じゃれ合いの朝

 その日の早朝稽古は、熾烈を極めた。


 基本稽古・型稽古・空打ち稽古とやっていることはいつもと同じだが……ただ一つ、秀介の気迫が違ったのだ。

 鬼気迫るというか、鬼をも殺すというか…………昨日セシリアが林檎樹の守り手リカンオリアの装着者に向けた殺気が、かわいく思えてくるほどの代物であった。


 秀介の周囲に漂う空気だけが凍てついている。

 花壇に植えられた花々が、今にもしおれてしまいそうだった。


「ふ――」


 ホテルの中庭で死力を尽くす空手家から発される音は、素足が土の地面を滑る音、拳と足が空気を叩く音、そして平生と大差ない呼吸音だけだ。


 実戦を意識しているのだろう。

 無駄な気合いなど一つもなく、最小限の動きから最大限の攻撃力を引っぱり出す。


 空打ち稽古。


 秀介の想像力の中――正面からナイフで突いてきた相手の手首を中段内受けで砕き、心臓への正拳逆突き。胸骨を粉砕し、その破片で脈打つ心臓をズタズタにした。


 続いて背後でナタを振り上げていた相手に反応する。

 そいつは仲間が絶命したことを目の当たりにしたために、若干の思考停止。その隙を狙って、秀介はバックステップを踏んだ。

 裏拳。

 左の爪先だけが接地するという不安定な体勢からの旋回式裏拳バックハンドブロー。一二〇キロという質量としなやかな筋肉が生み出した圧倒的回転力によって、固く握った拳を振り抜いた。

 その一撃が、敵の首根っこを引っこ抜いたのはいうまでもない。


 そして驚くべきは、次の瞬間。

 次の瞬間、秀介はなにごともなかったかのように自然体に戻っていた。


 高速回転するコマほど姿勢が崩れなくなるのと同じ原理である。

 あれほどの大技を繰り出したというのに、この安定感。

 それは、浅井秀介という非凡な空手家が、不安定を使いこなしているということに他ならなかった。


 しっかり構えた状態から威力のある突き蹴りが打てるというだけでは三流である。

 どんな技を繰り出したとしても、盤石の構えを崩さないというだけでは二流である。

 一流とは、刻々と変化する闘争において――時に堂々たる技を振るい、時に不安定なりの破壊力・速度に身を任せるという――底なしの戦い方をするものである。


「すごい動きだな」


 突然声が生まれた方を向いた秀介。

 セシリアが廊下から稽古を眺めていたことには、とっくの昔に気付いていた。


 二人のはるか上空に広がっているのは、朝らしい薄空色である。

 筋雲が高い空をゆっくりと流れていく様が美しい。きっと今日も一日晴れるだろう。


「……おう……もう、行くのか?」

 汗で重くなった黒の木綿シャツを脱ぎながら、秀介が言った。

 あらわになった上半身はいまだ汗にまみれており、湯気が立ちのぼっている。


「この町を出るのか?」

 常軌を逸した肉体に思わず言葉を失ったセシリアに再度投げかけられた問い。


 彼女はマフラーを巻いて、タンクトップに黒袴姿。腰には一本になってしまった大刀を差している。

 つまり、昨日と同じ姿であった。

 今すぐにでも旅に出かけられる格好だ。


「空野の奴はまだ眠っていただろう?」

「……ああ」

「あいさつはしていかないのか? 黙って出ていっても、あいつはなにも言わんだろうが……甘ちゃんだからな。いつの間にかお前さんがいなくなっていたら、悲しむだろうよ」


 苦笑しながらの秀介の言葉に、セシリアは首を傾げた。


「…………昨日か……?」

「おう?」

「昨日、なにかあったのか? お前が真琴のことを気にするなんて」

「……まあ、なんというかな――」


 秀介は返答代わりに、上段回し蹴りの空打ちを一発。

 膝が伸びきった瞬間にピタリと止めて、そのまま五秒キープ。静かに足を下ろす。


 苦笑いと照れ笑いが入り混じった微妙な表情で、うつむながら言葉を紡いだ。


「……まあ、ちょっとな……トラウマに付き合ってもらってたんだ。情けないことによ」

「そうか……よくわからないけど、やっぱり真琴はいい女だな」

「ああ、そうだな。おせっかいで、変な奴だが……俺もそれに異論はない」


 そして二人して。

「ふふふっ」

「はははっ」

 薄く口端を持ち上げた。


「それじゃあ。またどこかで」

 と言って、立ち去ろうとするセシリアを呼び止めたのは言葉ではなかった。


「痛――っ」

 彼女の肩に命中した小さな石ころだ。


 犯人は秀介。足下にあったそれを、足指の力だけでセシリアのところまで弾き飛ばしたのである。


「どうだ? 旅立ちの前に少し遊んでいかないか?」

「……それは、手合わせしたいというか? 馬鹿な。私はまだ右手がイカレてる」

「はっ。両利きのくせに、なめたことを言うなよ。怪我させないって約束してやるから、こっち来い。多分、これからお前が進む剣の道、その中でいつか役に立つと思うぞ」

「……役に立つ、か……強情な男だ……」


 やれやれと言った顔で庭に下りてくるセシリアを、秀介はいつもの自然体で迎える。


 カチャリ


 鞘から顔を出した白刃が朝陽を反射しても、なんら緊張した様子はなかった。


「ところで、私が両利きだといつ気付いた?」

「初っ端から。発達した肩の筋肉を見た時に、な。お前さ、二刀を持つこともあるだろ? 本来的には一刀流っぽいがな」

「本身でやるが、それで問題ないか?」

「無論。お前の刀がナマクラなら、手合わせになるものかよ」

「本気でいくぞ?」

「おう。寸止めは無用だ」


 一辺二〇メートル程度の四角い庭。巨大なリングにも見える中庭の中央で相対した秀介とセシリア。向き合う二人は、その間に三メートルほどの距離を置いた。


 空手と剣術。

 危険な他流試合の始まりである。


 左手一本で正眼に構えたセシリアが言った。

「開始の合図は?」

「そうだな。じゃあ、今から開始ってことにしようか」

「承知した」


 しかし、二人ともすぐには動かない。


 秀介はやや半身になり、右手・右足を前にしている。一見、構えているようには見えなかった。ぼーっと突っ立っているだけに見えた。

 セシリアは正眼を崩さない。鋭い切っ先を秀介に向け、いつでも斬りかかれる体勢だ。


 ………………。


 とてつもなく静かな時間。

 しかし、背筋が震えるほどの緊張感に満ちあふれていた。


 セシリアが先手を取らない理由――それはやはり、昨日の立ち会いを意識しているためであった。

 あの時は考えなしに突っ込んで反撃を喰らったが……だからこそ、今回は〝後の先〟を狙っている。秀介が踏み込んでくる瞬間を狙って切り捨てるつもりだ。


 一向に動かない二人。


 緊張に震え始めたセシリアのまつげ。

 やがて根負けした彼女がまばたきをした直後、彼女の顔面に拳が突き付けられていた。


「はや――っ!?」

 寸止めの上段突きである。

 突然出現した異形の拳に女剣士は驚愕し、バックステップともに刀を振ろうとする。


 しかし、そんな気の抜けた斬撃が秀介に通用するわけがない。

 すでに十分距離を詰めていた空手家は逃げたセシリアをまっすぐ追いかけ、彼女の懐の中に入り込んだ。


 キスさえも可能な至近距離。

 そこは、白刃の届かない安全地帯である。

 右手でセシリアの左肘を押さえると、空いた左腕をごうと一閃した。


 打ち下ろされた肘打ち。

 過剰な殺傷力を有した鋭い打撃が、セシリアのこめかみに激突する刹那、ビタリッと急停止する。


「よし。もう一本やろうか」

 いつの間にか、秀介の目付きが肉食獣のものに変わっていた。


「お前、その目――」

「やろうか?」


 獰猛で、容赦なく、どこまでも冷たい目だ。

 決して満たされることのない猛獣の目だ。

 一体どれほど己を律すれば、こんな人間離れした目をすることができるのだろう。


 セシリアはぶるりと背中を震わせたが、「……ああ。もう一本だ」逃げなかった。

 再度、秀介と向かい合う。


「いッッやああああああああああああああああああああああ!!」


 今度は先手を取った。秀介相手に〝後の先〟を狙う愚かさに気付いたのだろう。


 深く踏み込つつの面打ち。

 基本中の基本と言える技だが、だからこそ練度がものを言う。

 セシリアのそれには、並の武芸者など足下に及ばないほどの切れ味があった。


 しかし。

 秀介は落ちてくる白刃を入り身になることでかわし。

「ふ――」 

 同時に手刀を放つ。


 鍛え抜かれた肉の刃が、セシリアの首筋の手前でピタリと止まった。

 もしも当たっていれば、頸動脈はもちろん、頸椎すらも砕いていただろう。


「……っ」

 セシリアのこめかみを流れるのは恐怖による冷や汗。

「ま……まだまだ。もう一本」

 そう言いながらも、緊張で唇がカサつき始めていた。喉の奥には激しい渇きがある。


「おうよ。これぐらいでを上げてもらっては困る」


 再々度、秀介とセシリアの間に距離が取られた。三メートル――刀持ちのセシリアに有利な間合いであることには間違いない。


 今度もセシリアが先手。

「キィィヤアアアアアッッ!!」

 鋭い発声と共に斬撃距離まで飛び込み、袈裟掛けに名刀を振り下ろした。


 避けにくい軌道を相手に、秀介が選んだ行動は半歩後退。

 斜め上から襲いかかってくる刃を鼻先でかわした。完全な見切りである。


 しかしセシリアは――かかった――と薄笑い。

 大刀を振り切った体勢のまま、大きく前進する。深く踏み込んだと同時に、手首を返し、秀介の股間めがけて刀を跳ね上げたのだ。


「ほう?」

 股の間を垂直に上ってくる凶器に対して、秀介の足が即座に反応した。


 独特な足捌あしさばき――波返し。

 膝から下を内側に捻り上げる動作は、本来、ナイファンチという型に組み込まれた移動法である。

 しかし、秀介の左の足裏は、セシリアの刀――そのみねをしっかりと捉えていた。


 片刃の武器が相手だったから可能となった絶技。

 軌道をずらされた斬撃は、秀介のズボンの太ももに触れただけだ。薄皮一枚斬ることさえ叶わず、明後日の方向へ飛んでしまう。


 そして――

 刀を跳ね上げた秀介の左足はそのまま弧を描き、セシリアの股間で急停止した。

「金的は女にも効くぞ?」

 意趣返しとも言える妙技。秀介がニヤリと口端を持ち上げた。


「化け物め」

 この時点でセシリアは、己と秀介の間に隔たっている実力差をはっきりと理解する。

 もはや距離を取り直すこともなく、とにかく刀を振り回すことにしたらしい。


 胴薙ぎ。

 面打ち

 小手薙ぎ。

 逆袈裟。

 表切上げ。

 脛払い。

 三六〇度、全方位、ありとあらゆる角度から秀介の身体に刃を打ち込んだ。


 ――しかし、だ。

「くっ――そ……っ!!」

 どれも外れる。笑ってしまうほどに当たらない。


 幾多の組手と実戦によって養われた体捌たいさばきが。

 十数年に渡って練り続けられた運足うんそくが。

 先人から伝えられた数多の受け技が。

 空手という格闘技が、刀という文明の利器から浅井秀介を守っていた。


 しかも、秀介の非凡さは、回避運動の最中に一撃必倒の攻撃を織り交ぜるところにある。


 胴薙ぎを後退で見切った瞬間に、セシリアの膝関節へ横蹴り――寸止め。


 面打ちを懐に入り込んだ上段受けで受け止め、鳩尾みぞおちへの正拳――寸止め。


 小手薙ぎに狙われた右手が、逆にセシリアを急襲し、二本貫手ぬきてによる目突き――寸止め。


 逆袈裟斬りをセシリアの左脇に回り込むことでかわし、アバラを狙って肘打ち――寸止め。


 表切上げは、斜め後方に跳び退って、刀が通り過ぎるの確認。ただの前蹴りではわずかに届かなかったから、爪先蹴りでガラ空きの腹部を突き刺した――寸止め。


 脛払いは前にした右足を抱え込むことでかわし、秀介の脛を払うために片膝立ちになったセシリアの顔面に下段回し蹴りを叩き込んだ――寸止め。


「はあ。はあ。はあ……な、なんという……」


 攻防一体。空手の理想像がここにある。

 息を上げるセシリアが最後に放ってきたのは、予備動作のまったくない刺突しとつだった。


「ふむ」

 秀介はそれすらも体を開いてかわし――深く深く、セシリアの背後まで回り込んだ。

 波打つマフラーを引っ掴み、真下に引いた。

 軽いセシリアはなんの抵抗もできずに宙を舞い、仰向けに倒れるしかない。


「――――っ…………くそ……ぅ……」


 青い空が見えた。流れていく白雲が見えた。そして……薄い逆光の中、足を持ち上げた秀介の姿が見えた。

 顔面へのかかと蹴り。

 そんなものを喰らえば、生きてはいられまい。


 ああ……この男……本当に強いんだな……。

 大きな踵が顔の隣を抜けていったのを横目に、セシリアはそう感嘆した。


 地面が踏みしめられたと同時、一方的な展開となった異種試合の終了を感じ取る。

 極度の緊張状態で刀を振り続けたせいか、セシリアの体力はすでに限界。立ち上がることさえできなくなっていた。


「はあ、はあ……負けだ。なにもさせてもらえなかったな……」

「いや。なかなかいい剣だったぞ。俺が立ち会った剣法家の中じゃ、四番目だったな」

「四番目か……ところで、私の剣を受けきったそれは……はぁ……なんという技術だ?」

「空手だ」

「カラテか……素手を戦いに使う人間なんて、初めて見た」

「おう? この世界には無手で戦う技術はないのか?」

「この手はなにかを創り出すためのものだ。戦いに直接使うものではない」

「……なるほどね。なら、地球人はこの世界の人間よりも暴力的なんだろうな。素手で人を殺すなんざ、確かに人間的じゃないよな」


 心地よい朝風の中で交わされる武術家同士の語らい。


 死闘を通して互いを認め合ったからこその光景――中庭に広がる穏やかな光景を。

「なんだ。あの二人、仲良くなってるじゃん」

 四階の開放廊下から眺め下ろしている者がいた。


「ちょっと妬けちゃうなあ」


 翼持つ神鎧アイギス蒼天の嵐打ちアクトマライトを着た空野真琴である。

 朝の空中散歩に出かけようとした矢先――秀介とセシリアが闘っているのを見つけ、眺めていたのだ。どちらかが怪我をするようだったら、止めに入るつもりだった。


「ねえ。そこのボーイくん。ちょっといいかな?」

 石の廊下を清掃していた給仕係の男の子を呼びつける。


 一〇歳かそこらの愛らしい少年だ。軽くカールがかった髪の毛をしており、将来はさぞや美形に育つことだろう。

 現人神である装着者に声をかけられて緊張しているのか、うつむいてモジモジしていた。


 真琴が中庭を指差しながら言った。

「あそこにいる二人にタオルと水を差し入れてくれるかしら。あと、あのでっかいお兄ちゃんには朝食を」


 少年が「んっ。かしこまりましたっ」とうなずいたのを確認し、真琴は微笑んだ。

 小さな頭を、手甲を付けた手で撫でてやる。


「お願いね。あたしはちょっと散歩してくるからさ」


 廊下の縁に立ち上がると、そのまま空中に身を投げ出した。

 蒼天の嵐打ちアクトマライトが翼を開き、引き放たれた矢じりがごとく、有翼の女神が青空に消える。


 そして、手入れの行き届いた花壇が美しい四角い中庭。

「おう?」

 不意に聞こえたキィィィィィィィイイイイイイイイイイイイ――という耳障りな音に秀介が顔を持ち上げ。

「なんだ。空野の奴、起きてたのか」

 仰向けになったままのセシリアと共に、大空に飛び上がった真琴を見送った。

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