない。
「……真琴……」
同性のセシリアでさえ、その女性的・献身的な美しさに見惚れ。
歴戦の空手家でさえ、頭部をいいように撫で回されているというのに、一向に目覚める気配を見せなかった。
「おやすみなさい。どうかいい夢を」
はたして、いつの間に、空野真琴にこれほどの変化が訪れていたのだろう。
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